双丘
第6章:手紙を届けるだけだったんだ。
--双丘--
あらすじ:ヴァロアの胸にふたつの膨らみがあった。
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しっとりと朝霧に濡れた白いシャツの下。ふかふかな2つのふくらみに包まれて困惑する。柔らかくて温かい。ヴァロアの汗の香りがスンっと鼻につく。いい匂い。頬には幸せになる柔らかな感触があり、耳に彼の吐息を感じる。
やわらかい。
あたたかい。
やわらかい。
ふかふかだ。
ふわふわする。
いいにおい。
おっぱい?
ヴァロアの長い髪がボクの首筋を叩いて濡らし、湿気を帯びただぼだぼのマントがボク達を包んだ。
「重いッス!」
ヴァロアを押しつぶした形で彼の胸を埋めているボクは慌てて体を引いた。狭い御者席で手が幌馬車の縁をとらえ損ねて空を切り尻もちをつく。
「おっぱい?」
男には無い柔らかな双丘が彼には有った。やわらかかった。
いや、おっぱいだよね?
女の人はあまり独り旅をしない。無いわけじゃ無いけど、旅の途中には野獣や魔獣も出るし山賊も出る。女の人は体格的に歩幅も狭く筋力も弱い。旅の荷物を持つのも大変だ。
荷物を馬車で運ぶにしたって、いっぱいに詰まった木箱や樽の上げ下げもしなきゃならないからね。体一つで旅をすることなんてない。せいぜいが日帰りで隣の村に多少の収穫物を運ぶ程度だ。
「ななななな、なにを言ってるんッスか!!」
ボクに胸を凝視されて首を真っ赤にしたヴァロアが、だぼだぼの青いマントを掻き上げて胸を隠した。右手にはしっかりと薪割りの剣が握られている。
「あ、ごめん。女の子だと思ってなかった。」
ジルの女の子のような声よりも低い歌声。旅をする吟遊詩人なんて男だと思っていた。女の子がひとりでボクのような男といっしょに旅をするなんて思わない。だって彼、いや彼女か。彼女はボクを一人旅だと思っていたんだから。恋人でもない男と2人っきりで旅をしようと思わないよね。
胸を守るように隠したままヴァロアは剣を移動させる。脇に避けるようでいて、けどすぐ振れる場所に置き直した。ブルベリしか弾いた事のないような細い腕の、どこに剣を振りまわして3人の山賊を一瞬で叩き落す力があるんだろう。
痛い視線を感じて胸から目をそらし整った彼女の顔を改めて見つめると、首は赤くなっているのに頬は白けている。朝霧に濡れた首筋に土気色の雫が流れた。
「女の独り旅は物騒ッスからね。」
ヴァロアは魔法で水の玉を浮かべると顔を洗った。浄化の魔法をかけて汚れた水を洗い流すと、そこにはかわいらしい女の子の顔があった。
意志の強そうな鳶色の目元はそのままに、丸くなった頬は上気したままなのか赤味がかかり、艶やかなピンク色の唇がぷっくりと尖る。化粧って頬の輪郭まで変えることができるんだ。
「顔の形まで変わっていない?」
「錯覚って言うらしいッスよ。影を描いておくと見た目が誤魔化されて違うカタチに見えるッス。」
呆けたボクの視線にヴァロアは改めて頬を染めて顔をそむけた。開いた口が塞がらない。
土気色に濁った化粧を数種類使いこなすと離れた人の目を誤魔化せる。唇には草の汁を乾かして赤茶色にした粉とねばねばの根の汁を混ぜたものが使われているらしい。体格は錯覚ではどうにもできなくて、だぼだぼの大きな服で隠しているそうだ。おっきいものね。
「化粧もヴァロアの家の趣味のひとつなの?」
『帆船の水先守』のギフトを使うヴァロアの家の趣味はブルベリを弾く事や剣を振ることなど、船が沈まないように道案内をする本来の使い方とは全く違っていた。男装をするための特殊な化粧が家に伝わる趣味だったとして、もうボクは驚かない。
「そんなワケ無いッスよ。女の子なら誰でもできるんじゃないッスか?」
簡単に誰にでもできると言われても信じられないよね。誰にでもできるって事は女の子の顔って見た目とは違うのかな。王女様や侍女のカナンナさんも化粧をしていたけど、本当の顔は違うんだろうか。聞いたりしたら怒られそうだけど。
ジルとカプリオがクスクスと笑う声が『小さな内緒話』を通じて聞こえる。
彼女を男だと思っていたのはボクだけらしい。
盗賊を突き落として逃げてきた幌馬車は、彼らが追いつけないとカプリオが判断したからか、いつの間にか速度を落としてゆっくりと歩いていた。霧の中で走り続けるのも大変だもんね。
でも、ジルもカプリオもボクを助けてくれそうにない。
「女だったら連れて行ってくれないッスか?」
ずいっと近寄ってきて上目遣いになる。見上げるように覗き込まれる鳶色の瞳が揺れて動く。今度はボクの方が押し倒された形だ。甘い息が鼻にかかる。
「え、いや。そんな事はないよ。」
男だろうと女の子だろうと変わらない。王妃様の大事な手紙を盗まれるワケにもいかないし、ボク達は3人で旅をしてきてそれが楽しかった。新しく旅の連れを作る気なんて無い。
「やった!自分も連れて行ってくれるんッスね!」
男でも女の子でも連れて行かないと答えたつもりだったけど、ヴァロアは彼女が男でも女の子でも連れて行ってくれると解釈したらしい。乗りかかっていた体を起こして拳を握る。
「いやいやいや、連れて行かないよ?」
「今、連れて行ってくれるって言ったッスぅ!」
「だから、女の子だから連れて行かないという事はないと言っただけで・・・。」
「女でも連れて行ってくれるって事ッスよね?」
「いや、そもそも男でも連れて行かないよ?」
「ああ、女の子だから連れて行ってくれるって事ッスか?兄さんもスケベッスか?」
「いやいやいや、スケベってなに。」
「自分の胸をじっと見つめていたッス。」
「胸だけじゃ無いよね?顔もだよね?」
女の子だと思わなくて、つい見つめてしまったけど、確認するために見つめたのは胸だけじゃなく、顔もだよね。
「胸に顔を埋めてクンクンしてたッス。くすぐったかったッス。」
「してないよ?」
大げさな芝居じみた動作でヴァロアは顔を手で覆った。胸に顔を埋めた事も匂いをかいだことも事実だけど、鼻を鳴らすほどじゃないよ。ホントだよ。良い匂いだとは思ったけど。
「男っていつもそう言うらしいッス。姉さんが言ってたッス。嘘つきッス。もう、お嫁にいけないッス。」
「嘘なんてついてないよ。最初っから連れて行かないって言ってたじゃない。」
「自分の胸に男を招き入れた事なんてなかったッス。クンクンされた事なんてなかったッス。変態ッス。」
「事故だったんだよ。」
「助けたのに感謝の言葉も無いッスよ?無理やり手籠めにされてポイっと捨てられるッス。」
喚き散らし疲れたのか肩を落として振るえるヴァロア。胸に顔を埋めてしまったのは事実だし、助けてくれたのに感謝も言えなかった罪悪感もある。慰めようと彼女の肩に手を伸ばしたら、鈍色の光が音も無く走った。
「連れて行ってくれるッスよね?」
夜の間に冷たくなった抜き身の剣がボクの首筋に触れる。
朝霧を切り分けた薪割りの剣の刃が、集めた露を伝えて喉元に流す。
真剣な鳶色の目にボクがゴクリと唾を飲み込むと首がかすかに前に動いた。
「ああ、また剣の力に頼ってしまったッス。」
ボクの首がかすかに動いた事を同意して頷いたと解釈したらしい。剣を捨てて歌に生きると決めた彼女は暴力を封印しているそうだ。その割に、山賊は鞘を付けたまま殴っていたのに、ボクの時は抜き身になっていて脅す気にあふれていたよね。
「いやいやいや、連れて行くって言ってないからね!?」
薪割りの剣を握りしめて大げさに嘆くヴァロアにボクの声は届いていなかった。
朝霧は雨となり、しとしとと降る。
額に手を当てて天を仰ぐヴァロアの白いシャツを濡らし、雨は双丘をくっきりと浮かび上がらせた。
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次回:『国境の街』アイナワ




