人魚姫の裏事情
日に焼けた亜麻色の髪を持つ島国の姫はバルコニーから海を眺めていた。
美しい海は人の心を惹きつけるが、容易く人の命を奪う。
海の神秘に触れるのは危険なこと。
時々聴こえる美しい歌声に心を奪われていけないことは姫の生まれた島の掟の一つ。
雨雲を呼ぶ、風の匂いに姫は家臣を呼び命令を出す。
明日は婚約者となる予定の隣国の王子の誕生日。
王子の誕生日に設定されたお見合いの席は延期になるだろう。
婚約者の王子の国まで船で1日。
雨雲を呼ぶ空模様。王子の乗る予定の船の出港は延期になるだろう。
「海を舞台にする美しい物語。
もし海の王国が存在するなら地上も美しい物語が語られているかしら。
現実も美しいものにできるかしら」
姫は美しい海を眺めるのはやめて、室内に戻っていった。
****
嵐の日は家族団らんの日。
波から守る高い防波堤の中にある風と海水に強い建物の中で過ごすのが島の掟である。
王族が民に一番望むのは自然の怖さを知り、生きること。
自然の脅威と常に隣り合わせだが、自然の恵に恵まれている豊かな島。
島で一番丘の上にある一番高い美しい城は民の自慢の場所であり、島の象徴でもある。
回路が不安定な島国民の連絡の主流は鳥である。
鳩便が主流だが伝令の鳥の種類は豊富である。
姫は幼い頃に贈られた鷲を育て、忠実なる家臣としても家族としても大事にしている。
「テレス、お使いを。急ぎではないから、危ない時は休むのよ」
姫は愛鳥に手紙を託し、雨雲の晴れた美しい空に解き放った。
狩りが上手く、護衛もこなす優秀な鷲のテレスに託すのが姫にとって一番迅速で安全な連絡手段である。
「殿下の到着に合わせて宴の支度をしないと。ねぇ、一曲吟ってくださる?」
セレスが見えなくなったので、姫は宴の席の延期を家臣に命じた。
宴のために招いていた吟遊詩人に物語をねだる。
ローブで全身を隠した吟遊詩人が竪琴を奏でる。美声で唄う美しい物語。
うっとりと幻想の世界に浸るのは姫にとって幸せな時間。
世界を巡る吟遊詩人が語る物語は美しい。
現実主義の姫にとって幻想の世界の戯曲は現実を忘れさせてくれる唯一の世界だった。
うっとりしている姫の至福の時間は続かなかった。
「姫様!!大変です!!船が、船が」
兵が姫の執務室に飛び込んできた。
婚約者の王子のための準備は姫に一任されている。
幻想の世界から現実に戻され、ゆっくりと目を開けた姫は侍女に目配せした。
「落ち着いて。嵐に耐えられる船の技術だけでなく、嵐を操る舵技術を持つなんてさすがねぇ。でもうちにはいらない。必要としないもので劣っていても何も問題ないわ。水でも飲みなさい」
「違います。王子殿下が海に」
侍女に渡されるグラスの中の水を一気飲みした兵の報せに、姫は呼吸を忘れた。
吟遊詩人を見ると首を振っているので幻想ではなく現実と認識し、思いっきり息を吸った。
「なんですって!?殿下だけ行方不明って家臣は何をしていたの!?嵐の中、一人だけ船から落ちるなんて素人なの!?救助の手筈はいつも通りで、人員は増やして。私もすぐに行くわ」
漂流した船がたどり着くのはよくあることなので救助と捜索手段を兵達は知っている。
ただ今回は初めて体験する非常事態だった。
「うちの領海で殿下が海に落ちて行方不明なんて外交問題よ。救助しても応対を間違えれば外交問題。うっかりするなら自国の海域にしなさいよ!!鳥達を全部飛ばして、殿下が見つかれば王族に報告を」
姫は島国より大きな隣国出身の王子を迎える準備を止めさせ、王子の捜索に人員をあてる。
城で飼う鳥達も捜索のため伝令用を残して飛ばす。
動きやすい外出着に着替えた姫は王子の捜索のために足を急がせる。
「姫様!!」
「緊急事態よ。お祭りの準備をしてくれたのにごめんなさい。日を改めることになるわ」
「人命救助優先です。お気になさらず」
大事な姫の婚約者の歓迎の意をこめて祭りを準備していた民に謝り姫は指示を飛ばす。
「姫様!!いました!!お越しください!!」
岩場に倒れているびしょ濡れの王子に姫は駆け寄る。
岩場に流されたのに傷がない王子の運の良さに感心しながら、王子に触れる。
「脈は問題ないわ。城で医者に見せれば、あら?」
王子の目がゆっくりと開き、姫は意識が戻ったことに安堵の息を吐く。
「ご無事でなによりです。今は休んでくださいませ」
姫は優しい微笑みを意識して浮かべ、優しく声を掛け王子に毛布をかける。
「起きれる。ここは、」
「挨拶は正式な場にしましょう。御身が一番、許しもなく触れたことは謝罪致します」
「殿下!!ご無事で!!」
王子の発見を聞いた家臣達が集まってきた。
姫は感動の再会の邪魔をしないように礼をして王子から離れた。
「準備をするように伝えて」
姫は王子を休ませるための手配を整え、立ち去った。背中に送られる視線には気付かない。
活動的なお姫様は一般的なお姫様のイメージとは違う。でも国のため民のために生きているのは同じ。もちろん民に愛されているお姫様はきちんと教育を受けてきたため王族としての資質は充分に備えている。
民との距離が近く、感受性が高いのは長所でもあり、短所でもある。
***
王子の体は問題なく、お見合いの席は滞りなく終わった。
「外交問題にならなくて良かった。いらっしゃい、テレス。ご苦労様」
お見合いが終わりお茶を飲んでいる姫は窓から入ってきたテレスに手を伸ばした。
肩にとまったテレスに優しく微笑む姫は王子に興味を持てなかった。
お互いの気持ちに関係なくすでに決められている婚約である。
先程、王子のエスコートを受け、ダンスを踊り過ごしたが何も心に響かなかった。
「うっかり者の王子様に惹かれるなんて、どんな物好きよ…」
姫にとって外交問題をおこしかけた王子の印象は悪い。
最初に受けた印象を変えるのは難しいものである。
王子と姫が一目で恋に落ちる物語のようにうまくいかないものである。
お見合いの席で見目麗しい王子に姫が惹かれることを期待していた侍女のことを知っていたが、期待に応える余裕は姫にはなかった。
****
「姫様!!姫様!!」
姫の部屋に家臣が飛び込んでくることはあまりない。バタンと扉の閉まる音を聞き、いつも落ち着いているのに珍しく興奮して息を切らせている侍女を落ち着かせた。
裸の少女を王子が連れてきたという報告に姫は眉をピクリと吊り上げた。
「全裸で記憶がない少女を保護?護衛の配置さえすれば、殿下の好きにしてあげて」
姫は侍女の報告に問題ばかり運んでくる婚約者に匙を投げた。
晩餐の席で会った裸の少女を保護した王子が姫に向ける態度は変わらなかった。
「道理さえ守っていただければ構いません」
「美しい姫の前では理性を保つのが難しい。どうすれば愛してくださいますか?」
「時を重ねれば育まれるものではなくて?」
政略結婚なのに愛を求める王子に姫は微笑み受け流した。
時間ができた姫は服を着た真っ白な肌を持つ美しい少女が王子に向ける瞳を見て笑う。
「殿下は悪い男ねぇ…。学がない美しい少女。体は教えたことは吸収するようね。殿下の国は薬学が発達しているけどまさか…」
わざわざ城で保護する必要のない少女の世話をする王子。
記憶を持たない少女が思い出すまで孤児院に預けることもできるが王子や王子の家臣が甲斐甲斐しく世話をしているので姫は提案をしなかった。
「同じ王族であり、互いの文化を学んでいるから、最善を導き出すことも容易いはずなのに。まぁ、仕方ないかしら?」
少女は気まぐれに優しさを施す王子に夢中である。
姫は容姿端麗な王子よりも顔を隠した吟遊詩人の奏でる戯曲のほうが好みである。
「姫様、よろしいのですか!?」
「頼まれてないし、私の民ではないもの。殿下の庇護にあるなら必要ないでしょ?」
風が運んだ吟遊詩人の奏でる音にうっとりしていた姫は侍女ほど二人に興味を持てない。
美少女と王子の仲睦まじい様子に不快を隠さない侍女が外交問題に発展させないように姫は不干渉を命じる。
姫は少女に挨拶するつもりはない。
頼まれない限り二人と時間を共にするつもりはなく、気まぐれに静観するだけである。
「姫様、こちらにいましたか。お時間があるなら散歩でもいかがですか?武術は得意なので護衛は私にお任せを」
少女と話していた王子が姫に気付き、近づいてくる。
まだうまく歩けない少女を椅子に残しているのに気にかけない王子。
姫は微笑んで、王子の誘いに頷く。
姫には少女の心よりも大事なものがある。
姫を睨む少女に気付いても、愛する民達のために婚約者のエスコートを受け入れ、仲睦まじい姿をみせるのが役割である。
「晴れの日は民の活気が凄い。海という自然に守られるが時代は変わっている。取り残されないように、まずは警備は見直したほうがいい」
海岸沿いを散歩しながら、王子の話を姫は聞く。
軍事に関しては姫より王子のほうが優れている。
姫は初めて王子に心が動いた。
「幼い少女を好みに育て、妻に迎える話をご存知?」
「姫以外と縁を結ぶつもりはありません。私は姫に夢中ですので」
王子は姫に甘い瞳と声音を向ける。
姫は同じものは返せないので微笑み返す。
王子は姫と少女に向ける眼差しの温度差は大分違う。
少女が王子に向ける眼差しはどんどん熱が上がっている。
「歩けるようになっても、話せないお嬢様かぁ」
辛そうに歩く少女を支える王子を姫は遠くから眺める。
おぼつかない足取りの少女がヒールの高い靴を履き、優雅にダンスを踊るのは難しそうである。
美しさだけで王族の隣が手に入るほど世の中甘くない。
「どんどん熱に溺れていくお嬢様。反して王子様は変わらない」
王子に世話をされる、王子に恋している少女。
食事は手づかみ、歩くのはフラフラ、コルセットを嫌がり子供用の服か夜着しか着ない。
姫にとっては珍獣のような外国人だが、周囲は違う。
何もできず世話されるだけなのに、身の程知らずの嫉妬心を表現してしまう弁えていない少女に家臣達の視線は厳しいものに変わっていた。
「記憶がない少女が元気なことは喜ばしいけど、誰もが異文化を受け入れられるものではないのよねぇ。負の連鎖しか生まれないなんて」
少女を取り巻く環境の変化に姫は無関心でいるわけにはいかなくなった。
「恋に夢中な姿は滑稽だけど、可愛らしい」
干渉しようとする家臣を諌めながら、二人を気にかけるようになった姫はモラルを守るなら恋の成就を見守るつもりでいた。
「現実は物語のように美しくはありませんのねぇ」
「姫?」
姫は立場上応援はできないが、こっそりと見物を楽しめない状況になりつつあった。
王子は少女を突き放さず、態度が変わらないため周囲の不穏な雰囲気がどんどん悪化している。
「うちの姫様がいるのに」
「小娘が」
家臣達が姫を大事に想うのはありがたいが、今は愛の重さが迷惑だった。
「言えない。でも、ありがたいことだし、皆の気持ちも理解できる。私が大事にするのは悩むまでもないわ」
娯楽と家臣の心ならどちらを大切にするかは簡単だった。
姫は王族として劇を楽しむのをやめ、きちんと対処することを受け入れた。
「私が引導を渡すしかないかぁ」
「姫?」
「ねぇ、殿下」
少女が見ているのを確認し姫は王子に口づけをねだる。
重なる唇に少女の瞳は潤むだろう。
現実を知らない少女が王子に夢を見て、真っ暗闇の中の泥沼に落ちてしまうのは憐れに思えた。
ひそかに応援しても同盟のため姫から王子を譲ることはできない。
「姫?」
口づけの雨を落とす王子の胸に姫は顔を隠す。
話せない少女は運が悪かった。
もし王子と少女が惹かれ合っても結ばれるのは難しい。
出会いが王子や婚約者の父が統治する国ではなければ違ったかもしれない。
記憶はなくても真っ白な肌色の少女は異民であるのは明らかである。
異民族が結ばれるのは愛だけでは難しい。
価値観のすり合わせだけでも大変なのに、王族に選ばれたなら周囲を認めさせ、蹴落とされない能力が必要である。
無知で視野の狭い少女は難しそうである。
おおらかな少女は王子以外から向けられる感情に無関心であり、危機感がない。
王子は少女に社交界で戦うための力をつけるつもりはなさそうである。
保護した記憶のない少女を王子が選べば波紋を呼ぶ。
裸体の少女を従者を侍らす王子が偶然一人の時に保護したなんて不信すぎる。
漁師や海の見張りが仕事の兵が保護したならともかく。
王子の少女への優しさは中途半端である。
「従者が保護した、美しく着飾った少女をお忍びで偶然目にした王族が一目惚れならドラマチックかしら」
「姫?」
「なんでもありません」
姫の頭の中で少女と王子が結ばれる物語を綴っても現実では難しい。
物語の鍵は王子の決意と行動力である。
姫の見える範囲で無知な少女が利用され、飼い殺されるのは不快で堪らない。
城ではなく、町に愛人として囲うなら子供さえ作らなければ姫は見ないフリをしても良かった。
王子が少女に向ける視線に相変わらず甘さはない。
しばらくして、少女は姿を消した。
「絶望で、海に身を投げるなんて…。そこまで追い詰めるつもりはなかったのに」
少女が海に身を投げたと知らせを受けても、真っ暗な夜の海では捜索できない。
翌朝探しても少女は見つからなかった。
姫は少女が身を投げただろう場所に弔いの花を投げた。
ワインを飲みながら、少女の命を奪った荒れ狂う波を見つめた。
哀愁漂う姫の隣に王子は立った。
「殿下も飲まれます?」
「是非」
王子のグラスにワインを注ぎ、姫は王子ではなく夜の海を見る。
「記憶を戻して帰れたのか」
「え?」
「吊り橋効果は現実に戻れば消えるもの」
少女の好意に王子が気付いていたことに姫は驚く。
海に熱い視線を送る姫の視線が王子に向けられる。
「まぁ?経験者は語る?」
「吊り橋効果で恋してくれますか?」
甘く微笑む王子に姫は首を横に振る。
「いいえ。吊り橋を渡るなら落ちたらどうするか考えておきますから」
「安全第一ですか。どんな人が好き?」
「乙女心を弄ばない、誠実なタイプ?」
「誠実とは難しい」
「愛など求めていませんのでご心配なく」
姫は王子の肩にそっと頭を預けた。
「自然は美しい。美しいけど怖い。この美しさを心から愛でるためには安全対策が必要です」
しなだれかかる姫に王子の頬が緩む。
「中途半端は嫌いです。あの娘への態度は不快でたまりません。全力で囲うか突き放すか、どちらかにして下さいませ」
ただ姫の唇からこぼれるのは、甘さの欠片もない言葉。
「傷つかずに生きることなど無理とはわかってます。でもあえて期待を持たせ、想いを深くさせ、心をえぐった。命を捨てるまで追い詰めたあの娘のことを私は忘れるなど許しません」
「姫の心を奪った恋敵になるとは」
「うちの海域でなければ、あとを追っても構いませんよ」
「姫に悼んでいただけるなら心が惹かれます」
「殿下でしたら悼みませんし、花も捧げません」
「肌が白く、何も知らない少女は海の一族。生きる場所に戻っただけだから、」
「真実はあの娘にしかわかりません。でもきちんと教えれば結末は違ったかもしれません。想いを告げる手段もなく、恋心はどんどん深くなっていく。恋を知らない私は想像しかできませんが、気持ちが伝わらないもどかしさならわかります」
姫の涙が海に落ちていく。
姫は肩を抱き、慰めの言葉をかける王子ではなく、亜麻色の髪を揺らすあたたかい風に心が癒される。
王子に恋焦がれ、海の泡になって消えた少女。
少女に心を砕いたのは王子の心を奪った婚約者の姫だった。
人魚姫が救った王子は恩人を勘違いして恋をした。
人魚姫は王子を殺さず海の泡になったのか、風の精霊に姿を変えたのかは誰も知らない。
恋のために命をかけた少女の物語は美しく語り継がれている。
吟遊詩人の美しい唄が響く。
姫は目を閉じてうっとりと聞き入る。
「あの子の目元は君に似ていたかもしれない。だから放っておけなくなった」
姫はわが娘を抱く夫となった王子に現実に戻された。不粋なことをした夫の足を思いっきり踏んだ。
「女心の勉強をして!!娘の教育は任せられない」
見守るのではなく、きちんと口に出すことを姫は覚えた。
姫は罪を忘れないように、少女が海に消えた日には花を捧げた。
王子は家族で過ごす日を作ってくれたことを少女に感謝していた。
告げれば愛妻の機嫌を損ねるので口には出さないが。
成長した娘に姫は吟遊詩人の唄う人魚姫の物語を楽しんだ後、真顔で語り出した。
「美しいのは戯曲だけよ。悪い男に引っかかっては駄目。それに察してほしいと願うだけだと後悔するわ。きちんと言葉で伝えて、行動した方が後悔が少ないわ」
「お父様のような悪い男に?」
楽しそうに笑う娘に姫は頷いた。
「どうしても手に入れたい恋ならきちんと足掻きなさい。運も必要だけど、覚悟と努力があれば補えることもあるわ」
「この娘にはまだ早いよ。嫁がず、ずっとここにいればいい。恋を知らない君が教育するのは向かないんじゃ」
「実体験はなくても知識はある。恋するために旅に出てもいいけど、モラルに反するから無駄よ」
人魚姫の物語の中で王子の心を奪った姫だけは恋を知らなかったと知る者は少ない。
現実主義なお姫様は最初にやらかしすぎた王子様に恋はできなかった。
それでも程よい距離感で過ごすための努力は続けた。
姫が王子に対して積極的になったのは人魚姫の前だけだった。
恩人に恋したはずが勘違いした恋の成就を選んだ王子の恋は叶わなかった。
海に落ちても命を助けられ、恋した相手は婚約者。
誰よりも運がいいのは王子だったかもしれない。
運のいい王子は幸せを手に入れたが、欲しいものを手にすることができなかったことには生涯気付くことはなかった。