第二話 そして世界は発狂を始める
「やれやれ。彼にも困ったものだね。もう少し、感情を制御するすべを見つけてほしいところだよ」
緊張を解きほぐすように、大きく息をついた太上先生が、こちらを向いた。
温和な表情。
いつも通りの、先生。
「太上老君、ぼくは」
「ああ、御室戸くんのお父さんとは懇意にしていてね、後継人のようなことをやっているんだ。だから、彼も僕の言うことには耳を傾けてくれる。それと、君はまず、ナイフをしまったほうがいい。ひとを傷つけない刃でも、勘違いされては困るだろう?」
「…………」
言われるまで、ぼくは気がつけなかった。
鉱石ナイフを持った手が硬直していて、離すこともできなくなっていたのだ。
「そうだ……友! おまえは、大丈夫だった、か――」
振り返って、言葉を失う。
大切な幼馴染みは、見たこともないような顔をしていた。
いまにも泣き出しそうな、もしくは怒り出しそうな、どちらでもあって、どちらともいえない左右非対称な顔。
なにかを悔やんでいるようにも、恨んでいるようにも見えて、けれど、その表情は、すぐにクシャリと崩れて。
「……ごめんね、いまひとつ」
「友!」
夜色の瞳から一条のしずくがこぼれ落ちる寸前。彼女は身を翻し、歩き出した。
慌てて立ち上がり、あとに追いすがろうとすると、肩に手を置かれた。
太上老君が、無言で首を振っていた。
「先生……」
「僕に任せておいてくれないか。生徒の心のケアも、教員の務めだ。それに、君は」
彼は、そっとぼくの隣を見やる。
澪標乙姫が、なにかを抱きしめながら、震えていた。
「乙姫……」
「真一くん、あのね……私ね、これを、お菓子を買って。みんなで……みんなで食べたら、元気が出るんじゃないかなって。甘いものは、笑顔になれるから――」
一歩近寄ってくる彼女。
太上先生はうなずき、ぼくの肩から手を離す。
「いまは、澪標くんのことを頼むよ、海士野くん。澪標くんも、しっかりね」
彼は乙姫の肩を二度叩いた。
びくりと、少女の肩が跳ねる。
「あっと……すまない。セクハラだった。ともかく、汀渚くんのことは僕がやっておく。君は君にしかできないことをやってほしい。では、急ぐから」
言うなり、太上老君は友が消えた方向へと走り出す。
あとには、ぼくと乙姫だけが残されて。
「えっと……乙姫、変なところ見せて、悪かったな」
「…………」
「なに、抱いてるんだ? ああ、さっき買った〝好きなもの〟か。でも、そんなに強く抱きしめたら、形が崩れて」
「……くるよ」
え?
「くるよ」
うつろなまなざしで、乙姫は島の外を――海の果ての地平線を見つめている。
「来るって」
なにが?
そう問おうとしたときだった。
光が、陰った。
彼女を中心に、影が、闇が、暗黒が。
世界中から黒色が集まるようにして凝っていく。
この光景には、見覚えがあった。
彼女にうろこができるときと同じ、空想力学の作用。
けれど、これは。
集まってくるこの〝黒色〟は――
「虹色あくまが、やってくる」
黒色が、凝縮する。
闇色のうろこができあがる。
そして、
――世界が、静止した。
§§
耳の痛くなるような静寂。
色鮮やかだった世界のすべてが、モノクロームに染まる。
雑踏を行き交う人々も。
ぼくらの騒ぎを注視していた人々も。
波の飛沫も、風の歌声も。
凍り付いたように、動きを止める。
寒い。
吐く息が、真夏だというのに、白い。
雲の運行も、空の日差しさえも静止した世界で、ぼくと。
ぼくと乙姫だけが、色彩を保っていた。
「な――なにが起こっているんだ、乙姫」
たまらずに、少女へと呼びかけるが、答えはない。
彼女はただまっすぐ、海を睨み付けている。
メインストリートから海へは、一直線の道のりが続いている。
だから黒色の海は、よく見通すことができた。
そうして遮蔽物がなかったからこそ、ぼくは見てしまった。
直視してしまったんだ。
海原が、砕け散った。
モーゼが起こした奇跡のように。黒海が、左右に割れていく。
そうして、海底から上昇する発光体があった。
プリズム。
最初に想像したのはそれだ。
周囲から光を吸い取って、七色のスペクトラムを放出する泡立つ結晶体。
海を割って現れたのは、無数の腕を持つ、虹色の結晶体だった。
「あれは」
「あれは、虹色あくま」
呆然とするぼくに――いや、だれにともなく、乙姫は告げる。
「想い出の淀みが、世界のゆがみとなって現れたもの。この世界を定義する、限界と矛盾、狂気の具現、既にいないモノの残滓」
「おまえ、なにを言って」
「行かなきゃ」
彼女は、ちっとも説明してくれなかった。
それどころか、海へと向かって歩き出す。
待てよ。
そんな声をかけようとしたときだった。
『RiiiZeZiiiiiiiiii――!』
虹色の結晶体が、吠え声を上げた。
いや、それはほとんど、歌といってもよかった。
美しく、だからこそ恐ろしい旋律が、島中に響き渡る。
結晶体の内部に満ちた液体かなにかが、目映く泡立ち、キラキラと、キラキラと輝く。
海より完全に浮上した虹色が、全身に帯びる無数の腕のひとつを、海岸線へとたたきつけた。
ばっと吹き上がる大量の土砂。
轟々と立ちこめる土煙。
冗談じゃない、あんなやつのところに乙姫を行かせるわけにはいかない!
ぼくは、反射的に立ち上がっていた。
忌部のことはあんなにも恐れていたのに、いまはそれすらも忘れて。
走る――走れない。
……走ることは、できない。それだけは許されない。
だから、早足に乙姫を追う。
停止した人々をかいくぐって、メインストリートを抜けて。
運がいいことに、乙姫はまだ、そう遠くには行っていなかった。
「おい、乙姫、しっかりしろ!」
なんとか追いつき、彼女の肩をつかむ。
だが、
「熱っつ!?」
彼女の全身は、燃えるような熱を有していた。
肩からは、陽炎すら立ち上っている。
その熱の所為だろうか、服が、あの涼しげな色合いの服が、燃え始める。
あっという間に、上着は焼け落ちて、肩やへそが露出する。
そこで、ぼくは初めて気がついた。
彼女の全身の、あちらこちらにあるうろこ――想い出の結晶。
そのうちのひとつが、真っ黒に変色していることに。
「乙姫、そのうろこは」
「……空想力学は、想い出の科学。それは、私が忘れたくない想い出を――そして、忘れられない想い出を、強制的に記憶する。よい想い出でも……悪い想い出でも」
――まさか。
さっきのことか?
ぼくが、忌部に対して臆したから? あんな険悪なムードを作ってしまったから?
だから彼女に黒い想い出が集まって。
だとしたら、ぼくはとんだ馬鹿野郎だ。
ヒーロー失格以前に、世界の敵じゃないか!
「そうじゃないよ。そうじゃないんだよ、真一くん」
乙姫が、微笑んだ。
少しだけ悲しそうに、諦めてしまったように。
「想い出は一期一会、ほんとはね、いいも悪いもないんだよ。でも、世界は限界に達しているから」
彼女は歩みを止めない。
まっすぐに、未だ暴れ続けている虹色の怪物へと向かっていく。
土煙は晴れた、怪物は砂浜を横断し、海に面する丘陵地に至ろうとしていた。
そこには、空へとまっすぐ伸びる灯台があって。
『EeeZeeeBuLeeZuuuuuu――!』
振り下ろされる巨腕。
それが、灯台を引き裂く。
さらに、辺り一面を、見境なく壊す。
不思議なことが起きた。
虹色の腕に引き裂かれた灯台は、瓦解するようなことはなかった。
ただ、まるで空間そのものが破り取られてしまったように、奇妙な〝傷〟になって。
傷痕が、残ってしまって。
「……あんなふうにされるとね、もう元に戻らなくなっちゃうんだ。ひとがそんなことになったらたいへんだし、この島が壊れるのも、私はすごく嫌だなぁ。外の世界が虚無の海に沈んでしまって、今はこの島しか残ってない。だから、やっぱり行かなきゃ」
「行かなきゃじゃねーよバカ! あんなバケモノ相手になにができるんだよ!」
「ねぇ、覚えてる?」
こんなときに、なにを。
「私が死ねば、世界は元通りになるんだよ?」
「――――」
彼女は、笑っていた。
ひとが生きている間にしていい笑顔じゃなかった。
死を悟ったものだけが浮かべる、凄絶な覚悟そのものが形になった笑顔だった。
「ふ――」
ぼくは立ち止まる。
もう、バケモノまでの距離は、それほど離れていない。
なのに、彼女は歩き続ける。
ぼくは、追いつけない。追いすがれない。
「ふざけんなよ……っ!」
叫んでいた。
血が出るほど両手を握りしめて、ボロボロと悔し涙を流しながら。
どうすればいい、海士野真一?
いますぐ彼女の前に飛び出して、バケモノの注意を引くか?
それで? それでどうなる?
おまえにはあれをなんとかする力が、理不尽にあらがう力があるのか?
――ない。
じゃあ、せめて、走り回っておとりにでもなるか?
――ぼくは二度と走らない。
だったら、この場から逃げ出すか?
――そんなこと、できるわけがない。
勇気を振り絞り、知恵をひねり出し、不思議なパワーに覚醒して戦うことも、ただの中二病患者には荷が重い。
夢も希望もありはしない。
誰も彼女を救えない。
「乙姫……!」
だから。
結局ぼくにできたのは、彼女の名前を呼ぶことだけで。
彼女は。
「うん。いまはこれでいいんだよ、真一くん。きみは」
くるりとこちらを振り返り、優しい顔で笑った。
『BeeZiiiiiiii』
虹色が咆哮する。
巨大な腕が、空からまっすぐに降り注ぐ。
そして。
「おとひめぇえええええええええええええええええ!!」
そして――
「きみはいつか、きっとヒーローになってね」
巨大質量が、彼女を押しつぶした。
そして少女は。
人魚姫は、また死んだのだった。
……楽しい日々は、ずっと続くのだと思っていた。
この日常は、いつまでも終わらないのだと勝手に思っていた。
けれどこの日、それが間違いだったことをぼくは、これ以上なく思い知った――




