自己紹介
(ツバサさん、今度は刺されずにすんだかな……)
教室の前の方。窓側から三番目の列の、一番前に座る男子生徒の明るい髪色を見て、綾人は、少しの心配とともに、ツバサとの出会いを思い出していた。
「うーんと、こういうのって、だいたい名簿の最初からだと思うから、今回は反対からいこうかな?」
「……え」
今は、入学式の終了後、初めてのクラス別ホームルームの真っ最中。
必須イベントである自己紹介で、担任が発揮したちょっとした遊び心に、隣の女の子の様子が見るからに変わった。
(こういうの、苦手な子なんだろうな。確か、名前は……)
当然、自己紹介はこれから。ただ、クラス全員の氏名は、張り出されていた名簿で既に記憶している。綾人にとって、この程度の芸当は、朝飯前だった。
綾人の右隣、廊下側の一番後ろの席。つまり名簿の最後ということだから、この子の名前は「林藤 一葉」
なんというか、全ての印象が、素朴で優しい子だった。たぶん天然だろう、緩くカールした色素の薄い髪も、メガネも、小柄な体格も。
(……ちょうどいいか。クラス全体に、気にしなくていいってアピールもしておきたいし)
そう思った綾人は、おもむろに手を上げる。
「咲さん」
咲さんというのは、このクラスの担任だ。
「赤穂田 咲」二十五歳。担当は古文・漢文。昨年は、綾人の担任ではなかったものの、授業の受け持ちがあったので、お互いよく見知った仲だった。歳も近く、堅苦しいことをいわない人で、男子に限らず両性から人気のある教師だった。
「……どうしたの、真木君?」
一拍おいて、咲が答える。
ざわつきまではしないものの、教室内に「?」が飛び交うのが見えるようだった。入学式当日なのに、誰が見ても担任と知り合いである雰囲気であれば、当然そうなるだろう。
「すみません、僕からやらせてもらっていいですか?」
「いいけど……どうかしたの?」
「ある意味『先輩』ですし。それに、変に気を使ってもらいたくもないので、最初に少し」
「……そうね、いいよ、真木君がそう言うなら」
今度は、小さなどよめきが起こった。
隣の一葉も、「え?」という顔で、綾人を見ている。
軽く、本当にさりげなく、一葉に微笑み返した綾人は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「真木 綾人といいます。出身は南中です。実は、この学校には去年入学したんですが、二学期にちょっとした事故に遭ってしまって」
一切の負の感情を出さない、明るく、それでいて落ち着いたトーン。同じことを話しても、雰囲気次第で全く違う印象を与えてしまうことを、綾人は二人の師から叩き込まれていた。
少し間を置き、クラス全体に「事故に遭った」という情報が浸透したのを待って、綾人は続ける。
「入院していたせいで、一年生のやり直しです。肩身が狭いので、どうかいじめないでやってください」
「……ふふっ」
当然、遠慮がちではあったものの、隣の一葉をはじめ、教室内のあちこちから軽い笑いが起こった。
「あと、咲さんは見た目は可愛いですけど、意外と授業は厳しいです。特に去年、彼氏にフラれた次の日の授業で……」
「ちょっと真木君! それはもう言っちゃだめって……」
「あれ? 可愛いって言っちゃだめなんですか?」
「そっちは別に……なわけないでしょ! どっちも!」
「えー」「アハハハハ」
(……まあ、こんなもんだろう)
別に、自己紹介でそこまで目立つ必要もなかったのだ。どうせ、綾人の突出した能力は、嫌でも注目を集めることになる。
ただ、変に緊張した空気を作られてしまうと、それはそれで、綾人が自分の事情を説明するのに余計な重さが出てしまう。不思議なことだが、人間の脳はそういう風にできている。場の空気のコントロール。そこまでできてこそ一人前、というのも、綾人が二人の師から共通して教わったことだった。
「もう……じゃあ、自己紹介を続けるよ。真木君から始まったから……次は、前の保科君、お願いできる?」
「はいっ」
(OKです、咲さん)
場は温まったが、この雰囲気では逆に、一葉が話しにくいかもな、というのが心配だった。もともと半分は、この子に助け舟を出すつもりではじめたのだ。
着席しながら隣をみると、一葉は身構えていたのが空振りに終わって、ほっとしたような、拍子抜けのような、そんな顔をしていた。
――ごめんね、順番変えちゃって
綾人が口に手を添えて小さくささやくと、一葉は赤くした顔を、小刻みに左右に振った。
一葉が左手をすっと綾人の机に伸ばし、なにか紙切れのようなものを置く。
「ありがとう」
(やっぱりいい子だな、この子)
「どういたしまして」
綾人も、同じように紙切れを返した。読んだ一葉と目が合って、お互いにくすっと笑う。
誰が見ても、悪くない雰囲気だった――
「あ、あの、真木さん。さっきは、ありがとうございました」
ホームルームが終了し、入学式当日のイベントは、もう残っていない。
隣の一葉が、少し緊張した様子で、綾人に話しかけてきた。
「全然。逆に、ごめんね、せっかくぶるぶる震えるくらい気合い入ってたのに」
一葉に顔を寄せ、小声で、努めて真面目な声色で、綾人は言った。
「え、嘘……私、震えてましたか?」
「冗談」
「……もうっ」
一葉が、グーにした手で軽く綾人の肩を叩く。
「ごめんごめん。あとさ、『さん』付けは、できれば。名前でいいよ」
「じゃあ、綾人……君?」
「うん、よろしくね、俺は、『一葉さん』でいいかな」
「あ……えと、呼び捨てでいいです。だって……先輩だし」
少し、おどけたような口調で一葉は言った。もう、だいぶ緊張はほぐれてきているようだ。いい傾向だ。綾人は、そう思った。
「ねえ、一葉ー」
綾人の後ろから、声がした。
「知り合いなの? なんか、すんごい仲良さげだけど……」
「あ、水月」
「小波 水月」。綾人は、その子の名前を、そう記憶していた。
――ううん、今日初めてなんだけどね、綾人君、とってもいい人なの
――えー、珍しいじゃん。一葉がそんな……
二人の少女が掛け合いを始めた時、綾人の携帯がぶるっと震えた。
「こっちは終わったよ。昇降口でいい?」
妹の、灯からだった。