無意識の恐怖
フランツに連れられて無事に部屋の前に着くと、アリシアはお礼を言って自らドアを開けた。
部屋の中は薄暗く、明るい廊下に比べ温度が低いのか、ひんやりとした空気が廊下に流れてきた。
「待って」
ドアを開けたところで、フランツはアリシアを引き留めた。
フランツの冷たい声に驚いてアリシアは足を止め、振り返った。
「どうかしましたか?」
不思議そうに尋ねるアリシアの腕を掴んだまま、しばらく中の様子を伺っていたフランツは、人の気配がないことを確認すると、その手を緩めた。
「いや、大丈夫みたいだ」
「あの……」
「少し話をしたいから、時間をいただいてもいいですか?」
「はい。こちらの部屋でよろしいでしょうか?」
「ぜひ。確認したいこともありますし」
「どうぞ……。灯りを点けますね」
廊下と窓からの明かりを頼りに、アリシアは急いでランプに火を入れた。
それを確認してフランツが部屋に入ってドアを閉める。
アリシアがランプを持ったまま振り返ると、テーブルには夕食前に使っていたティーカップが置きっぱなしになっているのが目に入った。
「あ……慌てて出たものだから、出しっぱなしでした。お茶いれますからお座りになっていてください」
慌ててカップをキッチンに持っていき、そのついでにお湯を沸かし始めた。
「ああ、ありがとう。……ところでさっきのお茶は……?」
「片付けをしてから夕食を待つ間に飲んでいたもので……」
「いや、そうじゃなくて、さっきのお茶はアリシアが淹れたの?」
「はい。寄宿舎にティーセットを持ち込んでいましたから、それで淹れましたけど……」
新しいお茶を入れるため茶葉を入れ替え、お客様用のカップを用意しながら話をしているうちにお湯が沸いたので、お茶を入れてフランツの座っているところへ持っていった。
「お口に合えばいいのですが……」
「ありがとう。落ち着いたならアリシアも座って。確認したいことがあるから」
「はい」
フランツにお茶を出してから、自分のお茶を準備したアリシアはフランツの向かい側の席に座った。
「僕は迎えに出られなかったから、到着した時の様子とか教えてほしい」
「到着した時ですか?」
「……いや、順番に聞いた方がいいかな。まず、うちの人間が寄宿舎に行ったと思うけど、気になることとかありましたか?」
挨拶をして、まとめてあった荷物も手慣れた様子で運び出してスムーズ終わったし、昼食が終わってから迎えにも来てくれた。
アリシアはその時の様子をありのまま伝えた。
「特に問題はなかったようでよかったよ。じゃあ、到着した時の印象を聞かせてくれるかな」
「そうですね……。たくさんの方に迎え入れられて驚きました。すぐにこのお部屋に案内をしていただいて、その後は夕食までここで、一人で過ごしていました」
「一応、この部屋には専属で侍女をつけていたんだけど、彼女はどうしたの?」
「どなたのことでしょうか?お部屋を案内してくださった方でしょうか?」
そのような紹介はなかったので気にしなかったが、どうやらフランツはすでに侍女を選んでつけてくれていたようだ。
「じゃあ、部屋に案内されてからはどうしていたの?」
「荷物がすでに運び込まれていましたから、片付けを。夕食の時間は存じなかったので、その後は部屋から出ずにお茶をしながら休憩していました」
「そしたら案内した人が呼びに来たの?」
「はい。すぐに移動されてしまったので、見失わないように追いかけて……」
アリシアは速足で廊下を歩いた夕食前のことを思い出した。
その時に大食堂の入口でフランツに会ったのである。
「なんだか不便をかけてしまったようだね」
「いいえ、そんなことは……」
領地の治安が良いこともあり、実家でも外でもあまり人を付けて歩くこともなく、また、何かあった時に自分で対処できるようにと、何でも自分でやることが当たり前となっているアリシアには抵抗感はなかった。
もともと外で泊まる経験もなく、寄宿舎でも自分で生活を維持することを求められたため、違和感すら覚えていなかったのである。
「いや、ちょっと考え直す必要がありそうだから、参考にさせてもらうよ。ありがとう」
フランツはカップに入った紅茶の残りを飲み干した。
「お茶のおかわりをお持ちしますね」
フランツが置いたカップが空になったことを確認すると、アリシアは再びお湯を沸かそうと立ち上がった。
フランツは彼女の後を追うように立ち上がる。
「いや、もう行くからいいよ。今日は疲れていると思うからゆっくり休んで」
アリシアと距離を縮めると無理やり引き寄せるのではなく、自分が身体を寄せて包み込むように彼女の背中に腕を回した。
「僕は、あなたを一人の女性として愛しています。それは知っておいてほしい」
自分の胸に顔を寄せている彼女の耳元に顔を近づけてフランツはそう囁いた。
長年の片思いだが、きちんと自分の気持ちを伝えたのはこれが初めてである。
それをこの場で受け止めてほしいとは言わないが、フランツはアリシアに対する扱いを聞いて、自分だけは味方であることが伝わればいいと思っていた。
「いやっ……!」
フランツがアリシアの髪に触れようと背中に触れていた手を後頭部に回すと、押し殺した悲鳴を上げたアリシアは、彼を突き飛ばすようにして離れると距離を取った。
アリシアはその反動でそばにあった壁に背中をぶつけると、そこにもたれかかったまま、ずるずるとしゃがみこんだ。
突然彼女から拒否をされて呆気にとられたフランツはしゃがみこんだアリシアを見下ろして言った。
「あなたは僕が怖いですか?それとも、王子という家の権力が怖いですか?」
何の感情も含まない冷たい声を浴びて我に返ったアリシアだったが、自分でもよくわからない感情を、どう説明していいか分からなかった。
突然、自分の中に湧き上がった恐怖が、反射的に体を反応させたのだ。
しかし、正確な理由はわからない。
ただ、そのような行為を受けることに不慣れだからなのではないかと考えた。
「あの……わたし……その……男性の体に触れ……たり、触れられたり……する、経験……が……あまりなくて……、その……」
アリシアはフランツの質問に、自分が思い至った内容を正直に答えた。
しかし、その答えに嘘偽りがないとしても、体を震わせ声をあげた事実は消えない。
不敬だと言われても仕方のないことである。
「そのようなことに慣れている女性であるほうが驚きますが……。そこまで怖がられてしまうと、どうしていいのか悩みますね」
壁に寄ってうずくまるような体制で自分を恐る恐る見上げているアリシアに、フランツも戸惑うしかなかった。
「誰か部屋につけようか?」
フランツは心配そうに屈みこんで目の高さを合わせて聞いた。
「いいえ、大丈夫です。今は一人の方が……」
フランツが専属でつけたという侍女という人ですら、自分を良く思っていないのだ。
夜中に急に呼び出されて、客人の部屋で寝ずの番など頼まれたら、その人からも不興を買うことになるだろう。
これからも長く付き合っていくことになる人たちの中にこれ以上敵を増やしたくない。
そもそも、夜中にずっと他人と同じ部屋にいるのはかえって不安なだけである。
「……わかった。おやすみ」
フランツは彼女の言葉から察したのか、ゆっくりと離れると部屋を出た。
アリシアはそんなフランツを立ち上がることすらできないまま、ただ見送ることしかできないのだった。




