ごめん、なにもしなくて
夏のホラー2025参加作品です。
雪山登山中、先輩が白い毛玉を見つけた。
はじめは子ウサギが丸まっているのかと思ったけれどよくよく見たら動物ではなかった。
モフモフとしていて柔らかく不思議な毛玉。
先輩は触り心地が気に入ったと持ち帰ろうとしたので、俺は気味が悪いからやめた方がいいと止めた。何かわからない物体だし、触れてはならないもののような気がしたから。先輩は気味が悪いってどこがだよ、と笑った。
♢
「だから言ったじゃないですか」
「なんか言ったっけ?」
「言いましたよ。気味が悪いから持ち帰るのはやめた方がいいって。今からでも山に戻したらどうですか?」
「そんなこと言うなよ。こんなに可愛いのに」
先輩はカレー皿に置かれた白い毛玉を指でつつく。毛玉はくすぐったそうに揺れた。
「そういう機関に任せるべきです」
「なんだよ、そういう機関って」
「そういう機関はそういう機関ですよ」
「なんだか馬鹿っぽいな」
毛玉は得体の知れない生物だった。
転がって移動したり、ふるふると揺れたりする。
口らしきものはなく、排泄する様子もない。
「水が少し減っていたから、植物みたいに水分を吸収しているのかもな」
先輩はそう言って、500mlのペットボトルに直接口をつけ、一気に飲み干した。
「先輩もさっきから水分をとりすぎですよ」
つい先ほども飲み干したのを見た。先輩とは俺が入社して以来5年の付き合いで、その間にこんな姿を見たことはなかった。なんとなく嫌な感じがする。
「なんかずっと喉が乾くんだよ」
「風邪ひかないようにしてくださいね」
♢
それから数日後、先輩が無断欠勤をした。携帯も繋がらず普段から仲の良い俺が様子を見てくるよう頼まれた。アパートを訪ねると顔色は悪いが笑顔の先輩に迎え入れられる。
「会社に行くのを忘れていたよ」
先輩は悪びれることもなく言い、手にしていた2リットルのペットボトルの水を一気に飲み干した。
「……先輩、水ばかり飲んでますが、何か食べてますか?」
「水があればいいから」
そう言って笑いながら開けた部屋の扉の向こうには異様な光景が広がっていた。
家具がなくなった部屋の中心に皿と毛玉。それを囲むように加湿器が幾つも配置され、床には大量のペットボトルが所狭しと置かれている。先輩は嬉しそうに毛玉の隣に座り、再びペットボトルの水を勢いよく飲み始めた。
俺はしばらく部屋の入り口で立ち止まったまま、どう対処するべきか迷っていると、毛玉がコロンと皿から転がりでてきた。
毛玉は少し大きくなっていて、ペットボトルの合間をコロコロと転がっている。先輩の奇行の原因はどう考えてもこの毛玉のせいだとしか思えない。
「……やっぱり毛玉を山に戻した方がいいんじゃないですかね。人と共存できる生き物じゃなさそうですし」
俺の言葉で毛玉の動きが止まった。
まるで人の言葉を理解しているかのよう。
「そんなことないよな」
毛玉が先輩の声を聞いて再び転がり始めた。
その姿を先輩は目を細めて眺めている。俺は身震いしたが、それは寒さのせいだと思うことにした。
――明らかに先輩はおかしいし、おかしいのはあの毛玉のせいだ。先輩の様子からして、あれは精神に作用する麻薬のようなものをだしているかもしれない。それなら今すぐここを出た方がいいのだろうけど……。
結局、先輩をそのままにしておけなかった俺は、体調が心配だからと家に泊めてもらうことにした。
先輩が眠ったら毛玉を持ち出し捨てるために。
♢
寒さで目覚める。
眠らないつもりだったのに、いつのまにか眠ってしまったようだ。
暗闇に目が慣れるまでしばらく待ってから、先輩が寝ている方に視線を向けた。
瞬間、叫び声をあげそうになり、慌てて手のひらで口を押さえる。
そこには淡く発光する毛玉がいた。毛玉から細い管のようなものがでていて、先輩の身体に繋がっている。まるでストローのように、先輩の身体から何かを吸っていた。先輩はたまに笑みさえ浮かべ何も気づいていない。
しばらくして毛玉が管を抜き、ゆっくりと転がり皿に戻った。
俺は寝返りをうつふりをして毛玉に背を向け身を縮める。
――ヤバいヤバいこいつはヤバい。
もう毛玉をどうにかしようなどという考えは消え去っていた。身体の震えが止まらないので寒いふりをして毛布を頭からかぶる。
――俺は何も見なかった、何も見なかった、何も見なかった、どうする、どうする、どうする、どうもできない、早く逃げるんだ、逃げろ、逃げろ……
混乱して思考がぐちゃぐちゃのなか、突然頭に鋭い痛みがはしった。それからズキンズキンと割れるような痛みにかわり、思わず呻き声をあげる。
そこに、キイキイと笑い声のようなものが混じった。
『臆病者は 長生き するよ ほら 今も 干からびずに すんだ』
脳内に響く子どものような高い声。
つむじからズズッと何かが抜けていく感触で、あの管が俺の頭に刺さっていたことがわかった。
あれは、管をとおして語りかけてきた。
干からびずに、と言うからにはこいつは体内の水分を吸って生きる生物なのだろう。言葉を理解するばかりでなく思考もよめるなら太刀打ちできるわけがない。
俺はしばらくあれが何者か考えたが、無駄だと悟り目を閉じた。
全てを放棄したら睡魔に襲われたので抗わずにそのまま眠りについた。
♢
先輩はあれから休職扱いになっている。
ある日先輩宅を訪ねたら毛玉が増えていた。
先輩は喜んでいるが、やはりアレは人の体内の水分を糧に育つもののようだ。あんなに逞しかった先輩が見る影もない。
普通なら次は俺かと恐怖する場面だろうけれど、なぜかそういった感情は起こらなかった。それは既に俺も操られているか、それとも逆らっても無駄だと諦観したからか。
「先輩、もう行きますね。また連絡します」
これが別れの挨拶になるかもしれないが、いつも通りの言葉をかけた。
先輩は顔を緩ませたまま手を振った。
外に出る。現実はまだ人間の世界でホッとする。
そのうち世界が毛玉だらけになるとして、それを止めるのが今しかないとしたら。
――もし俺が勇気があり機転のきく主人公だったら、一度諦めたけれど奮起し、人知れず世界を救い、先輩は元通りになって日常を取り戻せるのだろうな。
そんな物語を想像をしていると、つむじのあたりに鈍痛を感じた。これは恐れからか、それとも。
「……ま、俺は主人公じゃないからね」
二度目の放棄は少しだけ躊躇した。でもそれも慣れれば感じなくなるに違いない。
――人間の運命を背負うなんて無理無理。
俺はコートの襟をかき寄せ、足早にその場から離れた。
読んでいただきありがとうございました。
タイトルのまま、本当に何もしないのかよと思われたならすみません。ちなみにこの後輩は最後まで生き残る系です。
話に関係ありませんが、なろうに投稿をはじめて4年が経ちました。時が経つのは早いものですね。
これからも細々と書いていきますので、よろしくお願いします(^^)