酒樽
第8章:ドラゴンなんて怖くないんだ。
--『酒樽』--
あらすじ:ドラゴンが酒樽を浮かせた。
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「な、バカな!酒の満ちた樽を、こんな小さな空気袋で浮かせただと!?」
ボクが目を開く向こうで、船長さんがおののく。
ボクはソンドシタが酒の満ちた重い樽を浮かせた事に目を見開いて驚いたのだけど、船長さんたちは酒樽を浮かせた空気袋のサイズに驚いていた。ボクには良く分からなかったけれど、ソンドシタが作った苔の空気袋は浮揚船を浮かばせている袋よりもすごいらしい。
ドラゴンの喉を潤せる酒の樽はヴァロアが賞金の金貨を貰った小樽なんかじゃない。大人が入れるくらいの大きさがある普通の酒樽だ。酒樽を浮かせている苔の空気袋は樽の3個分くらいかな。
浮揚船と比べると、確かに空気袋が小さく見える。
「あ、いや、さすがにこの重さだとちょっと難しくてな。『早い空気』とやらを『もっと早い空気』に変えたり、樽の酒の入っていない隙間にも『もっと早い空気』を満たしたり。まぁ、それでも足りなくて見えない袋も作る羽目になったのだ。」
あまりにも船長さんたちがびっくりしているので、ソンドシタはオロオロと小さな空気袋の秘密を白状した。小さな袋がどうしてすごいのか解らないボクにも、ソンドシタのしたことがすごいことだって事だけは伝わっている。
ツルガルの国の王族が極秘にして長い年月をかけて作った浮揚船の仕組みを、ソンドシタは小さな酒樽でとはいえ真似てしまったんだ。
糸を使わず小さな苔を集めて形を整えた袋に、特殊な場所でしか集められない『早い空気』を、何もない白い大地で『もっと早い空気』を集めた上に、空気袋と樽の中と2か所に充填する。人間に見えない袋もあるから3個所以上だ。
しかも、指を振っただけで魔法陣も浮かべずに複数の魔法を同時に使っている。いや、魔法だよね?自信がないけど。
ほとんどの人間は1つの魔法を使うだけで精いっぱいだ。1つの魔法陣を正確に脳裏に思い浮かべるだけでも訓練しなきゃできない。
ボクも小さい頃に母親に見せられた魔法陣を地面に書き写して、うんうんと唸りながら覚えたんだ。魔法を使わないと水も火も手に入れるのに時間がかかるし、浄化もできない。生活に必要だから幼いうちに必ず覚えさせられる。
でも、2つの魔法を同時に使うことはあまりない。
魔法使いと呼ばれる人たちは2つの魔法を同時に使うことができるそうで、アグドは2個の魔法陣を両目に映して2個の魔法を発動させた。それだって小さな火の玉を飛ばしただけで、小さな魔獣を倒すには至らなかった。
2つの魔法を同時に使うこと自体が1つの魔法を使うよりもはるかに難しい上に、アグドの使った火の玉を早くする魔法を使うなら、火矢を用意して撃った方が遥かに早くて威力もある。だから、2つの魔法を同時に使う方法を学ぶなら、弓矢の練習をするんだ。
打つ時にだけ矢に火を点けられればいいじゃない。
勇者アンクスの魔法使いであるウルセブ様も2つの魔法を同時に使うことができるのかもしれないけれど、魔獣を倒す時も魔道具を使ってばかりだったから見たことが無い。そう、複数の魔法を使いたかったら魔道具で補う方法もあるんだ。高いけど。
ソンドシタは魔道具を持っていなかった。
いや、ドラゴンは何も持っていなかった。
相手を傷つける剣も、身を護る鎧も、便利な道具を入れる袋も。敵に当たれば大きな体で押しつぶせば良くて、身を護る術は硬い鱗で十分で、魔法以上に便利な道具は無いんだ。
間違ったことをしでかしてしまったかのようにオロオロとするソンドシタにボクの体は勝手に震える。
その長い尻尾を一振りすれば人間なんてゴミのように吹き飛ぶと注意していたのに、その指が軽く振られただけで魔法が使われて死に至れると知ってしまった。
魔法で作られた苔の袋が頭の上に振ってきただけで、ボクなんてパニックになるよ。そして、袋の中の空気が抜かれて、口の中までコケで埋められるかもしれないんだ。
人間がドラゴンを討伐したというおとぎ話があったけれど、作り話かもしれない。
「うおおおおおお!!!!スペシャル★ミラクル★ウインド★ファイヤー!!」
右隣でボクの護衛を務めていたアグドが絶叫する。
洞窟で石帽子の魔獣をはじき返した魔法を、一瞬の間に仁王立ちになって叫んでいたんだ。
右の目と左の目に色の違う魔法陣を輝かせて叫ぶ魔法は、洞窟では助けになると喜んだけど、今はドラゴンに向けられている。
火の玉がすごい勢いでソンドシタに向かって飛ぶ。
ぺちん。
ソンドシタが長い尻尾を軽く振ると、そんな擬音がぴったりと合いそうなくらい簡単にアグドの渾身の火の玉は消滅した。
「そんなに怒らなくても良かろう。確かに『もっと早い空気』は色々な物に変化を促しやすい。だから『もっと早い空気』と酒の間に保護膜を作っておいた。酒は劣化しないぞ。」
続けて「貰ったものを大事にしないと姉上に怒られるからな。」とうそぶくソンドシタはアグドの事を欠片も気に留めていない。人間の事よりもお姉さんの事を気にしているんだ。
ボクが頭を抱えるよりも早く、船長さんの指示を待てなかった兵士さんたちによって絶望の表情で顔を固めているアグドが取り押さえられた。
今、ソンドシタの機嫌を損ねたら、お願いどころかボク達の命が無くなるかもしれない。ソンドシタは簡単にそれを実行できる。兵士さん達の動きは見た事もないくらい早く乱れが無かった。ドラゴンの力は計り知れなくて、機嫌を損ねないように真剣なんだ。
「ソンドシタ殿。部下が無礼を働いて申し訳ない。こんな奴でも重要な仕事を務めてくれている。どうか我らが与える罰だけで許して欲しい。」
ボクはアグドをソンドシタに売り渡した方が安全だと思ったけど、船長さんは庇う事にしたようだ。
「ん?ワレが贈り物で遊んでしまったから怒ったのではないのか?確かに貰ったばかりの酒樽を使わずとも、そこいらの岩で試せば良かったのだ。しかし、どう見ても重そうでな。」
白い大地の岩は地面に貼りついて動かせそうもない。少なくとも人間には。でも、ドラゴンには重そうだの一言で終わるものらしく、サスネェさんが『英雄劇薬』を使ってまで運んだ重い酒樽を手頃だったと評価した。
「いえ、我らが贈った物をどうしようとソンドシタ殿の自由です。確かにお姉様の教えの通り美味しく飲まれなければ我々は残念に思いますが、決して口を、ましてや手を出して抗議するような事ではございません。」
「いやいや、怠慢をしたワレが悪かったんだ。」
「いえ、アグドが悪いのです。」
冷静に見える船長さんでも額にはびっしりと玉の汗が貼り付いている。ソンドシタのやった事を肯定しなければならないのに、ソンドシタよりも上の立場みたいなお姉さんの言葉にも否を唱えられない。一歩間違えれば自分達だけ死に至るのに、お互いに責任を奪い合っている。
綱渡りの気分だよね。
兵士さん達も息を飲んだまま、まるで存在を消したがっているように息を吐いていない。
だって、
ドラゴンなんだもん。
ボク達は戦々恐々としてクラクラしているのに、ソンドシタは警戒すらしていない。アグドの渾身の魔法を軽く尻尾を振って羽虫のように落とし、勢い余って地面を叩いたはずなのに、ドスンとも音がしなかったし揺れもなかった。
おとぎ話にあったドラゴンの尻尾の力強さも、ましてや炎の息すら見ていない。
ドラゴンは少しも力を見せていないにも関わらず、今はもうドラゴンの長い尾にびっしりと貼りついた黒い鱗が少し輝きを変えるだけでびくびくしている。それはボクだけじゃない。他の兵士さん達も生きた心地がしないみたいだ。
たぶんアグドはその緊張に耐えられなかったんだ。
なまじ2つの魔法を同時に使えるから、余計に動けてしまったんだ。
ボクには指先を動かす勇気さえない。
決着のつかなかった責任の奪い合いの末は沈黙が支配した。
沈黙が続き気まずさに変わろうとした時、ソンドシタ様は口を開いた。
「なぁ、そろそろオマエ達が姉上の里を目指す理由を教えてくれないか?」
それは2回目の質問だった。
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次回:繰り返される『質問』




