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青年よ念仏を唱えよ!

作者: あとう かずお


「埼玉のハイウェイ


涼しげな風に


肥やしの香りほのかに漂い


向こうに見ゆるは提灯の灯り


私の頭は重く目眩がする


休息が必要だ」









 ここは東北自動車道

深夜のハイウェイ

BGMはイーグルスのホテルカリフォルニア

右ポケットにはワルサーP38

でもそれはパチンコ屋で取ったおもちゃの景品

左ポケットには丸山健二の小説

でもいつも読むのは少年ジャンプ

ケンシロウよりもラオウが好きで

きょうも故郷探している


 俺の名はスティーブ。

いつもスティーブと名乗っているものの誰もそうは呼んでくれない。

俺はスティーブ マックィーンという銀幕の中にいる男優をウェアリングしているだけなのは自覚している。あくまでそれは自分の理想でありどうしても短足でずんぐりむっくりの自分とあの銀幕の中を動き回る男優とは似ても似つかない。

 そのためか酒の席で気心の知れた友人たちからは、、お前スティーブ マッコイなんだろ!

いやスティーブは面倒くさい!スティーブは取っちまえよ、マッコイがぴったりだ。


なあマッコイ(笑)


そういう訳でそれからはマッコリならぬマッコイと呼ばれている。

だから俺はスティーブではないのだ。

マッコイなのだ。

そしてもちろん日本人だ。


でも俺は別にそんなことは気にしていない。




 あれは狂乱のバブルも終わってしばらくした頃だったと記憶している。


私は出張先から愛車を飛ばし深夜の東北自動車道を都内に戻ろうとしていた。都心のマンション一人暮らしにも随分慣れたものだ。

帰りが遅くなっても文句を言う人は誰もいない。

何時に帰っても気を使わずにいられるという気楽さは孤独であることと引き換えに手に入れた贅沢だ。


相方とも別居してからというもの8年余りが過ぎていた。

いまだにマッコイは電子メーカーのサラリーマンを続けている。

ネクタイとスーツ、名刺という誰から見てもわかるように繕った出で立ち

こりゃまさにコスプレだ。

コスプレという表現以外に何と言えばいいのだろう。


 東北自動車道はすでに岩槻あたりだろうか?

時が過ぎて行くにしたがって

なぜか現実感が薄れていくように思えた。

「何か調子が変だな!今までの疲れがここに来て出ているのだろうか?」

頭がますます重くなり口の中も乾いて来ていた。

カバンの中から飲みものを取り出そうと探ったがカバンの中にあったジンジャーエールのペットボトルは空だった。

喉の渇きとともに支えようのない疲労と虚無感が彼を襲った。

「もうハンドルを支えるだけで精一杯だ。

都内には戻れそうもないのでとりあえず高速を降りよう。

安息の地があるはずだ」

岩槻IC出口200m先の看板が見えたので急いでハンドルを左に切り東北自動車道から下道へ国道16号線へと下って行った。


 どこまでも続く田園地帯と活気のない街並み

「やけに暗いな、、風景が違うぞ?

これは国道16号じゃない、、まるで荒野のようだ!

やはり疲れがひどいようだな、、きっと間違えて旧道にでも入ってしまったのだろう」


 10数年前の話しだが、カリフォルニアに住んでいる友人宅訪問も兼ねて妻と一緒に旅をしたことがあった。レンタカーを借りカリフォルニアのハイウェイをロスアンジェルスからサンディエゴまで走り続けた。

夜のハイウェイから見える風景はどこまで行っても砂漠ばかりで真っ暗だった。

それは砂漠といっても絵に描いたような美しい砂の砂漠ではなく赤茶けて雑然とした石ころだらけの荒野と言ったほうがいい。

この荒野にはかってはならずデスペラードたちが闊歩し支配していた土地なのだろうと勝手に想像できるようなところだった。

しかしここはあくまで埼玉であってカリフォルニアではない。

埼玉県のどこかなのは確かだ。

おそらく私の頭の中でカリフォルニアと埼玉とがオーバーラップしていたのだろう。

だんだんと現実が遠いものに思えてどこか見知らぬ土地に来てしまったような感覚を覚えていた。

 サウナかスーパー銭湯、、あるいはちょっとした喫茶店やカフェでもあればそれでいいと車窓から流れ行く風景を眺めていた。しばらく暗闇が続いていたが突然田舎によくあるような街並みが現れた。

しかし通り沿いに見えるのは、、「何?カッパの絵だって、、黄桜、そしてハトのマーク草加せんべいも」

「何なんだ!河童や鳩の看板ばかりじゃないか!」

そして先に進むにつれて街の灯も看板もなくなって行って、いつの間にかほとんど明かりのない暗い田舎の田園風景に変わって行った。

通りの両サイドに広がる視界は田畑というよりは暗黒の大海原かジャングルなのではないかという錯覚にとらわれてしまう。


「一体ここはどこなんだろう、、」

 しばらく続く暗闇と静寂とタイヤの音、、、、、このまま暗闇のさらにその向こう側、、自分の感覚も思考も薄れて行き自分という存在が彼岸の彼方に持ち去られてしまうのではないかと恐れることがよくあるのだが、そういう時には必ず恐れという心の自動ブレーキがかかり始める。 

 そして生きることの意味を必死に探し始めるという断続的な脳内ゲームが展開されるのだった。




 すると突然意図されていたかのようにカーラジオから静寂を破るような不愉快極まりない声が聴こえてきた。


 そういうものだ。

己が作り出した創造は何か外側のアクシデントにいともたやすく破壊される。

しかも誰かに意図されていたかのように。


 ラジオのDJにはよくありがちな軽薄なノリと喉元から出てくる浅い声は九官鳥のようにハイテンションだ、、そして聞いたこともない、そしていつ消えて忘れ去られてしまうかもわからないようなこの放送局。

この遠くから聴こえくるような突然消えそうなノイズ混じりの不安定な音量とトーン、、、おそらく海賊放送なのだろう。

「カモーン!こちらパイレーツステーション埼玉!

みんな元気でやってるかい?

いや〜最近みんな疲れてるね。

ハルマゲドンも近いし日本お先真っ暗!

ノストラダムスさんの大予言当たるのかな?

1999年はまだ先だけどおいらまだ独り者だから結婚できるまでまってておくれよ〜お願いだからさ〜!

東北自動車道も県道も不景気で灯は真っ暗闇!

こんな呪われた夜には事故を起こさないように気をつけて運転してくださいね。

次のリクエストは、、ななな何とアンゴルモアの大王さまからだよ!

、、じゃなくて、、

つけ麺大王さんからのリクエストで、、、

呪われた夜!by イーグルス」


 ラジオから流れるサウンドを聞き流しながらしばらく走り続けた。

通りを外れた街灯のない暗闇の向こうに小さく赤いネオンが光っている。

「おっ!あそこにネオンサインが見えるぞ!

あれはよく見ると温泉マークじゃないか?

しかもラ、、ラドン鉱泉と書かれている。

こんなところにラドン鉱泉があるなんて!

とにかく行ってみよう」


ネオンサインとはなんて人の安っぽい下心をくすぐるのだろう。








「お寺の鐘が鳴り

彼女は戸口に立っていた

ボクは問いかける

ここは埼玉かはたまたカリフォルニアか

すると彼女は薄笑いを浮かべ部屋へと案内した

廊下の向こうからは 念仏の声が聞こえる

 ようこそ カリフォルニア旅館

ここは辺鄙な場所 まだ牛や馬が歩いている

ここは埼玉県 大字カリフォルニア

佐山茶しかありませんが おくつろぎくださいませ」








 やっと休息できるかもしれないという安堵感とともにそのネオンに近づいて行くとどうやら東北地方にあるような木造で裸電球の湯治宿のようだった。

この辺りは田んぼばかりでそばに立っている小屋には牛や馬がいまだに繋がれていた。

湯治宿の入口を見ると「カリフォルニア旅館」という古臭い看板がかかっている。

「カリフォルニア旅館だって、、

ここは埼玉県なのにカリフォルニアなのか?」

住所をよく見ると確かに

「埼玉県大字カリフォルニア」とも書かれていた。

納得できるようなできないような、

でもこんな冗談ちょっと無理だよな、、、

そんなことはどうでもいいからとにかくここで休むことにしよう。


朽ち果てたような木造の宿泊棟

今にも切れそうな裸電球

鎮座する大きな招き猫

名前知れずの地元女性演歌歌手が写っている破れかけたポスター


半分壊れかけた入口には着物姿の30代前半ほどの女性が立っていた。

どうやら彼女は私に向かって手招きしているようだ。別にほっぺたを抓らなくても現実なようだが、やはり疲れからか非現実の世界に迷い込んだ気分だ。

見ず知らずの中年男をやすやすと迎え入れていいものなのだろうかと不思議に思ったが、私がここにやって来ることは誰かに事前に知らされていたかのように彼女はそこで私を待っていたのだった。

 

名前なんぞはどうでもいいが礼儀として一応聞いておいて損はないと思うや否や彼女は静かに挨拶をし名乗った。

彼女の名は由紀子だった。

 私は無言のままで靴を脱ぎ、薄暗い裸電球の続く長い廊下を彼女に案内されるがままに建物の奥へと入って行った。

長い髪に半分ほど顔を隠しその隙間から見える謎めいた薄笑い。

彼女は美しく魅力的でもありまた怪しくも思えた。

狐に化かされているような気分だ。

いや彼女は実は狐でそのうち正体を明かすかも知れないとか想像したりもしたが

結局は彼女はここの若女将なのだろう。




「ナンマンダブナンマンダブ、、、」

薄暗い廊下の奥からは地の底からわき起こるような念仏の声が聞こえて来る。集団で唱えるその念仏が折り重なり倍音となって旅館全体に響きわたっている。

彼はこの異様な状況に不安を感じて若女将に問いかけた。

「いったいこの念仏は何なのですか?」

若女将は何も言わずに薄笑いを浮かべていた。

「横顔は素敵なんだが、、変な女だな!」


「ぬるいラドン鉱泉に見ゆるは


ステキな曲線美の背中


イタコのお婆ちゃん 口寄せしてください


加齢臭を出して盆踊りを踊るもの


草加煎餅を食べる少女


諸行無常の鐘が聴こえる」







それに合わせたかのように不安な鼓動もだんだんと大きくなって行くのだった。

私は決して不安神経症ではない。

私はそんな類の人間ではないのだ。

極めて現実的で目に見えることしか信用しないただのつまらない男。

ただ疲れているだけなのだ。

何故こんなところに来てしまったのか理解はできないがこれは確かに夢ではなく現実なのだ。

それともこれが現実であると認識する夢の中にいるのだろうか?

確信が持てない。

いや疲れているだけなのだ、、私は。


湯治場の軋んだ入り口の戸を若女将が開けると湯けむりの向こうに老人たちの丸い曲線美の背中が並んで見えた。


念仏の声の正体は彼らだった。


老人たちが唱える念仏


それは


人生の結びのための祈りであり


それは人間にとって逃れようのない


死という変化を迎えるための準備


それを絶望と捉えていいのか


人間の定めなのか?


よくわからないが念仏は諸行無常の中で生きることへの救済手段なのだろう。


その老人たちの中心にはさらに背中の丸まったイタコの老婆がいた。


おそらく老人たちにあの世についてのレクチャーでもしているのであろうか?


おそらくもうすぐそちらに行くからよろしくな、、 と祖先への挨拶でもしているのではないのだろうか? とにかくまだ自分には当分は関係なさそうなので若女将に案内されるがままに廊下を進んで行った。






 脱衣所と休憩室を兼ねた広間では混浴のため女性だけでなく男性も入り乱れている。


彼らの多くは盆踊りに興じていた。


そしてひとり草加せんべいを美味しそうに食べているおかっぱ頭の少女が目に入った。その子も着物姿、、おそらくこの子は一緒に湯治に来た両親を待っているのだろう。


ボクはその女の子の存在についてのアリバイを確認したかったのだ。


「お嬢ちゃんいくつ、、お母さんは、お父さんはどうしたの?」


するとその子は寂しげに答えた。


「5つ、、でもずっとここで50年以上もお父さんを待っているよ。


お母さんもお父さんもまだお風呂から出てこないよ。


だから寂しいよ、、


でもこの草加せんべいとても美味しい、、おじさんも食べる?」


「いやおじさんはね、これからお米のジュース飲もうと思っているんだ。だからおせんべいはいらないよ」


すると不思議なことにその草加せんべいは少女が食べ終わると再び元の形に戻り、再びこの女の子はせんべいを食べ始めたのだった。


「あれっ?またせんべいが、、、!?


君はまたせんべいを食べるんだね。いくらなんでも食べ過ぎだよ。太っちゃわないかい?」


すると少女の言うことには「おせんべいを食べ終わるとね、、また新しいせんべいが現れるんだ。でもね、、いくら食べても美味しんだよね。


何でって、、よくわからないけどすごく美味しくて食べ終わって満足するとまたすぐにすごくお腹が空くんだよ。すると新しいおせんべいが現れてまた食べるじゃない。するとやっぱりすごく美味しくて、ずっとずっとね、、それがずっ〜と終わらないんだ。


それからね、、今までおせんべいをたくさんいただているんだけど食べ飽きたりすることも太ることも全然ないよ」


私は少女の話を聞いてるうちに訳が分からなくなってきたので少女に「お母さんお父さんに早く会えるといいね。それじゃあ、、またね!」と逃げるように盆踊りをやっている人たちの方へと彼女の方を振り向きながらも移動して行った。




 盆踊りを終えた初老ほどの痩せこけた白髪の男が汗をタオルで拭きながらこちらに向かって歩いてきた。

ボクは彼に問いかけてみることにした。


「あなたはここで何をやっているのでしょう、、


なぜいつまでも踊り続けているんですか?」


彼は怪訝な顔をちょっとすると私の顔を見て言った。


「つべこべ言わず君も一緒に踊らんかね?


俺たちは10代の頃からずっと踊り続けているよ。


これが人生と言うものだよ」


「今はね、盆踊りなんて古臭くて若い連中は見向きもしないだろさ。だが俺たちにとっては盆踊りはね、、青春そのものだったんだ。


だからいまだにこれを踊り続けているんだよ。 この東京音頭をね、、俺の初恋の思い出なんだよ!」


昔のさ、、あの子、、憧れのセーラー服の、、思い出のあの子


、、ああっ忘れられないよ、、14才の時の初恋だよ。


あんたもわかるよね!


でもな!オクラホマミキサーだけは踊っちゃいかんよ!


あれを踊った奴らがギックリ腰になったと言う話しはときどき聞くが、あれを踊ってカップルになったという話は聞いたことがないんだ、、、」


彼はその後もウンチクやら持論を並べたて一方的に話しかけてきたため、私は雑音や興味のない話しにはウンザリしていたのもあり、彼の話に耳を傾ける余裕はなくなってしまった。




それにしてもいったいここはどこなんだ?









 時の流れと共にすべては過ぎ去りぬ。


そしてそこにはやがて新しきものが産声をあげる 。


かっての栄光は今もまたその残り火を維持しようとするが


未来への希望が翼を失くす代わりに何故だか過去は子宮の如く温かい


しかし過去とは己の幻影でありその囚われ人になることは人生を無駄に過ごすということ


古きを手放せば過ぎ去りし日々は輝きに満ちたものになるだろう



「そこでボクは支配人に告げた

おーい!カッパ黄桜を持って来てくれないか?

すると彼は言った

もうこの地にはカッパは生息しておりません

Since 1969(シンス ナインティン シックスティナイン)!」






 休憩室には古臭いカウンターがあった。

見まわしたところほとんどの棚にはボトルも何も置いていない

、、メニュー表さえどこにも置かれていなかった。

 蝶ネクタイの飄々とした丸いロイドメガネの支配人がカウンターの内にひとり立っていた。よく珈琲専門店にいるようなこだわりと品のある男。


そして彼の後ろには何故か破れかけ黄色く薄汚れた河童の絵の描かれた看板。

そこでボクはその支配人に告げた。

「おーい!カッパ黄桜を持ってきてくれないか?」


 するとその支配人は言った。


「残念ながらもうこの地にはもうカッパは生息してはおりません since1969!」


 ボクは彼の反応に戸惑いながらも、、

「何なんだ?ボクはとても疲れているのですよ!

つまらないジョークはやめてください。

とにかく、、その河童じゃなくて、、

日本酒!黄桜だよ。飲ませてくれよ!」


支配人は穏やかに微笑んで言葉を返した。


「あなたぐらいの年齢の方ならご存知でしょう。

子供の頃ブラウン管テレビで見たはずです、、あの1969年の偉大な一歩ですよ!

あのGaiantジャイアント Stepステップです」

「あの日以来この地に住んでいたカッパたちはほとんど消滅し、生き残ったカッパたちはまだ多くの仲間が生息している岩手県の遠野へと逃げのびて行ったそうです」

「そのためもうこの地にはカッパは一匹たりとも生息してはおりません」


「あっあの日、、あの日オレは、、

まだあの頃は男子高校の2年だったのだ。

ブラウン管テレビで担任の先生やクラスの仲間とアポロ11号の月面着陸の瞬間を教室で見ていたんだ、、、アームストロング船長が月面に印したあの足跡を、そしてあの偉大な一歩を」

「そう言えば!1969年のあの日以来日本におけるすべての神話と古来からの不思議な伝承や奇祭は全部と言っていいほど消え去ってしまったのだ」


 私は怒りを込めて叫んでいた。

「ちきしょう~アメリカ野郎め!」






 何の酒も存在しないことに加え不機嫌な私の気持ちを察しながらも支配人は有線放送のボリュームを上げた。

聞こえてきた曲はやはりまたもやイーグルス、、「ティクイットイージー」

軽い乗りのこんな曲は心のシフトチェンジにいい。

そうだこんな時には気楽に行こうじゃないか!

そういえばおもしろいところに来たもんだ。

心を大きく持てば新しい発見もある。

オレは頭の切り替えの早いタイプだからな。


カウンター越しに支配人とのつまらない会話がその後も続き夜はふけて行った。








「人々が深く眠りについた真夜中でさえ

廊下の向こうからは念仏の声が聴こえる

ようこそカリフォルニア旅館

ここは素敵なところ 変人ばかり

ここは埼玉県大字カリフォルニア

もう終わった場所 思い出ばかり

昭和のリアリティーとアイロニーがほしいなら

どうかぜひよって見てください

カビ臭い煎餅布団と茶渋のついた湯飲み茶碗

誰しもがスケベ心から囚われの身になった人」






 それから若女将はオレと支配人がいるカウンターにやって来て俺を部屋へと案内した。

彼女はそっと部屋の入り口の戸を開けると節目がちに言った。


「ここカリフォルニア旅館は自らのスケベ心と郷愁からこの地に囚われの身になった人たちでいっぱいなのです。みんなスケベ心と郷愁ゆえにこの地から永遠に永遠に逃れられないのでございます。

ここは僻地ゆえに狭山茶しかありませんが、どうぞおくつろぎくださいませ」と改まった感じて言ったと思うと急に笑顔で軽く、、

「お腹が空いたでしょう。

美味しいから揚げ定食を用意しておきましたので、、ぜひ食べてね」


そう言って若女将は戻って行った。


 この怪しげでいながら愛嬌のある若女将の姿こそ彼女の魅力であり多くの男たちのスケベ心を囚われの身にしてきたのだと勝手に納得してしまった。

から揚げ定食は今まで食べたことがないほど美味しかった。

「なんて美味しんだ!少なくとも今まで食べたから揚げとは比べものにならないくらいジューシーだ。ここに迷い込んでよかった。こんな美味しいものが食べられるなんて本当にラッキーだよ!」


 しかし布団の中にもぐりこんでもなぜか落ち着かなかった。

ひどい疲れにも関わらず。ああ!

夜遅くなっても続く念仏やこのカビ臭いせんべい布団とか湯呑み茶碗に茶渋が付いているとかいう昭和的なリアリティとかいう類のものではない。


 自らの人生が郷愁という幻想に囚われ先に進めないのだ。

別れた女のことはなかなか忘れられない。

過ぎ去って行ったものは自分の想像の中でいつのまにかひとり歩きし勝手に成長し始める。

 でも過ぎ去ってしまったものはもう戻らない。すべては過ぎ去って存在すらしなくてもいまだに心は囚われの身となって逃れられないだけなのだ。


 ふと布団の脇の棚に目をやると旅館やホテルによくあるような本、、それはたいがい仏教聖典とか聖書とかいう類いのものだが、それよりももっと薄い小冊子のような、、、。

 そこには先ほどの郷愁への回答が書かれているのではないかという気になって、好奇心からその小冊子を手に取った。

「すけべ心に乾杯!」という面白い題名だった。


 そこにはこう書かれていた。






「はじめにすけべ心ありき!

すけべ心が人類を産み出した。

人は肉体を持つ限りすけべ心とは切っても切れない関係にある。

自らのすけべ心ゆえにあらゆる対象に意識を引きつけられてしまうと自らのすけべ心にいつのまにかはまり込み対象物との囚われの関係になってしまう。これをカルマと呼ぶ。

気がつくとみんながそのすけべ心にはまり込んでいるので、自らもみんなと同様にそれにはまり込む必要があると思い、どうやら全体がおかしなことになってしまったようだ。

ゆえに人間はそのすけべ心を味わい尽くし完結した後にそれらを放棄することでやっと完結する。

この完結とは人類すべてを完全帰納化させることである。

しかし人類がもし完結し完全帰納化を達成してしまったらどうなるのかは知る由もない。

ただこのすけべ心とは我々の存在する理由でもある。

すけべ心ゆえに我ありなのだ。

すけべ心に乾杯!」







 私はこの小冊子に書かれていた内容があまりにも自分に当てはまると思いながらもアホらしく思えて来て、いつのまにか眠気に掴まれ知らぬ間にウトウトと眠りの中へと落ちていった。




 朝の気配とまどろみと共に

私はいつの間にか新宿西口のとある高層ビルにいた。






 久しぶりに古い友人から電話がかかって来た。


 その高層ビルの最上階ホールで行われる今までどこにも存在しなかったというニュービジネスのお誘いだった。

その最上階の大きな窓からは都内全貌が見渡せた。向こうには東京湾。数隻のタンカーが忙しそうに動き回っているのが見える。


 彼はかってバブル期の頃に自己啓発セミナーに何百人も集めた人物だ。

今回は何やらどんな人でも1000万円を手に入れることのできる秘密を無料で教えてくれるようだ。


 お題目を集団で唱えているような大勢の声がホール会場から聞こえてくる。

ほとんどが若者のようだ。

みんな1000万円、1000万円、、と声を張り上げて何度も繰り返し唱えている。


 ステージ上では意識の高そうな20代の若者がいかに1000万円を手に入れたかを体験発表している。その上メルセデスベンツも簡単に手に入れてしまったというサクセスストーリーまで大きなジェスチャーを交えて自慢げに話している。

 こういった人生もわからないくせに粋がっている若者たちをどうしても好きになれないし、また哀れにも思えてきた。

誰か上の者から吹き込まれたサクセスストーリーとジェスチャーをそのまま猿真似しているに過ぎないのだろう。

彼のような若者はどうせすぐに挫折しいつの間にか消えていなくなるに違いないのだ。

 億千万ならまだしも1000万円とはスケールが小さ過ぎる。バブル期のカオスを体験し尽くしたボクにとっては流石に苦笑いせざるを得い内容だった。

「時間の無駄だからもう帰るよ!」

と突っぱねるように彼に言った。


 すると、、彼は慌てたような顔つきになった。

「マッコイ!

これからがいいところなんだぞ、、

頼むからここにいてくれ!」

と大声で言われた上、二の腕を掴まれ強引に引き止められる。

大勢の前で久しぶりにマッコイなんて言う古いあだ名で呼ばれて恥ずかしい気分。


 ああっ!、、これは失敗したかも?


 ひどい疲れにも関わらず埼玉の片田舎から友人の誘いに乗ってまでこんなセミナーに来るんじゃなかったよ。

 もしあそこに、、カリフォルニア旅館に留まっていたのなら今頃はラドン鉱泉に浸かっているか、若女将さんの美味しい手料理でもたらふく食べていたことだろうに、、。

あの女将の笑顔がどうしても私の頭の中のスクリーンから離れなかった。


 しばらくすると眩いライトが会場全体を照らした。そしてステージ上には郷ひろみらしき人物がさっそうと現れマイクを握り締め歌い始めた。

「1000万、、1000万の胸騒〜ぎ、、」

みんな大よろこびで興奮している。

まるでエサを与えられた時のパプロフの犬のように。


あれっ?

あの歌詞は、、確か?

億千マン億千マンの胸騒ぎ〜ジャパーン!

、、じゃなかったっけ?


 そしてその郷ひろみと名乗る人物がテレビで見るよりもやたら老けているように見えた。

太っている腹が出ている、、しかも白髪!

完全な初老のおっさんじゃないですか?


 でもボクの友人は「彼こそ彼の姿こそが本物の郷ひろみなのだ!」と断言して、腕組みをしたまま頑と譲らずステージの上を直視している。




 ふと後ろを振り返るとテーブルの上に札束がポンと置いているのに気づいた。ボクはその札束に釘付けになってしまった。

その厚さは1000万円ちょっとだろうか。

、、、でも待てよ!

よく見たらこれは聖徳太子じゃないぞ!


 それは韓国のお札のようだった。

やたら桁の多い数字が並んでいてお札の絵は聖徳太子ならぬ古代韓国の大王?の顔、

ウォンは日本円よりも0が一桁多いのだ。



ボクは自分が騙されていたことに気づいた。




「宴会場では生贄の準備が整った


だがここは僻地


いまだに割礼の習慣が残っている


そこでボクは何とかここから逃げ出そうとしていた


どうにか出口を見つけ出さなければと」





 やがて朝になり誰かが部屋の扉を優しくノックする音がした。

そのノックの音でこの高層ビルでの奇怪な夢は突然寸断されここは旅館の客間であるという現実に引き戻された。


若女将が部屋まで私を迎えに来たのだ。


 先ほどの夢の高層ビルの出来事にも増してここカリフォルニア旅館はさらに現実離れしているように思えた。


 きょうは宴会場で何やら特別な祭典が執り行われるようだ。

ここではその祭典のことを「生贄」と呼ぶ。

私はこの過去の因習を思い起こさせる生贄という言葉に何故か郷愁を感じてしまう。

おもしろい出し物や新しいニュースにはいつも先んじて首を突っ込む方なのだ。よく友人からは好事家と言われることが多いが人前で言われるとあまりいい気分ではない。 

「マッコイ!おまえみたいな奴のこと、、なんたっけ?確かディレッタントとか好事家とか言うんだよな!」

 好事家とはクリエーティブというよりはマニアックとか無駄なことをする暇人とか趣味人いった感じに思われてしまう。何よりも自分の行動や習慣をディスカウントされてしまうのは気分が悪いものだ。




 「生贄」と言っても人を焼いて殺して食べそうな人物はここには全くいないように思える。「生贄」とはおそらく単なる余興なのだろう。


「 しかしちょっと待てよ!

ここは埼玉県、、しかもまだ肥溜の香りのする因習の深い片田舎」


 「噂だがあることをふと思い出したぞ!

少し冷静になろう。

さっき見た夢は好奇心にかられ後先も考えずに首を突っ込んでしまう己への警鐘かもしれないのだぞ!」

 そして事実!いまだ日本の埼玉県の一部の地域では「割礼」の風習が残っておりそれを「生贄」と呼んでいてひみつの儀式を行うというのを聞いたことがあった。

マッコイは不安を消すことができなかった。


  若女将は微笑みながら私に言った。

「きょうの生贄の当選者はあなたですよ。さあ宴会場までご案内いたします。」


 私は若女将に案内されるがままに宴会場に到着すると、大きく開けた300畳ほどのスペースに老若男女が音楽に合わせて踊っているではないか。

 「ドーピス」という聞いたことあるようなないような4人組の少女たちがステージの上で歌い踊りはじめた。

 朝の夢に出て来たのは腹の出た偽郷ひろみだったがここではアイドル4人組。

この目の前の現実は正夢とは言えないものの夢との整合性はあるようだ。

 確か久米川ひろしと黒柳田鉄子司会の人気番組「真夜中のヒットスタジオ」で何度か見たことはある沖縄出身の少女グループのようだが歌番組には詳しくはないのでよくわからない。でもやはり普通のアイドルとは明らかに違う。

アイドルにしては明らかに怪し過ぎるし不気味な感じだ。アイドルというよりは亡霊にしか見えないが会場に集まった人々たちには普通のアイドルにしか見えないのだろうか?

彼女らの後ろには鬼火のような怪しげな何かが揺らめいているのが見えた。





 アイドル流の決まりきったようなトークが始まった。

「みなさん!

お忙しいところドーピスのライブに集まっていただきありがとうございます」

「私たちはとっても幸せです!」

グループのリーダーのような女の子が笑顔で会場にいる人々に話し続けた。

「さあきょうも生贄に当選された方がここに今来ています。みなさんで祝福しましょう!」

これから歌うのは私たちの新曲で

「ようこそカリフォルニアンナイトナイト」


彼女たちはリズムに合わせて踊りながら歌い始めると、、

歓声が上がった!


「ようこそ!

カリフォルニアンナイト

カリフォルニアンナイトナイト

カリフォルニアンな夜は踊って歌って最高だから恋心も盛り上がっちゃう!

青春は一本道〜

人生も一本道〜

2度と戻ることのできない片道切符で私たちに出逢ってお願いだから〜


もう戻れない

あなたはもう2度と戻れない〜

あなたは永遠に戻れない〜

さあ、生贄の儀式で新しいあなたの故郷へ戻れる

あなたはもうあの欲望に満ちた狂気の世界には二度と帰れない〜あの失望の街には永遠に戻れない、、」


彼女たちは楽しそうに踊りながら歌っている。

しかし何故あの街や世界には戻れないのだろうか?


 「生贄」イコール「割礼」

もしこの後行われると言われている割礼を受けたならば本当にもう二度と都内には戻れないということなのだろう。いや都内だけでなく日本社会にも戻れなくなることを意味している。

つまり永遠にここ「カリフォルニア旅館」の住人になってしまうのだ。

この郷愁に満ちた世界に永遠に住み続ける存在に、、

それはある意味で安住の地かもしれない。

確かに居心地がいいかもしれない。

バブル崩壊の失望はもう味合わずに済むのだろう。

そして離婚の孤独や惨めさも感じなくなる。

そして危険もない。

人々はみな優しい。

お金の心配をする必要はない。

料理はどれも美味しい。

ぬるい温泉に気持ちよく浸かり続けるような居心地のよさがある。

しかし未知への不安や恐怖とか、不満がない代わりに無限の可能性へとチャレンジするような若々しさや新鮮なスリルは失われてしまう。

優しさとか郷愁に浸る人生とは本当は哀しい生き方なのかもしれない。


 彼女たちはみんなのアンコールに答えて最後の曲を歌い終わるといつの間にかどこかへと消えて行った。

宴会場にいた老若男女がボクの方を笑顔で一斉に振り向いた。

ついに割礼の儀式が始まるのだ。

「ようこそ私たちの世界に

ようこそカリフォルニアへ

毎日ラドン鉱泉に浸かって素敵な毎日

もう会社や学校に行く必要はない

素敵な若女将ともいい仲になれるかも

もっともっと

永遠に永遠に

この温もりの中に

この夢の世界に

ようこそカリフォルニアへ」

 

 大勢の人たちが手に奇妙な形をした金属製の器具を持ちながらニコニコ顔で迫ってくる。

彼らから手術でも受けるのだろうか?

 ボクは恐れと抵抗のあまり後方にたじろいだ。

みんなにこやかだが実は洗脳されているのだろう。

それとともに、、

何で恐れてるの?

受け入れてしまえばとっても楽になれるのに、、、ぜんぜん痛くないわよ。


 会場に広がる住人たちの持つ怪しい空気感がコトバとなってじわじわと押し寄せて来る。

いや!この声はあくまで自分自身の想像であり単なる思い込みにしか過ぎないのかもしれない。


私は混乱していた。






 そう言った類のものといえばネットワークビジネスや新興宗教、自己啓発セミナーの類を思い出す。

しかしそれとも明らかに違う。

 あの手のビジネスの裏側にはお金や男女関係に関する下心や意に反したような同意や義理といったものを感じてしまうのだが彼らにはそれがないようにも思える。

 若女将もにこやかに佇んでいた。

若女将も含めて多くの人たちには何の裏の顔も持たないように見える。じっくり観察しては見たものの何の疑問も持たない純粋な表情の人々という感じにしか思えない。


 ボクは入り口の前にたたずむ若女将を方を振り返った。


 迷ったがもう前に進むしかない。

若女将にはお世話になったという思いがあるのも確かなのだが、、、


「すみません由紀子さんいや女将さん!

 もっともっとここにはいたいのです、、

それは愛着があるぬいぐるみを抱き続ける子供のようで離れ難いものなのです。

しかし、、

ここは私のいるべき場所ではないような気がしているのです。これから急いで都内に戻ろうと思います。残してある仕事もまだ片づいていませんのでそれが気がかりなのもあるのですが、、」


間を置いて彼は続けた。


「ここは郷愁に満ちた愛着のあるステキな場所です。でも私は先に進まなければなりません。自分はもうさほど若い訳でもないのですが愛着あるぬいぐるみよりも新しい何かを選択したいのです。

たとえ失敗したとしても疲れ果てたとしても、この現実という荒地を旅して行きたいのです。この不思議に満ちた旅館に滞在できたことに感謝いたします」


 若女将は対応に困ったように無口だった。


 するとラドン鉱泉の中から聞こえてきていた念仏の声が突然止んだ。

老人たちの念仏の声が止むと次第にすべては薄暗く鎮まりかえって行った。

そして鉱泉の中で老人たちに口寄せをしていたイタコが口寄せを終えて浴室から出てきた。


 そのイタコの婆さんが背後に持つ曲線美は全くのシュールとしか言いようがない。

まるでメルセデスベンツのボディラインをなぞったような曲線美の背中。



お婆さんは優しかった。







 そしてこちらの心を察したかのように優しく微笑みながら私に言った。

「あなたがここで割礼の儀式を受けずにこの旅館を去ったのならもうここに戻りたくとも戻ることは出来ないでしょう」

「でも安心してくださいね。

故郷はいつも心の中にあるものです。

ここのことはすべて忘れてもかまいません。

いいえ、あなたはすべて忘れてしまうでしょう。

私どもは永遠にここの住人なのであなたのいる都内へ遊びに行くこともできません。

あなたの本当の故郷を見つけてくださいね」



 イタコの後ろで佇んでいた若女将はしばらく間をおいてから、、

「お母さん私が言いたいことをマッコイさんに伝えてくれてありがとうね」

「マッコイさん、私のお母さんが私の言いたいことをあなたに伝えてくれましたが、この旅館は先代が亡くなってからは母と私で切り盛りしているのです」

マッコイは驚いて言った。

「驚いたなぁ、、若女将さん!

あなた方は親子だったんですね」

「どおりで顔がそっくりなはずだ」

「じゃあ、若女将さん今度はあんたがイタコをやるんだよね」

若女将は恥ずかしげにうなづいた。

イタコの母は頬のシワをゆがめながらうれしそうだった。


「するとガードマンは言った落ち着いて自分の運命を受け入れるのです

テイクアウトは自由ですがもう2度と美味しい唐揚げ定食を食べることはできませんようこそ カリフォルニア旅館ここは素敵なところまた来てくださいね」



 ますますボクはここを離れがたくなってしまった。

だが離れがたいのも山々だったが涙目になりながらも今そのまま向きを変え薄暗い廊下を走り出さんなければならないのだと悟った。

理由はわからないが未来はここにはないのだから、、。

 もう念仏の声は聴こえなくなっていた。

私は来たはずの廊下を足早に戻り戻り出口を探した。しかし迷路のようになっていてなかなか本物の出口が見つからない。どこをどう来たのかすら思い出せない。

 いくつものドアノブを汗ばんだ手で回したが鍵がかかっていたりあるいはドアノブ自体がついていなかったり、ドアノブが何の出入り口でもない壁から飛び出しているだけのオブジェのようなもの、中にはドアノブの絵が壁に描かれているだけのものもあり焦っているのが自分でもわかった。

「ドアノブ如きで悩むことなど今までなかったのに、、一体どうすりゃあいいんだよ!」


 しかしどうにか迷いながらもカギのかかっていないドアをやっとのことで見つけ出してドアノブを恐る恐る回してみると以外とたやすく錆びついたドアはガガガと開き夜の涼しげな風と共に肥やしの香りが自分の頬をなぜた。

さほどの日にちは過ぎていないはずなのだが懐かしい感覚を覚えた。

今はどこにもない肥やしの香り、、あの子供の頃からの懐かしい香り。肥溜に落っこちて泣いたあの日のことを回想した。

 

 目の前は広々とした駐車場でその先には自分の車が置かれているのが見えた。


 だが出口の目の前にはガードマンが立っている。

 真面目そうではあるがうだつの上がらなそうな黒縁メガネの中年ガードマン。

別に無理に突破しなくても簡単にすり抜けられそうな雰囲気だった。

 彼はまるでゲームに出てくるような決まり文句しか言えない人畜無害な脇役キャラクターのようであり脱出はとても簡単に見えた。

するとガードマンは言った。「落ち着いて自分の運命を受け入れるのです。テイクアウトは自由ですが2度と美味しい唐揚げ定食を食べることはできません」

  私は彼に言った。

「落ち着いて自分の運命を受け入れるですって? から揚げ定食のことなどよりも早くここを抜け出して自宅に戻りたいのです」

そう言って私はガードマンの脇をすり抜け車へと向かった。

案の定、何を考えているのかわからないこのガードマンも黙って突っ立ったままこちらを眺めているだけだった。

追っては来なかった。

おそらくガードマンはここでのゲームのマニュアル通りに職務を遂行しておけばそれでよかったのだろうし、あの若女将とイタコの母から文句を言われる事はなさそうだ。

「何て無感情な奴なんだ、、一体何を思っているんだろう?、、しかしそんなことはどうでもいい。

ここを抜け出すことが先決なのだから、、」


 カリフォルニア旅館の住人や従業員の一同が言うことなすこと曖昧でしかも妙にとぼけて行動が奇妙なのを不思議に思った。だがみんな優しくてユーモアがあり憎めない連中なのだ。


 彼らのひとりひとりが頭から離れない。

あの草加せんべいの少女は相変わらずせんべいを黙々とたぺ続けているのだろうか?

カウンターにいたあの支配人と名乗る男は夜になるとジョークとユーモアできょうも客を和ませているに違いない。






 私は駐車場に置きっぱなしにしてあった車に乗り込むやいなやキーを回すとエンジン音。

アクセルを踏み込むと車は確実に旅館の出口に向かって動き始めた。覚えのある感覚とともに安堵感が湧き起こる。

 バックミラーを見ると宿の前で若女将がこちらに向かって手を振っていた。

こういうものだと思った。

何の感情もいらない。

こういうものなのだ。 

バックミラーの中の若女将がだんだん小さくなって行く。

彼女の表情は読み取れなかった。


 私はこの奇妙な宿の駐車場から通りに出ると

車のアクセルを深く踏み込んだ。

空気が変わったのを肌で感じ取っていた。

暗く深いジャングルのような冷たい未知の空間に滑り込む。

 東北自動車道へ乗ってしまえばすぐに都内なのだが、暗闇が迫って来て車ごと後ろから飲み込まれるかもしれないという奇妙な感覚に飲み込まれる。

そしてカリフォルニア旅館をこのままうまく離れることができても新たな何者かに別の罠を仕掛けられるのではないだろうかと不安を覚えるのだった。

 やがて東北自動車道の岩槻インター入口に差しかかったので私は少し安堵を。

都内までは近い。

東北自動車道を出たら川口JCTを東京外環自動車道に入って大泉ICで出てカンパチを右折すればまっすぐ、ひとっ走りでもう世田谷だ。

ボクはアクセルをさらに踏みこんだ。

 しかし高速に乗ったもののなかなか都内にたどり着けない。ますます遠ざかっていくような気がするのはたまった疲労感からだろうか?

後ろの方から逃れることのできないブラックホールがどこまでも迫って来て少しづつ背後からボクを飲み込み始めるような奇妙な感覚が消えない。

ボクは額から滲み出る汗を感じながらもさらに速度を上げた。速度メーターの針が振り切れる。

エンジン回転はレッドゾーンを超えている。

最高速だ!

車のタイヤから出る軋むような振動、、

からだが緊張し鼓動が高鳴る。

確かに言えることは、、

この道は東北自動車道ではない。

しかし東北自動車道でないのなら一体何なのだ。

何処に向かうのだろう。

そして一体ここは何処なんだろう?



 ボクは不安と恐れを打ち消すため

すぐにカーラジオのスイッチをオンにした。

「ザザザ、、、ザザップ、、カモーンー!、、パイレーツ、、ザザザッ、、」






 突然途切れ途切れに流れてきたこの放送、、このうるさくて甲高い声はカリフォルニア旅館にたどり着く前に確か聴いたはずだが、

なぜかはるか昔に聴いたように思えてくる。

他の局の放送はどれも全く受信できないのに何故だかこの海賊放送だけ受信してしまう。

 

 あの耳障りな甲高い声が続く、、軽薄な奴め!姿を見たこともないがだいたい想像がつく。喉の浅いところから出てくる音声は彼の人格そのものを表している。

他者への配慮を欠いたような上っ面だけの奴の話など聞きたくもない。

 しかしまさに自分の現状とシンクロしているとしか思えないこのトークにはどうしても耳を傾けてしまう。


ほらまた始まったぞ!


「カモーン!パイレーツステーションSAITAMA

こんな夜は70年代の例の曲でも聴いて一緒に郷愁に浸っていよう。

さああなたもカッパ黄桜もう一杯いかが〜?

あの頃の曲には郷愁があるんだよね。

、、泣きがあるんだよ」


 以前のように彼の軽薄で子供じみた音声が聞こえて来てももう心を乱されることはなかった。

 もうボクにとっては郷愁とか過去といったものに対しては全く心が動かなくなっていたのだ。


 今までの自分はまるで居心地のいい子宮から産まれ出ることを拒む赤子のようだった。


 

 先ほどまでいたカリフォルニア旅館を脱出してからわずかの時間が過ぎただけだったが心には大きな変化とか不安とかしか言いようのない未知の感覚が押し寄せていた。

今はただ前に進むしかない。

 そしてこれは景色というものではない。

車も車窓に見える懐かしい風景の数々もさらに速度を増して形状を失って行き、流れる光の粒子のように暗闇の宇宙空間を光速で過ぎ去ってゆく。

 サイケデリックな色彩から生まれ出たモザイクのようなパルスが脳内を飛び交って自分が進んで行く道を作って行く、、何者かに案内されるように。


 これからどこに行くのだろうか、、という疑問もだんだんと薄れてきている。どこにも行き着けないというよりは自分の頭と経験では推測がつかない。


 すごいスピードで目の前に展開される光景とともにすべての思いが過ぎ去って行く。

 日常とは楽しい瞬間も辛い瞬間もやって来る。

ホッとしたり、幸せだったり、バッドだったり、、、。

 今となっては酒に呑まれることで自分を誤魔化していたサラリーマン生活もローンをやっと払い終えた世田谷の3LDKも、、結局は心の袋棚のどこかにしまい忘れていた別れた妻も、、カーラジオから聴こえてくるこの海賊放送も、、そして先ほどまでボクがいたカリフォルニア旅館も、何もかもが古くなってつながりを失っていった。


 

 マッコイは目を閉じた。

諸行無常と言うこの世界が持つ本質に押し流されながらも起こってくる全ての印象をまぶたの裏側に写しながら。


 この東北自動車道は行き先を変えて空へとつながっているのだろうか?

どこまでも光の道が続きやがて輝く光の粒は金銀の色をした花々へと変容してゆくようだ。

そして時空の向こう側へと遥かな宇宙へとこの道は続いていくのだろう。


すごいスピードだ。

先が見えない。

自分はここにいる、、


ボクはどうでもよくなった。


守るべきものなど何も持ちあわせてはいない。

何が起ころうとも受け入れるしかなかった。





 

 そこでボクは問いかけて見ることにした。

誰でもいい、、

「ここはどこなんでしょうか?

もし誰かがいるのなら教えてください!」

 すると答えはやってきた。

おそらくその声は自分の内側からやって来るものだろう。

 その声は優しくも力強く、、

ただ一言。


「今ここだ!」


 だんだんと私から別のものに変容して行くのだろう。

ならこれが死というものだろうか?

じゃあ死の世界に向かうのだろう。

これが死であるという看板はどこにも書かれていないが、何かが始まる、、新しい夜明けがだんだんと近く。

東の空が白み始める。

 

 海賊放送などどうでもよくなっていた。

そして海賊放送のあの声も少しづつ小さくなって行った。

 マッコイが最後に微かに聞いたのは、、あの甲高い声、、でも先ほどとは違いトーンも声量も消えそうに弱々しくなって行く。

 だんだんとカーラジオからの音も弱まり、例のDJのノリも張りがなくなってきているようだ。

「パイレーツステ、、あれれっ、、

きょう最後の曲は、、何かけりゃいいんだっけな?

こりゃ、、壊れてる。

それともオレがどうかなってきちゃったん

、、、たぶん!」

、、、しばらく間を置いて一息ついてから

「そうそう、、思い出したよ!

こんな夜にふさわしいこの曲、、とってもエーグルスで昭和カリフォルニアだ〜!」

「ようこそ、、、カリフォルニア旅館

、、、ここは素敵なところ

また来てくださいね〜!

なんて、、たぶんもう来れないよね、、」


海賊放送がついに聴こえなくなった。



 どこまでも通り過ぎて行く光をくぐり抜けて、、

気がつくと正面にはやっと看板らしきものが見えてきた。

私は驚いた。

「東京外環自動車道大泉IC出口だって、、」


いつの間にか私は川口JCTを外環道に入り都内に戻って来ていたのだった。


 いつものようにインターを降りて左折ししばらく行くと環八との交差で右折しさらにまっすぐ行けば世田谷の自宅マンションだ。


いつの間にかいつもの生活に戻っていた。



元の風景

カリフォルニアなどどこにもなかった

もとのままの

何も変わらないただの街並み



僕は赤信号で停車し

信号が変わるのを待っていた


信号が青に変わる

クラクションの音

車の流れ

タイヤの音は念仏ように

黒いアスファルトに唸り

そこには諸行無常以外は

何も残さない



みんなどれもとっても

転がる石ころのように

過ぎ去っていく風景


ころがっているだけ

ただ

ころがっているだけさ










青年よ念仏を唱えよ

テーマ曲「昭和カリフォルニア」


作詞 作曲 あとう かずお

原曲 作詞作曲

丼フェルダー

丼ヘンリー

歌 とってもエーグルス



埼玉のハイウェイ涼しげな風に 肥やしの香り ほのかに漂い向こうに見ゆるは 提灯の灯り私の頭は重く 目眩がする休息が必要だ

お寺の鐘が鳴り彼女は戸口に立っていたボクは問いかけるここは埼玉かはたまたカリフォルニアか

すると彼女は薄笑いを浮かべ部屋へと案内した廊下の向こうからは 念仏の声が聞こえる


ようこそ カリフォルニア旅館ここは辺鄙な場所 まだ牛や馬が歩いている

ここは埼玉県 大字カリフォルニア佐山茶しかありませんがおくつろぎくださいませ

ぬるいラドン鉱泉に見ゆるは素敵な曲線美の背中イタコのお婆ちゃん口寄せしてください

加齢臭を出して盆踊りを踊るもの草加煎餅を食べる少女諸行無常の声が聴こえる

そこでボクは支配人に告げたおーい!カッパ黄桜を持って来てくれないか?すると彼は言ったもうこの地にはカッパは生息しておりません


Since 1969!

人々が深く眠りについた真夜中でさえ廊下の向こうからは念仏の声が聴こえる

ようこそ カリフォルニア旅館ここは素敵なところ 変人ばかり

ここは埼玉県大字カリフォルニアもう終わった場所 思い出ばかり

昭和のリアリティーとアイロニーがほしいならどうかぜひよって見てください

カビ臭い煎餅布団と茶渋のついた湯飲み茶碗誰しもがスケベ心から囚われの身になった人

宴会場では生け贄の準備が整っただがここは僻地いまだに割礼の習慣が残っているそこでボクはどうにかここから逃げ出そうとしていたどうにか出口を見つけ出さなければならないと

するとガードマンは言った落ち着いて自分の運命を受け入れるのです

テイクアウトは自由ですがもう2度と美味しい唐揚げ定食を食べることはできません

ようこそ カリフォルニア旅館ここは素敵なところまた来てくださいね



提供 パイレーツステーションSAITAMA



※イーグルスのホテルカリフォルニアのカラオケでこの歌詞は歌うことができます。

カラオケには歌詞の最後のフレーズは含まれていないことをご了承ください。

 

 


 そして曲が終わるともう海賊放送は完全に聞こえなくなった。

さよならパイレーツステーションSAITAMA

カリフォルニア旅館





追記


人生とは留まるところのない旅である

終わりがあれば 再び始まりがある

そして行く先は誰もわからない

ただどんな行き先があっても

それは自分があえて好き好んで

選んだに違いない













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