特別な存在の話
「穂香にも夢があった。医者になることだった。動機は自分という存在を忘れてほしくないというもの。だから恋愛もせずひたすら勉強した。恋愛に打ち込んでしまえば夢は忘れてしまう。夢に没頭してしまえばいつか自分は嫌われてしまうかもしれない。価値観のズレ、相手の都合、自分にも何が起こるかわからない。相手がいるかぎる心変わりはつきものだ。でも夢は嘘をつかない。願えば叶う。あきらめさえしなければ夢は叶う。だから彼女は医者になる夢を追い続けた。しかし、ある男に恋をした。そんなはずないと思いながら惹かれていく自分がいる。最初は何気ない興味から始まった。優しい人だとか顔がタイプだなとかそんなもの。そのうちお互いどんな人間かが分かりあって共感し尊敬し、そして心通わせた。周りが見えなくなった。夢なんてどうでもいいと思った。この人と一緒にいれたらそれでいいとお互いがそう思うようになった。そして激しく愛し合った。そして子を授かる。なんとも言えない幸福感。夢なんてどうでもいいと思った。この子が元気に育ってくれたら。この子が健康ならそれでいいと思った。やがて子は成長する。そして自我に目覚める。自分の居場所はどこか、生きる意味はなにか、幸せとは。そんなこと考えなくても親はいつでも守ってくれた。だから安心した。ずっと守ってもらえるんだ。何も考えなくていいと思った。この場所に居れたら安心だ。しかし、親の様子が変わってきた。おかしい、何かがおかしい。どうして働かなければいけないのか。お金を稼ぐためか。なぜお金が必要なのか。食べるためだ。親が食べさせてくれたじゃないか。いつまでもそんなわけにはいかないだろ。自立しろ。社会に強制的に追いやられた。勉強しろ。将来が大事。何かがおかしい。この場所に居れば安心するはずだった。守ってもらえた。成長と共に孤独感が生まれた。親は放置した。そうだ、やっぱり人間は一人なんだ。親も友達もいつか離れていく。そういうものなんだ。
恋をした。恋人も離れていった。それも作り物だった。なんだ、そういうことか。だったらまた夢を見よう。どうせなら自由がいいな。自由な医者になろう。それでもお父さんはそんなものにはなれないって。夢なんて叶わないって言ったな。大丈夫。もうお父さんのことは信じてないから。お母さんの記憶もない。自分だけを信じるよ。穂香はずっとそう思っていた。愛情と友情は両立できると思っていた。無理なんだ。みんな迷いながらもどもらかを選んでるということ。夢もそう。夢を選んだら何かを失うんだ。だから失いたくないから夢を捨てたんだ。親達は恋愛を選んだんだ。お父さんもお母さんも悪くないよ。仕方なかったんだ。好きな人と一緒にいた方が幸せさ。本当かな。幸せかな。あの人は本気で変わらず愛してくれるのだろうか。何も変わらないことなどこの世にあるのだろうか。何かを手に入れるということは何かを失うということでしょ。両立なんかできない。確かにそうだ。
穂香はきっといつか裏切る。そう思っていた。それは真実だ。穂香は幼少期に母親を亡くし、自暴事業で酒浸りの店長に育てられた。そして君は幸いながら両親がいる。しかし、その両親に虐待される始末。頼るものなんて何もないんだよ。私はね、先生に教えてもらった人狼ゲームだけが唯一の楽しみだった。だから決めたんだ。将来の夢は人狼になることだって。でもなれなかった。夢は叶わなかったんだ。あきらめなきゃいけない状況もあるんだ。運命には逆らえない。人狼になれないという運命。挫折したよ。でも一筋の光が見えた。君の存在だ。私を選んでくれた君の存在は特別なんだ。君なら私が夢見た人狼になれる。穂香もきっとわかってくれるはずだ。決めるのはいつだって自分自身。孤独と友達になれ。自分を信じろ。世間はあてにならない。自分だけを信じろ」
一輪の花が揺れる。
「穂香のことは忘れる。俺が悪かったよ。アラックス」




