油
第9章:ドラゴンの里は隠されていたんだ。
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あらすじ:ドラゴンの尻尾の肉を食べた。
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非の打ちようのない整った顔。水色の瞳が余韻を味わうようにゆっくりと細められ、淡紅色に磨かれた爪の長く細い指が白いハンカチを使って柔らかい唇を押し潰す。てらてらと光らせていた脂が拭き取られても、しっとりとした唇の鮮やかな赤さは陰りを見せない。
「美味しかったわ。」
白いハンカチに口紅は移らなかった。ボク達が見守る中、瑞々しい唇の口の端が満足げに吊り上げられる。
使い終わったハンカチを丁寧に折り畳んだ彼女の顔は喜色に満ちていた。そのお肉は食べても、食べても食べきれないほど大量にあった。そして彼女は10枚を食べたんだ。
氷漬けにされて血抜きをしてないので癖があるかと思ったけれど、確かな歯ごたえと滋味溢れる赤身は体中が喜んでいると感じるほど美味しかった。こんなに美味しいお肉は今まで食べた事が無い。
だけどね。
ヤイヤさんが食べる事は無かったと思うんだ。
図書館の管理をしている人形だと言うヤイヤさんは宮殿にいる限り食事を必要としないそうだ。だから世界の果ての宮殿にも図書館にも食料を保存していなかった。でも、ヤイヤさんは食事ができないわけじゃ無かった。
透明な宮殿を訪れた神様が独りで食事をするのは味気ないと、食事をする力を付けてくれたんだそうだ。必要としないだけで、食べる事も味わうこともできたんだ。
ボク達はソンドシタ様の尻尾を調理するために透明な宮殿の広大な敷地に1つしかない厨房へと案内された。
厨房には不思議な道具が溢れていて、火を使わずに使えるフライパンにオーブン。手をかざすと水が出る筒。食べ物を乾燥させる箱に、汚れたら次々と表面を新しくするまな板。包丁だって砥がなくても切れ味が落ちない魔法がかかっているらしい。
ヤイヤさんの魔法が出てくる本によって尻尾を覆っていた氷と鱗を丁寧に剥がされて、ヴァロアがドラゴン殺しの剣で食べやすい大きさに切ってくれる。
これで野菜や穀物が豊富にあれば良かったのだけど、土の魔法で出す塩と手持ちの少しの香辛料しかない。ボクは尻尾の肉を焼くことにして、待っている間にアグドが干し肉を作ることになった。
ドラゴンのお肉は切る事も大変だったけれど、火の通りも良くは無かった。このお肉でできたドラゴンの体を焼き殺したネマル様の炎の息は凄い火力なんだろうと思ったけれど、遺骸を灰にして消し去ったソンドシタ様の火力はもっとすごいんだよね。
ヤイヤさんが食べたのは、ボク達と同じく黒いドラゴン、ソンドシタ様の尻尾のお肉。
「う、うむ。それは良かった。」
ドラゴンが入れるほどの大広間でソンドシタ様は黒い顔を青くして応える。
涼しい顔のヤイヤさんは1枚では足りなくて、追加で9枚を焼いて平らげていた。今までの話の流れからするとヤイヤさんはソンドシタ様に気があるんだよね?ボクでもソンドシタ様のお肉を食べる事に抵抗があったのに、彼女は気にならなかったのかな。
ボク達は複雑な心境で、ヤイヤさんとソンドシタ様を見比べる。
「次は心臓を食べてみたいかしら?鳥の心臓は珍味で美味しいのよ。」
「さすがに心臓を食われたらワレが死ぬぞ。」
口元を引き攣らせるソンドシタ様は、心臓を隠しているおかげで死なない。そのおかげで尻尾もすぐに生え変わったから、ボク達も食べる気になった。
「冗談よ。」
ヤイヤさんは愉しそうに笑うけど、ボク達の胆は冷えたままだ。
「食事が終わったなら、絵を描く道具を貸してくれないか?」
「何よ?持ってきてないわけ?絵を描きに来たのに?」
「姉上を驚かせようとこっそり出てきたからな。誰かが絵を描いていたと聞いた気がしたのだ。」
「画材は残っているはずだけど、絵の具に使う油は劣化していると思うわ。」
絵具は色を決める顔料と、それを対象に固着させる糊剤とを混ぜて作る。鉱石を砕いて粉にした顔料は残っているけれど、糊剤に使う油は長い時間の経過で全て劣化して使い物にならない。乾燥してカチカチになってるそうだ。
「顔料が使えるなら、ワレの尻尾の脂と混ぜれば良かろう?」
肉を切り取った尻尾を覆っていた鱗には脂が残っていた。ソンドシタ様はこの脂を使って顔料の糊剤にするつもりらしい。
「普通は乾性のある植物の油を使うのよ?」
植物を絞って作る油は水のようにサラサラだけど、動物の脂に弾力があって固い。鱗にこびりついたまま残るドラゴンの黄みがかった白い脂は動物の脂より固かった。焼いた蕩けるように柔らかくなって美味しかったけれど。
「なに、調整すればいいだけだ。」
ソンドシタ様がヤイヤさんが尻尾から剥した黒い鱗を1枚摘まみ上げる。
「でたらめだわ。」
鱗を厨房にあった空の壺にかざすと、ソンドシタ様は魔力を込める。鱗にこびりついた固まった脂が、薄い琥珀色の透明な液体になって滴り落ちる。
「こんな物か?」
「普通はできないわよ。組成を変えるなんて。粒子がいくつあると思っているのよ。」
10枚ほどの鱗に魔力が込められた後、壺を覗けばさらさらと透き通った油が並々と注がれている。アグドが指を突っ込むと、薄い琥珀に色付いた滴りがキラキラと糸を引いて落ちる。植物の油みたいだ。
「材料は揃っていて、少し調整するだけだから難しい事ではない。が、思ったより色がついてしまったな。」
出来上がった油に満足してないソンドシタ様に、ヤイヤさんは苦虫を噛み潰す。透明な油を作ろうとしたソンドシタ様には薄い琥珀色が気に入らないらしい。油に色が付いていたら顔料の色がくすみそうだよね。
だけど、文句を言いながらもヤイヤさんの顔は嬉しそうだ。ソンドシタ様と会話ができる事が嬉しいのか、ソンドシタ様が難しいことでも簡単にこなしてしまうのが誇らしいのか分からないけれど。
「後は筆と顔料か?」
「どこに仕舞ったか覚えてないの、ちょっと時間をくれないかしら?」
昔、透明な宮殿に画材一式を置いて行った人がいたのだけど、普段は使わない物だから広い宮殿にいくつもある倉庫のどこに仕舞ったか忘れてしまったらしい。
「それ…。」
「それならボクの『失せ物問い』で探せる」と口を挟もうとしたけれど、言葉は音にならなかった。
口はパクパクと動くのに、声が出ない。
びっくりして辺りを見回すと、ソンドシタ様が緑色の瞳でウインクをくれる。ソンドシタ様がボクが言葉を続けられないように魔法で口止めをしたんだ。
「頼んだぞ。ワレらは先に図書館に戻り、姉上の記憶を探している。」
頼られて嬉しいのか、ステップを踏むヤイヤさんが部屋の外へと出ていく。ボクの『失せ物問い』で探せばすぐに見つかるのに、ヤイヤさんに伝える事ができなかった。彼女も記憶の本を探す時に見ていたから知っているはずだけど、気が付かなかったみたいだ。
「ふぅ。これで時間が稼げる。」
ボクが『失せ物問い』で探したらすぐに画材を見つけてしまう。ヤイヤさんにネマル様の弱点を探していると伝えずに記憶を調べるなら、彼女を探している場所から遠ざける必要がある。だからソンドシタ様はボクの言葉を遮ったんだ。
でも、倉庫がいくつもあったって、長い時間を生きてきた赤いドラゴン、ネマル様の記憶の中から弱点を探すほどの時間を作る事ができるのかな?
ヤイヤさんなら手伝ってくれそうだから、素直に協力を求めれば良いのに。
ボク達はソンドシタ様に掴まって広い図書館に戻ったんだ。
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次回:『産まれた日』の記憶の本




