十三 銀と墨
湖の底は、夜よりもなお深い闇だった。
水音すらなく、ただ停滞した静けさが支配する。
墨を流したような髪が揺れ、薄墨がゆっくり顔を上げた。
「……来たのですね、銀狐」
声は柔らかく、底冷えするように丁寧だった。
「忘却を救いと呼ぶか」
銀狐の声は鋭く水を裂いた。
「吾は違う。隣に立ち、もがく者と共に抗う。そう決めた」
銀の光が水中に奔り、眷属を焼く。甲高い声が弾け、墨の泡となって消えた。
薄墨は揺らめく髪を広げ、湖を黒く濁らせる。
「……白狐も、金狐も、天狐も。あれらは抗いをやめず、静けさを拒んだ。だから――私の手で葬った」
銀狐の体が震えた。
「なに……?」
「忘却は救いです。炎も、光も、大空の力も……すべては静けさに帰すべきもの。
彼らはそれを認めず、抗った。だから、私が終わらせたのです」
黒い瞳が大きく見開かれた。
「……汝か。汝が、あの者らを……!」
次の瞬間、銀狐の瞳はまばゆい銀に閃いた。
「許さぬ!」
光と墨が激突し、湖全体が軋む。
稲妻のような銀の奔流が闇を裂き、墨の雲が押し返す。
水底は嵐のように渦巻き、まるで湖そのものが怒りに震えているかのようだった。
薄墨はなおも揺るがない。
「人は必ず忘れる。あなたの名も、やがて」
その言葉に、銀狐の表情が一瞬だけ揺れた。
だが次の瞬間、鋭い声が闇を裂いた。
「忘れられようと構わぬ! 今を守ることが、吾の選ぶ在り方だ!」
銀の光が奔り、薄墨の影を真っ二つに裂いた。
闇は水中に散り、墨の雫のように消えていった。
湖底に、銀の光だけが残った。