悪役の世界を荒らす夢見る乙女
この世界を作った神が地上に魔法の一雫を落とすと、それはたちまち大地に染み渡り、地上にある草木や水、人間を含めた様々な生き物、そこにある全てのものに魔力を与えた。
この世界には魔法が溢れている。
かつては、過ちを犯した人間に怒りを抱いた神が、人間から魔法を奪ったこともあったが、今は神と和解し、人間は魔法を取り戻した。
この物語は、その魔法を取り戻してから約3ヶ月後から始まる──。
エヴァーグレースと名のつく広大な森に、その森を象徴する大きな湖があった。その近くに建てられた小さな小屋に、一人の男が住んでいた。
彼の名は、ヴィクター・グリーヴス。
かつてはその行いで世界を危険に晒した男だ。
だが今の彼は、すっかりその毒気を抜かれ、少しやる気がないだけの普通の男になっていた。
エヴァーグレースにはあまり人が出入りしない。ひっそりと森に住む彼の生活は、静かで穏やか──とは言えなかった。
「ヴィー!ごめんね!今日はちょっと遅くなっちゃった!心配かけちゃった?」
特徴的な赤毛の緩やかなウェーブヘアを振り乱して、ヴィクターが住む小屋に騒々しく飛び込んで来たのは、森の近くの町に住むセシル・ラヴェルだ。
ヴィクターは、小屋の中で椅子にかけて視線も向けぬまま眉をひそめた。
「…本当に、物好きな奴だな。別に呼んでない。」
かつては、いつもピッチリと撫でつけていた艶のあるブラウンヘアも、今はその艶を失い、伸びっぱなしで整えられることもなく、無造作に流されている。濃いブラウンの瞳は吊り気味で、普通にしていても怖く見られることが多い。
だが、このセシルは、そんなことを全く気にしていないと言った感じでズカズカと小屋に入り浸っている。
「…またそんなこと言って…ご飯もろくに食べてないんでしょ?」
そう言ってセシルはヴィクターの前にカゴを差し出した。そこから香る焼きたてのパンと香ばしい肉の匂いが彼の鼻をくすぐる。
彼は、こうしてセシルが定期的に食べ物を届けなければ、生きるのに最低限の食事しか摂らない。実際、彼が最後に食事を摂ったのは、前日の昼に同じようにセシルが持ってきてくれたものを食べた時だった。
「母さんと作った焼きたてのパンを持ってきたの!ほら、このチキンも美味しそうでしょ?我が家に伝わる秘伝のベリーのソースもあるし…これ見たらさすがにお腹空いちゃうわよね!」
セシルが手際良くお皿をテーブルに並べて、そこにパンや肉を切り分けて並べて行く。
そして、最後にカゴからとっておきと言わんばかりに深い赤味のある液体の入った瓶を取り出した。
「ヴィーはお酒好きなんだっけ?…これ持ってきちゃった!一緒に飲みましょう!」
「………………」
こんな昼間から?とか年齢はいくつなんだ?とかツッコミたい気持ちはあったが、ヴィクターはそれらを飲み込んで黙っていた。
セシルは、この物怖じしない性格と夢見がちな少女のような振る舞いから幼く見えるが、彼女と同じくらい騒々しい妹のクラリスが15歳なことを考えると、実際はお酒を飲んでも問題のない年齢なのかもしれない──とヴィクターは予想している。
彼女がこうしてこの小屋にちょくちょく顔を出すようになり3ヶ月ほど経つが、ヴィクターは彼女の年齢を知らなかったし、聞くこともしなかった。
セシルはカゴからグラスを二つ取り出すと、酒と思われる液体を並々と注いでいる。
「………おい、こんな昼間から一体どれだけ飲むつもりだ。」
「…え?ヴィーはお酒弱いの?意外。見かけによらないのね。大丈夫よ、ヴィーが飲みきれなかったら私がいただくわ。」
ヴィクターはそういうつもりで声をかけたのではなかったが、セシルは独自の解釈で彼をあしらった。とことん自由奔放な彼女だ。
「あ、やっぱりチキンがちょっと冷めちゃってるわね。」
セシルはそう言うと、指先から魔法を紡ぎ、その火でチキンの表面を炙っている。
その姿は、ヴィクターの前世で心に残っている、同じような赤毛を持つ少女に重なる。
──彼女も火に関する魔法が得意だった…
この世界は魔法に溢れていて、誰もが魔法を使うことが出来るが、それぞれ得意な魔法の属性というものがあり、苦手なものを補い合って生活をしている。
そして、その属性は身体に色として現れることが多い。その一つが髪だ。
セシルは特徴的な赤毛をしており、火の属性の魔力が強く現れている。
ヴィクターがその様子をジッと見ていると、セシルがその視線に気がついて顔を上げた。
そして、何やら頰を染めている。
「……もしかして…ベリー酒もホットがいい?」
「………………」
ヴィクターには、このセシルがいまいち何を考えているか分からないでいた。
今のどこに頰を染めることがあったのか、何故目が合っただけで酒を温める発想になったのかだ。
彼は何も答えずに静かに首を振った。
それを見たセシルは、ヴィクターの向かい側の椅子に腰掛けると、中身がたっぷりと入って重そうなグラスを持ち上げた。
「……それじゃあ、乾杯。」
ヴィクターもグラスを合わせることこそしなかったものの、グラスを軽く持ち上げた。
それを見たセシルは、レッドブラウンの瞳をキラキラさせて更に頰を赤らめていた。
そして、今だ──。
「……えへっ…ヴィー…あなたってよく見ると…本当にカッコイイわよねぇ…」
「………………」
セシルは、最初に「ヴィーが飲みきれなかったら飲んであげる」なんて言っていたのに、並々注がれたグラスを半分過ぎたくらいでとろんとした目になり、既に酔っ払っていた。
しかも、いつの間にか流れるように椅子に座るヴィクターの膝の上に乗り、彼の頬を撫でながら何やら訳の分からないことを言っている。
「ねぇ…ヴィーって今いくつなの…?」
セシルが質問をする。
ヴィクターは、普段なら流すところだが、ここで真面目に答えてもこの状態の彼女なら、後で殆ど覚えていない可能性がある。そう考えて、答えることにした。
「俺は今31だ。」
するとセシルは潤んだ瞳を更に輝かせて笑った。
「…じゃあ…ちょうどいいわね…」
何が丁度いいのか全く分からないが、セシルは嬉しそうにしている。
ヴィクターも、この機会についでに心の隅で少しだけ気になっていたことを聞いてみることにした。
「セシル…お前はいくつなんだ?」
「………私?…私は18よ…ふふ…いくつに見えてた?」
この国では成人は16歳とされており、大体その辺りの16歳から23歳くらいまでが結婚適齢期とされている。ヴィクターの予想通り、セシルはそのど真ん中だ。
わざとなのか無意識なのか、先程からヴィクターに押しつけている彼女の柔らかく、女性らしい身体を肩を掴んで引き剥がすと、その顔を真正面から覗き込んだ。
「…その年齢であれば、皆結婚相手を探す年頃だろう?特にこんな田舎町では…それなのにこんな所で、甲斐性もない男に油を売っている時間などあるのか?」
ヴィクターに顔を覗き込まれたセシルは、一瞬惚けていたが、すぐに嬉しそうに笑った。もしかしたら顔を赤らめているのかもしれないが、先程から既に顔が赤い為よく分からない。
「……だから…その結婚相手にヴィーがなってくれたらいいなぁって…」
「………………」
──どこまでお花畑な女なんだ…私に何を期待している?
ヴィクターは呆れて、顔を逸らすとセシルが中身を残しているグラスに口を付けた。
だが、それを見たセシルは何を思ったのか、そのグラスを奪うとヴィクターの顔を掴んで再び自身の方を向かせた。
「…ヴィー…私のこと嫌い…?」
そう言ってキスするように顔を近づけていく。
「………」
──……セシルに"こんな私とキスをした"などと言う経歴を与えてはダメだ。
ヴィクターは、ガタンと音を立ててセシルを抱えたままた立ち上がると、彼女をテーブルの上に寝かせて、その脚の間に入り、上に覆い被さった。
そして、彼女が着るスカートを捲り上げ、わざとらしくその脚を撫でる。
「お前が私に何を期待しているのかは知らないが、私のことをどういう男だと思っている?お前が嫌だと言っても、こういうことを無理強いをするような男だぞ。」
「………………」
こうすればセシルは幻想から覚めて、もうここへは来なくなるだろう──そう考えて起こした行動だった。さすがのセシルもこれには言葉を失っている。
──これで…さすがのセシルも私に幻滅しただろう…
ヴィクターは自分でしたにも拘らず、胸にちくりとしたものを感じながらセシルから再び目を逸らして離れようとした──が、その手を引っ張られ体勢を崩す。
「…何を…」
本当に動きの読めない女だ、とヴィクターが心の中でボヤきながらその顔を見ると、セシルは更にキラキラした目でヴィクターを見つめていた。
「……いい……いいわ……そう言う強引なところもカッコイイ……」
「………………」
ヴィクターは絶句している。
この男を絶句させたことのある者などこれまでに0に等しい。それをやってのけたセシルに、彼は白旗を上げたい気分だった。
「お前……酔っ払い過ぎだ。」




