閑話 ヒーローはお休み中
とある日の出来事である。
「寝ちゃったわね」
「寝ちゃいましたねー」
汀渚友と澪標乙姫は、お互いに顔を見合わせて、「しー」と唇の前で人差し指を立てた。
人類存亡部いきつけの喫茶店。
そのテラス席に突っ伏して、海士野真一がすやすやと穏やかな寝息を立てていた。
「まあ、疲れもするわよね。昨日は夜通しバーベキューで、今日は朝から海で水遊び。さっきまではあたしたちの買い物に付き合っていたわけだし」
そう言いながら、友は自らの傍らに積み上げられた荷物を見た。
「楽しいショッピングだったもんね!」
「ええ、真一が荷物持ちをやってくれたおかげでね」
茶目っ気たっぷりに彼女がそういえば、乙姫も軽く吹き出して。
「ん……んー……」
「おっと」
もぞりと動いた真一を見て、ふたりはまたいたずらっ子ののように「しー」と笑う。
クスクス、クスクスと笑い合う。
「今日は涼しいわね。雪も、あんまり降ってないし」
エッグタルトをフォークでつつきながら、空を見上げた友がつぶやく。
山盛りのパンケーキにかぶりついていた乙姫も、同じように空を見て。
それから、
「友ちゃんは、演技が上手だよね」
と、言った。
「演技? なんのこと?」
「自分に嘘をつくのが上手ってこと」
「……嫌な言い方するじゃない。なに、安いケンカでも、あたしは買うわよ?」
「じゃあ、覚えてる?」
「なにを」
「海が本当は何色で――真一くんが、あの嵐の夜に、あなたになにをしたのかを」
「…………」
押し黙る友を見て、乙姫は慈しむように浅瀬色の眼を細めた。
「やさしいね、友ちゃんは。大丈夫、私だけは、全部覚えているから」
「あたしはっ」
友が声を荒らげようとしたときだった。
「おやぁ。そこで寝ている子は、ひょっとして海士野さんちの息子さんじゃないかね……?」
齢を重ねた、けれど落ち着いた声が聞こえてきた。
ふたりは、声のしたほうを向く。
目抜き通りから、腰の曲がった老婆が彼女たちの元へ歩み寄ってきて、しげしげと真一の寝顔を眺めた。
「えっと、おばあちゃんは、真一の、なに……?」
「ああ、これはすまなかったね。じつは、ずっとまえ、この子には助けてもらったことがあってねぇ」
「助けた? 真一くんが?」
「そうさ。わたしが遠出したさきで、腰を痛めてしまったときがあって……そのときこの子が、わたしを背負って家まで連れ帰ってくれたのさ」
またも顔を見合わせる友と乙姫。
老婆はうれしそうに真一の髪を撫でて、
「わたしを送り届けたら、名前も告げずに、風のように走り去ってしまってね……ずっとお礼がしたくてねぇ。いまは、こんなものしかないけれど、起きたら食べさせてあげておくれ」
「これは、なぁに?」
「うちの庭でとれた夏みかんさ。お嬢ちゃんたちにも、はいどうぞ」
そう言うと、老婆は三人の前に夏みかんをひとつずつ置いた。
「それじゃあ、よくよく言っておいておくれねぇ」
もう一度真一の顔に触れると、老婆は三人の前から立ち去っていった。
「……えっと」
「なんだったんだろうね、いまの」
「さあ……」
友と乙姫が困惑していると、またどこからか声がかかった。
見やれば、中学生ぐらいの女の子が口元を押さえてマジマジと真一を見つめていた。
「えー……だいたいわかってきたわよ。あなたも、こいつに用事?」
「は、はい! じつはこの前、友達と遊んでいて崖から落ちそうになったところを助けていただいて」
「名前も告げずに立ち去った?」
「そう! そうなんです! それで、まるで王子様みたいだって思って、まさか再会できるなんて……これって、ひょっとして運命――」
「違うと思うわよ、きっと違うと思うわよ!」
「そ、そうですか?」
あんまり執拗に友が念を押すので、女学生はしょんぼりと肩を落とした。
けれども、どうやら転んでもただでは起きないたちだったらしく、
「じゃ、じゃあせめて電話番号を」
事前に準備していたとしか思えない手際で、少女はアドレスと携帯端末の番号が書かれたメモ帳のページを破り、真一の前に置いた。
「仲良くしてくださいと伝言お願いします!」
有無を言わせずそれだけ告げると、彼女も雑踏のなかに笑顔で消えていった。
「こいつ……ジゴロの才能があるんじゃないかしら……」
「友ちゃん、それはスッゴク今更だよ」
げっそりと友がうなだれ、乙姫があきれ顔で肩をすくめる。
そうしていると、三度目の声がかかった。
今度は、ひとつではなかった。
見やれば、ひとの列ができていたのだ。
男も、女も、老いも若きも。
誰もが好意的に、憧れにも似たキラキラとした視線で、真一を見つめていて。
「ぼくも助けられたんです!」
「こないだ自転車を修理してもらって」
「トラックが立ち往生したとき――」
「わしの代わりに荷物を運んでくれてな」
「いっしょにポチをさがしてくれたー」
ワイよワイよと老若男女が押し寄せ、一言のお礼とともに、真一の前へ謝礼の品を置いていく。
彼らは誰もが笑顔で、とても表情が眩しく、心の底から真一と再会できたことを喜んでいた。
喧噪が去る頃には、たくさんのプレゼントが山となってテーブルに積まれていた。
「すごいねぇー」
乙姫が、眩しいモノを見るようにしてつぶやき。
「当たり前でしょ」
友は誇るように胸を張って、それから寂しそうに微笑んだ。
「だって、こいつはヒーローだったんだもの」
「いまだってそうだよ。だからこんなにも、空想力学が輝いている」
「空想力学?」
首をかしげる友に、乙姫はテーブルいっぱいの品物を示して見せた。
「これが全部そう。キラキラ輝く思いの結晶。つまりは空想力学なので!」
「そっかー」
友が、小さく息を吐き出したところで、また声がかかった。
その日、最後の来訪者。
それは。
「あ、ししょー!」
「蛍ちゃん。それと」
「いつもお世話になっています。蛍の母です」
童女である夕凪蛍と手をつないだ、妙齢の女性は、海士野真一の顔を見て、ゆっくりと頷いた。
「ああ、やっぱり」
「しゃてーのこと、おかーさんしってるの?」
「ええ、この人はね、蛍の恩人なのよ」
そう言って、女性は語った。
まだ蛍がおなかの中にいた頃、具合が悪くなって、車道へと倒れそうになったことがあったのだと。
車道は、ちょうど発電所に行き来する大型車が何台も走っていて、あわや大惨事。
「そこを間一髪、引っ張り戻してくれた少年がいたの。それが」
「真一、だった……?」
「はい。だから、この人にはいくらお礼を言っても、言い足りなくて。まさか、娘とも遊んでくれているなんて知らなかったですけど」
「おかーさん、おみせはいろーよー」
「はいはい」
我が子に手を引かれた女性は、苦笑しながら店内へと入っていく。
「あの、ここの支払いは、わたしに持たせてください」
突然の申し出に、慌てて友は首を振った。
「そんな、悪いですよ」
「いいんです。あのとき、お礼を固辞されちゃったので……こんな風に、眠っているときでないと、受け取ってくれそうにないですから」
慈母の表情を浮かべた彼女の袖を、娘である蛍が何度も引く。
「ねえ、おかーさん。蛍、チーズケーキが食べたい」
「そう? じゃあ、夕飯の前だから、半分こしましょうね」
親子は、笑い合いながら、店の奥へと消えていく。
友と乙姫は、その様子を見送って。
ほとんど同時に、ため息をついた。
「まったく」
こんな騒ぎでも目を覚まさない幼馴染みの頬をつつきながら。
「つくづくあんたって、だれかにとってのヒーローだったのね」
友は柔らかく、恨み言を口にするのだった。




