十 祈りと拒絶
雨は衰えることなく、連日降りしきった。
川の水位は上がり、湖からあふれる水は田畑に流れ込み始める。
「畑が……全部駄目になっちまう……」
「家まで呑まれるんじゃねえか……」
村人たちは顔を青ざめさせ、神社へ集まって祈りを捧げた。
「どうか、どうかこの雨を鎮めてくだされ」
「湖が荒れませぬように」
境内の奥、白木の鳥居の下で銀狐が現れた。
水干の裾は濡れて光を帯びている。
「……助けるとは、何をすればよいことか」
その声は冷たく、雨にかき消される。
重三郎が前に出た。
「湖を鎮めてくれ。人の暮らしを守るんだ」
「だが、人間の田も家も、いずれ朽ちる。救いとは、何をもって救いと呼ぶ?」
「命を繋ぐことだ。お前だって命がありゃそれでいいって言ってたじゃないか。今はそれさえ危ぶまれてんだ」
「吾にはわからぬ。だから、吾は何もしない」
銀狐は背を向け、湖の方角を見つめた。
◇◇◇
その頃、村人たちは土嚢を積み、必死で水を防いでいた。
若者たちが泥にまみれながら袋を運び、老人も必死に手を貸す。
子どもたちまで小石を拾い集めていた。
重三郎も袖をまくり、泥に足を取られながら土嚢を運んだ。
杖を突いてはもたつき、痛む足を引きずりながらも、歯を食いしばって働いた。
「作家だからといって、筆ばかり握ってられん……村に生きてる以上、俺もここで動く」
雨は冷たく、容赦なく降り続いていた。
◇◇◇
夕暮れ。
銀狐は境内の高台から村を見下ろしていた。
人々が必死に土嚢を積む姿が、雨の帳の中で小さく光って見える。
その瞳は黒から銀に揺れていた。
けれど、狐は動かなかった。
◇◇◇
抗っても抗っても、雨はやまない。
土嚢は積まれても積まれても押し流され、畑は水に沈んでいった。
「もう駄目じゃ……この村も終わりじゃ……」
腰の曲がった婆様たちが泣き崩れるのを、重三郎は見てしまった。
胸が張り裂けそうだった。
◇◇◇
彼は杖を突き、土砂降りの中を神社へ駆けた。
境内に辿り着き、声を張り上げる。
「銀狐! どこだ! 頼む! 出てきてくれ!」
返事はない。
雨は石段を滝のように流れ、衣も髪もずぶ濡れにしていく。
「頼む……助けてくれ! 雨をやませてくれ!
湖を、いつもの穏やかな湖に戻してくれ! 頼む! どうか!」
重三郎は泥に膝をつき、額を地に打ち付けた。
いつもの飄々とした顔など、どこにもなかった。
ただ村を救いたい一心で、声を振り絞っていた。
雨を裂く羽音。
天狗が駆け降り、濡れた重三郎の肩を掴んだ。
「さぶちゃん! お前さんが先に病気になっちまう!
お願いだから今日は帰ってくれ!」
重三郎は歯を食いしばり、だが力尽きたように項垂れた。
とぼとぼと石段を下りる背中は、痛々しく小さかった。
その背を見送りながら、天狗は振り返る。
「……なんで助けてやらん」
社の奥に佇む銀狐は、瞳を黒く沈めたまま答えた。
「吾は、何もしない」
天狗は舌打ちし、雨を蹴った。
◇◇◇
湖のほとりでは、なおも村人たちが必死に作業を続けていた。
重三郎もその中に混ざり、泥に足を取られながら土嚢を運んでいた。
「……まだやれる、まだだ……」
だが、不意に足元を何かが掴んだ。
泥水の中から、墨のようにぼやけた獣影が現れる。
イタチのような姿をした野狐の眷属だ。
「いたい? ねぇ、いたい?」
甲高い子どもの声が、雨に混じって囁いた。
重三郎の体は、ずるずると湖の中へ引き摺り込まれていった。