初めての宿
海の街を出発した馬車は、木々の多い場所を通り抜けていた。
周囲に気は多いものの道は整備されているらしく馬車が大きく揺れることはない。
外から入ってくる風も潮の香りより緑の香りが強くなっていた。
「アリシアは海を気に入ってくれていたけど、もしかしたら次の領地の方が落ち着くんじゃないかと思っていたんだ。海では僕の希望で少し時間を長く取ってしまったけど、アリシアは森の木々に囲まれている方がよかったかな」
「そうですね、私は自領と王都しか知りませんでしたから、同じように木々に囲まれているところは落ち着くかもしれませんが、海での時間は充実していてあっという間でした。もしあれよりも時間が短かったら足りないくらいです」
海の街では新しい友達ができた。
その話はフランツにはできないが、アリシアにとっては大切なことである。
次に会った時、彼女にどんな話ができるか、考えただけでも楽しみで仕方がない。
「そう言ってもらえるとありがたいな。じゃあ、今度はもう少しゆっくり時間を作ろうか。お店もゆっくり見られなかったし、あの街は食もたくさん楽しめるんだ。港町のお店も見れなかったしね」
「はい。次は港町も行ってみたいです。活気があって賑やかそうでしたから」
フランツは本当に海の街が好きなのだと話を聞きながら思った。
本当はもっとゆっくりしたかったのだろう。
しかしフランツはフィリウスが戻るまであまり外出が許されない立場である。
この街に次に来るのは数年先になることだろう。
日の暮れかかった頃、彼らは目的の街に入った。
森の木が途切れ、夕焼けに染まる山と街が広がっている。
馬車は山を正面に見ながら街の中を走っていった。
しばらくして、中心から少し外れた山の近くにある宿の前で馬車は止まった。
「私、宿にお世話になるのは初めてです」
「そうなんだね。私たちがいる間は貸し切りにしているし、一般の人は来ないから安心していいよ。一緒に移動している人たちは全員ここに泊まるから、アリシアは宿の人たちの顔だけ覚えておいて。知らない人が入り込んでいるようならすぐに誰かに声をかけてほしい」
「わかりました」
二人が馬車を降りると、宿の者たちが勢ぞろいで出迎えた。
「ようこそお越しくださいました」
そこにいたのは宿の主と思われる老夫婦と、三名の若い男女だけであった。
「出迎えありがとう」
フランツが慣れたように挨拶を交わす。
「お世話になります」
アリシアも隣で頭を下げて挨拶をする。
その後ろではすでに馬車から荷物を下ろす準備が始まっている。
「部屋はいつものとおりでございます。最上階の三階はフランツ様とアリシア様のお部屋、二階はお連れの方々のお部屋、我々は一階におります。一階には食堂もございます。何かありましたらいつでもお声掛けください」
案内を受けている間にも手慣れた様子で馬車から荷物が宿の中に運ばれていく。
「とりあえず食堂でお茶をいただいても?」
「かしこまりました。それではご案内いたします」
フランツがそう言うと、主人は中に入っていった。
その後をフランツとアリシアが続き、後ろから他の人が続いた。
主人についていくと、ほどなく食堂に着いた。
「お好きな席にお座りください」
主人はそういうとお茶の準備のためか、さらに奥へと進んでいく。
そして二人の後ろからついてきた若い男の一人が主人の後を追って急いで奥へと続いた。
他の人たちは黙って入口で待機している。
「とりあえず座ろうか」
フランツに促されてアリシアは近くにあった席に腰を下ろした。
「この宿にはよくお世話になるんだ。みんな勝手がわかっているからさっさと荷物を運びこんでいるけど、驚いたよね。僕は荷物運びの邪魔にならないように、ここに来たら最初にお茶をいただくことにしているんだよ」
フランツは事情を説明した。
「確かに、入口で立ち止まってしまっては、運び手の方のお邪魔になってしまいますね」
アリシアはうなずいた。
お茶は先ほど主人の後を追って中に入った男が運んできた。
先ほどはしていなかった帽子とエプロンをしているのでおそらくここのシェフなのだろう。
「お茶の時間には少し遅いかと思いますが、よろしければこちらもご賞味ください」
彼が一緒に持ってきたのはクッキーだった。
見た目にわかるほどたくさんの木の実が入っていて、とても良い香りがしている。
おそらく彼が焼いたものだ。
「ありがとう。アリシア、彼はここで料理を担当しているんだ。いつもこの土地の物を活かした料理を出してくれる」
フランツが彼について説明するとクッキーを皿から取って自分の口の中に入れて味わった後、お茶に口をつけた。
「あ、はい」
それを見て慌ててアリシアもお茶とクッキーに手をつける。
クッキーを口に入れると、木の実の香りが口の中に広がった。
「おいしいです。とても香りと木の実の触感がいいですね」
アリシアが笑顔で彼に感想を述べると、彼はそのまま奥へと戻っていった。
「フランツ様……あの、申し訳ありませんでした」
アリシアは小声で言った。
「なに……って、ああ、僕が先に口をつけたからか。アリシアは初対面だから仕方がないよ。僕は彼の料理を何度も食べているし、彼らが何かするような人たちだったら、そもそもこの宿を使ったりはしない。特に今回はアリシアがいるからね。僕が知らないところには泊まらないことにしたんだ。これでも安全には気を使っているつもりだよ」
「はい……」
二人は宿の人たちを気遣って聞こえないように話した。
アリシアが出されたものに手をつけるのを躊躇ったことは当然のことで、その警戒心は必要なものだ。
フランツの場合は王族として耐性を身につける訓練もしているし、エルがつくようになってからは、何かあればエルの方が先に教えてくれるのであまり心配はないのだが、アリシアからすれば、自分が格下なのだから独身をするべきだったと反省しているのだろう。
「なんだかいいにおいがしてきたね。夕食を食べてから戻る方がいいかもしれないな。部屋が三階だから、行ったり来たりするのは大変だし、ここで待たせてもらおうかな」
フランツが入口に立っている夫人に聞こえるようにそう言った。
「かしこまりました」
夫人が慌てて奥に行こうとしたのをフランツが止める。
「慌てなくていいですよ。今はおいしいお菓子をいただいていますし、夕食は急ぎません」
「さようでございますか」
どうやら、彼らはどうしていいか分からず手持無沙汰になってしまっているようである。
「私たちの食事が終わったら、うちの者たちがお世話になるから今のうちに少しゆっくりしていてくれるかな」
フランツが気を使って声をかけた。
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えまして彼らを一度休憩させたいと思います。私は残りますので……」
夫人は残りの二人に休憩を言い渡すと自分は再びドアの入口に立って夕食の配膳ができるようになるのを待っているのだった。
二人が食事を終えて部屋に戻る頃、入れ違いで同行者たちの夕食が始まった。
食堂からはにぎやかな声が聞こえてくる。
いただいた食事はどれもおいしかったので、彼らもその味に舌鼓を打っているに違いない。
きっと休憩を出された人たちも総出で頑張っているのだろう。
アリシアは部屋の中でその音を遠くに聞きながらベッドの上から外を眺めていた。
街は灯りが多く、まだにぎわっているのがわかる。
手前の街が明るいため森を確認することはできないが、その奥の真っ暗なところには木々があり、山の森になっているのだろう。
アリシアは翌日の視察のことを考えているうちに、そのまま眠りに落ちたのだった。




