フィリウスの帰還
王妃教育で主たるものは習得し終え、周辺環境が整って落ち着いたアリシアは、フランツの執務室に出入りするようになっていた。
もちろん、ただ一緒に過ごしたいからなどという理由ではない。
フランツの業務を覚え、必要に応じて代行することになるため、仕事を覚えておく必要があるためだ。
こうして執務室に出入りするうち、フランツの周囲にいる人たちとのやり取りは増え、お互いを認識できるようになっていった。
これも大事なことで、彼らの顔と名前が一致しないと、何かあった時に話をすることもできない。
それでは業務は滞ってしまう。
仕事そのものは、領地で父親の仕事を見て育ち、王都上級学校でも学んでいたアリシアにとって、さほど難しいものではなかったため、アリシアの主な課題はこの執務室に出入りする人間の顔と名前と役職を覚えていくことだった。
アリシアの王宮での生活にも変化が出ていた。
フランツとの朝食後、執務に向かうフランツを見送って部屋で王妃教育の講師を待つという日々から、フランツと一緒に執務室に向かうというものに変わっていた。
お昼は執務室で、その場にいる人間と一緒に取ることが多かったフランツは、アリシアがいてもそのスタイルを変えることはなく、結果、彼女は三食すべてをフランツと共にすることになった。
その結果、執務を共有することによって、アリシアとフランツの間には執務という共通の話題が増えていき、会話も以前より増えていた。
そして、執務室に長時間滞在するアレクとアリシアも親しく話すようになっていた。
フランツは執務量が多いため、アリシアに仕事を教える役割をアレクが担うことになったのである。
もちろん、指導はフランツの目の届くところで行われており、彼はアレクとアリシアを視界に入れつつ作業を進めているし、アレクも監視されていることを理解しながらアリシアに接している。
アリシアとアレクの会話では、執務のことやフランツのことだけではなく、マリーのことも話題になることが多い。
最近ではマリーにもアレクとアリシアが執務室で会うということが伝わっているらしく、プライベートな手紙はアレクを通してやり取りをすることが増えた。
そんな穏やかな時間を過ごせるようになってしばらくしてからのことである。
朝の時間にも少し余裕ができてきたこともあり、その日は朝食後に少し庭を散歩してから執務室へ向かうことにしていた。
アリシアに執務を手伝ってもらうようになってから仕事の進みが大変よく、一人で早く執務室に行き作業をこなしていた時と同じ時間に仕事を開始する必要はなくなっていた。
早く執務を開始し、夜遅くまで残って執務を終わらせる日々は、アリシアによって解消されたのである。
通常より多い場合でも、今まで通り作業を開始すれば、一人夜遅くまで残らなくても定時で仕事が終わっているし、確認する書類の量が少ない時は時間が余るくらいである。
しかし、朝食の時間を変えることで、せっかく増えたアリシアとの時間を減らすのは、フランツにとって不本意だ。
そこで、執務に余裕があることが分かっている日はこうして王宮内を案内して歩くことにしたのである。
朝食を終えたアリシアとフランツが廊下を歩いていると、見慣れない人がフランツに声をかけた。
「やあ、フランツ。久しぶりだな!」
殿下に対して随分と気さくに話しかける人だとアリシアが驚いていると、
「兄上……。お戻りでしたか」
フランツが、珍しいものを見るように声の主を見て言った。
「ああ、ちょっと野暮用で戻ってくることになったんだ。こちらのお嬢さんは……?」
彼はフランツに似た穏やかな視線をアリシアに向けた。
「私の婚約者のアリシアです」
「そうか、彼女が!」
フランツの兄、第一王子のフィリウスは嬉しそうな声を上げた。
彼はフランツとアリシアの、もといこの婚約に関する事情を知っている数少ない一人である。
前に戻ってきた時には、まだ出会いの場をうまく作れていないと聞いてやきもきしていたが、なんとかここまでこぎつけて、彼女を無事に王宮に迎えられることになったようだ。
婚約については風の噂で聞いて知っていたが、フィリウスが彼女に会うのは初めてである。
フィリウスは笑顔のままアリシアに近づくと、微笑みながら言った。
「改めまして。フランツの兄のフィリウスです。弟がいつもお世話になっています」
「初めてお目にかかります。アリシアです。お世話だなんてとんでもありません。私もご迷惑をおかけしないように日々を過ごしてまいりますので、どうぞお見知りおきを……」
話しながら頭を下げると、アリシアの前にフィリウスは手を差し伸べた。
差し伸べられた手に驚いて顔を上げると、笑みを崩さずにフィリウスが言った。
「かたっ苦しい挨拶はいいよ。これから義理の兄妹になるんだから。こちらこそよろしくね」
「こちらこそ、よろしくおねがいします」
アリシアは再び頭を下げようかと思ったが、フィリウスが手を差し出したままだったため、彼女はその手を取ることにした。
すると、フィリウスは重ねられた手に、黙って空いた方の手を添えて彼女の手を包み込むように握って微笑んだ。
アリシアもその微笑みに応えて笑みを返した。
そんなに長い時間ではないが、二人が握り微笑みながら見つめ合っている光景はフランツを不愉快にしていた。
もちろん傍から見てわかるような態度も表情もしないよう、自愛の笑みを浮かべている。
「アリシア嬢、申し訳ないが、フランツを借りていきますね」
しばらく経ってからフィリウスはアリシアを包んでいた手を開きながらそう言った。
「借りるだなんてそんな……」
「執務はアレクがやってくれるだろうし、少し遅れても問題ないだろう。デートしている時間があるくらいだからね」
アリシアの言葉を無視して、黙って自分を見ているフランツをフィリウスは畳み掛けた。
「わかりました。お供いたします」
フランツがため息交じりにそう言うと、フィリウスは大きくうなずいた。
「じゃあ、行こうか」
フィリウスは庭の方に足を向けた。
「ごめん。行ってくる……」
フランツは、アリシアに一言だけ告げて渋々後に続いた。
フランツがフィリウスに連れられてその場を離れるまで礼をして見送ると、アリシアは執務室に向かった。
まだ時間が早いとはいえ、自室に戻ってゆっくり休むほどの余裕があるわけもない。
本来の目的地である庭に足を運ぶのも、二人が向かった方であることを考えるとあまりいいとは考えられなかった。
それにフィリウスに呼ばれたフランツが、いつ仕事に戻ってくるかもわからない。
フィリウスが戻ってきた王家の中で、重要な会議などがあるということになれば、戻るのは夕方になるだろう。
幸い、執務室の鍵はアリシアも持たされていて、部屋に戻らなくても現在手元にある。
執務室の前に着くと、彼女は普段はフランツが開ける部屋の鍵を自分で開けて中に入った。
今はアレクもフランツもいない。
そのため、いつもは雑談が聞こえる執務室はとても静かだった。
そして、昨日の夜に届いたのだろうか、今日作業予定の書類がすでに無造作に置かれているのが目に留まった。
アリシアはドアを閉めて、書類をまとめると早速仕分けを始めることにした。
仕分けが終わったら今度は処理である。
いつかは一人でもできなければならない仕事でもあるため、これはそのための練習にもなるだろうと思いながら作業を進めることにした。
書類のことに関してはアレクが来たら間違いがないかどうか確認してもらえばいい。
フランツが戻るまでに、できる限り仕事を片付けておこうとアリシアは考えながら、手を動かすのだった。




