第一歩
「………………」
「綾人君……?」
放課後の、教室。
もうずいぶんと遅い時間になる。廊下にも、人の気配はない。
「……」
「え……あのさ、どうしたの……」
さっきまで、あんなに楽しくお話してたのに。
急に黙ってしまった綾人は、じっと一葉を見つめている。
「一葉」
「なに、綾人君……っ」
綾人が、両手で一葉の身体をぐいっと引き寄せ、唇を重ねる。
大きく見開かれた瞳で、まつげの触れる距離の綾人を見つめる一葉。
二人きりの、人気のない教室。無言の綾人に、内心ちょっとどきどきしていた一葉は、それでも本当にこんな風にされるなんて、思っていなかった。
(綾人君って、こんなに)
柔和な印象のある綾人だから、なんとなく、体つきも柔らかいような、そんな気がしていた。
でも、一葉よりもずっと長身で、運動も得意な綾人は、胸もお腹も、背中に回された腕も、一葉が思っていたよりずっと硬くて、厚かった。
綾人は普段、決して乱暴でも、我がままでもない。むしろ、その逆だった。
だから一葉は、こんな風にされても、怖くはなかった。
(綾人君だもん)
こんなに強引なのは意外だけど、すぐに自由にしてくれて、なにか気の利いたことでも言ってくれるんだ。
そしたら、ちょっと怒ったふりをして、許してあげる。
体つきのこともそう。ファーストキスを強引に奪われたに女の子にしては、さっきから少々ずれた、といってもいいことを、一葉は考えていた。
でも、綾人はなかなか、一葉を離そうとはしない。
「っ」
お互いに息が苦しくなって、一度離れた唇を、綾人が強引に、すぐに重ね直す。
(……綾人君)
足に力が入らない。綾人の腕の中で支えられながら、ときどきビクッと震えてしまう体に合わせて、まぶたもゆっくりと、閉じられていく。
(どうしよう)
両手は、綾人の太ももの外側くらい。背中に……いいのかな?
ようやく顔を離した綾人は、腕の中の一葉の耳元で、ささやいた。
「好き」
(わ……わっ)
その言葉に、改めて、自分の置かれた状況を理解した一葉。頭が一気に、沸騰する。
それでも、なかば無意識といっていいくらいの調子で、綾人に応えようとする。
「あ、あのね……ちょっと、びっくりしちゃったんだけどね……私もね……あや」
まだ途中なのに、一葉はもう一度、全部の自由を奪われた。
(……もう……なんで)
そっと綾人の背中に回る、一葉の両手。
一度、息をしてすぐ、今度は自分のほうからキスする一葉。
でも、そこは初めての、経験のない一葉のことで。
加減が分からず、歯と歯がぶつかって、カチッという音がした。
一葉は恥ずかしそうに、もともとつむっていた目に、ぎゅっと力を入れる。
そんな一葉を、綾人はとても可愛く思う。
ふんわりとカールした、少し色素の薄い髪。普段している、少しあか抜けていない趣のあるメガネも、親しみやすい素朴な魅力を持った一葉には、なんのマイナスにもならない。
そんな風に思う綾人が、一葉を好きなのは、それはそれで、間違いのないことなのだ。
今年の高校の入学式から、三週間。
これが、綾人の仕切り直しの高校生活における、女性遍歴の第一歩になった。
綾人は少し、普通の人とは違うところがある。
もともとそうだったわけじゃない。色々な偶然が重なって、そういうことになった。
そのあたりの事情には、昨年の冬に起こった事故から連なる、いくぶん込み入った出来事の説明が必要になる。
だから、ときに綾人の入院生活、特に、現在の綾人を形造った師との出会いを振り返りもしながら、綾人の二度目の高校生活を、お話していくことにする。