海の街へ
数日の滞在で、森の辺境領での視察を一通り終えたフランツとアリシアは次の地に向かって出発することになった。
それに合わせてアリシアの家では、朝から馬車に積む込む荷物の運び出しが始まった。
寄宿舎から荷物を運び出すのと、実家から荷物を運び出すのでは、気持ちが違う。
寄宿舎はいずれ離れる場所だったけれど、実家はずっと生活をしていた場所だ。
荷物が減っていくと戻ってこられないような気がしてしまう。
「実感がなかったけれど、こうして部屋から荷物が減っていくのを見ていると寂しくなってくるわね」
アリシアと一緒に部屋の入口で作業を見守っていたアニーがぽつりと漏らした。
「お母様……?」
「時々は帰ってきてちょうだいね」
「はい」
私物がほとんどなくなっても、この部屋は残してくれるという母親の思いを受けて、またここに帰ってきたいとアリシアは思った。
「アリシア、おはよう」
突然声を掛けられて二人は驚いてそちらの方を見た。
声をかけてきたのはフランツで、彼は荷物の運び出しの人にまぎれて中に入ってきたらしい。
「まあ、フランツ様。わざわざこんなところまで……。アリシア、フランツ様とお茶をしていらっしゃい。ここは私が見ておきますから」
アニーはすぐに頭を切り替える。
「そうですね……。フランツ様、もう少し時間がかかりそうなので、お茶をご用意しますね」
「勝手に見に来たのに、気を遣わせてしまったね。それじゃあ、お言葉に甘えることにするよ」
そうして二人はお茶をするため、部屋を後にした。
アニーは、わざわざ早朝から家を訪ねて来たフランツと、案内をしているアリシアを見ながら、二人がうまくやっていることが感じ取れてホッとしていた。
そして二人の背を見送りながら、アニーはアリシアの幸せを祈るのだった。
荷物の積み込みが終わり、玄関を出ると、門の外に人だかりができていた。
気がつけば外にはたくさんの馬車が止まっており、何事かと人の目を引いていたのだ。
「これは……」
呆気に取られているアリシアをよそに、フランツは人だかりの方に向かって行く。
「フランツ様?」
慌ててアリシアはその後を追った。
「皆、騒がせて申し訳ない。間もなく出発するから、門の前は馬車が通れるように空けておいてもらいたい」
慈愛の笑みを浮かべたフランツがそう言うと、野次馬たちは門の前から退いた。
そんな様子を少し離れたところで見ているとフランツに呼ばれた。
言われるがままアリシアがフランツの側に近付いていくと、肩に腕が回り引き寄せられた。
「皆、知っていると思うが、私は彼女と正式に婚約をした。彼女には王都で暮らしてもらうことになるが、これからも彼女と一緒にこの地の繁栄を願っている」
野次馬たちが、殿下自らの言葉に呆然とする間に、フランツはアリシアを連れて馬車の方に戻っていく。
いつの間にか馬車の乗りつけた玄関先には家族が揃って見送るために揃っていた。
「気をつけて行ってらっしゃい」
「はい」
アリシアは家族と挨拶を交わすと馬車に乗り込んだ。
フランツがいるため、馬車に向かって家族は頭を下げているが、その様子をアリシアはしっかりと目に焼き付けた。
馬車は実家を出るために動き出し、アリシアは遠くなっていく家族を窓から見えなくなるまで覗き込んでいるのだった。
アリシアは森の辺境領の街を出たところでようやくきちんと席に着いた。
二人は向かい合わせに座っている。
「あの、さっきのは……」
一瞬で野次馬を黙らせたフランツにアリシアは困惑していた。
「僕は殿下なんだ、一応ね。人前に出るのは慣れているんだ。無駄に地位が高い分、貴族にも民衆にも囲まれやすい。だからああいうことはよくあるんだ。騎士が出て行くより物々しくならないから僕が出るのが一番丸く収まる」
「はい……」
アリシアは改めてフランツと住む世界が違うと感じざるを得なかった。
今のフランツには感じないが、先ほどのフランツは明らかに人に否と言わせないオーラがあった。
これが王族の持つ天性のオーラなのかと、隣にいながら自分が場違いであるように思えてしまう。
思わず黙り込んで俯くと、フランツが下からアリシアの顔を覗き込んだ。
「大丈夫だよ。僕が一緒だから」
フランツはアリシアが一人であのような場面に遭遇することに不安を覚えているのだろうと感じてそう言った。
アリシアはそんなフランツにただ笑顔を返すしかできなかった。
丸一日、王都とは違う方向を目指す馬車に揺られ、二人は本日の目的地である港町に入った。
この街は海の街として知られており、漁業と外交と観光業で成り立っている。
貝や魚の骨などを加工した工芸品も多く、非常に活気のあるところである。
フランツとアリシアはこの街にある王族の持つ別荘に滞在することになっていた。
馬車は街の中を通り抜けて、海沿いの道を進んでいく。
馬車の窓からは海岸に寄せては返す穏やかな波と、日の光を反射して輝く海が見える。
アリシアは初めて見る海に感嘆の声を上げた。
「これが海ですか?とてもきれい……」
「アリシアは海を見るのは初めてなんだね。そんなに喜んでもらえるなんて嬉しいよ」
そう言われて我に返ったアリシアは窓から顔を離した。
「もうすぐ別荘に到着するよ。アリシアに用意した部屋からも海が見えるから、荷物を置いたらゆっくりするといいよ」
「ありがとうございます」
馬車は少し坂を上り、海の見える位置に多く立ち並ぶ別荘街を走り始めた。
アリシアが再び窓に顔を向けると、建物の隙間から見える青い海が徐々に赤く染まっていくのがわかる。
「暗くなる前にどうにか到着できてよかった」
馬車はスピードを落とし、一軒の屋敷の前に止まっていた。
「こちらですか?」
アリシアは確認しながら立ちあがれるように準備をする。
「荷物は運ばせるから、早く中に入ろう。今ならまだ夕日が見られるかもしれない」
フランツはアリシアに馬車を降りるよう急かして、彼女の足が地面に着くのを確認すると、腕を掴んで出迎えて使用人の間を通り抜けていった。
「あの、いいんですか?お迎えの方が……」
「大丈夫。おいで」
アリシアはフランツの無邪気な子供のような振る舞いに驚きながらも、フランツに引かれるまま屋敷の中に足を踏み入れた。
そのまま入口とは反対側にあるバルコニーまでアリシアを引っ張っていく。
「間に合ってよかった」
バルコニーの先に広がっていたのは、真っ赤に染まった海だった。
地平線の彼方にはすでに紺色の闇が迫っている。
重い原色のコントラストだが、自然が生み出す絵画のような光景である。
アリシアはバルコニーの柵の前まで吸い寄せられるように近づいていた。
アリシアが柵に触れると、急に後ろからフランツの片腕がアリシアの体を抱えるように回された。
「危ないから乗り出さないで」
「ご、ごめんなさい」
アリシアが驚いて柵に触れていた手を離すと、フランツはすかさず反対の腕も彼女の体に回して後ろからしっかりと抱きしめた。
アリシアはフランツの急な行為に動揺しつつも、身動きを取ることができないままのため、視線を再び海に戻した。
結局二人はそのまま真っ暗になるまで黙って変わりゆく景色を眺めていた。
アリシアはこの状況にただ戸惑いながらも、フランツが室内に戻るよう声をかけるまで、何も言うことはできずにいたのだった。




