序章
柿崎ゆうた、人呼んでカッキーはウキウキとした軽い足取りでバイト帰りの家路を急いでいた。
手にぶらさげているビニール袋の中には節分の店員ノルマで買わされた極太30cm恵方巻きが3本に、その恵方巻きを5等分にカットした海苔巻きのパックが入っていた。かなりズシリとくる重さだが、手首を鍛えるいいトレーニングになる。
大学の剣道部でたっぷりと汗を流し、その後コンビニでのバイトをこなしたので相当腹が空いていた。
だが、今日はいつもと違い途中でつまみ食いするつもりなど全くない。
なぜならば、今日の夕食は彼のアパートで親友たちと共にこの恵方巻きを食べる予定となっていたからだ。
そう、今日がまさに2月3日。節分その日なのである。
カッキーには友達がほとんどいなかった。
彼自身は常々、なぜ剣道の大会でいくつも優勝して名を馳せている自分が、女子はもとより男の友達すらこんなに少ないのか疑問に思っていた。
自分は決して人見知りするタイプではないし、付き合いだって悪くない方だ。
そもそも、ゆくゆくは世界の剣道界を背負って立つであろう現代の大剣豪と知り合いになりたくないやつなどいないだろうに、まったく理解に苦しむ。そう考えて疑わなかった。
だが、そんな彼にも親友と呼べる男友達が2人だけいる。そんなかけがえのない2人と約束を交わしているのだから、どんなに腹が減っていたとしても抜けがけするわけにはいかなかった。きっと2人だって、最高に美味い恵方巻きを頬張るため空きっ腹を我慢していることだろう。
まぁ、5等分されたパックの方ならば彼が独断で買ったものなので先に食べてしまっても2人には分かりはしないだろうが、そもそもこれを追加でカゴに放り込んだのも2人が恵方巻き1本では満足出来ないのではないかと彼なりに気を回した故のことだ。
とすれば、これは全部3人で分け合って食べるべきなのだ。つまみ食いなど、武士道に反する恥ずべき裏切り行為である。
薄寒い部屋に帰り着いたカッキーは、ストーブに火を入れながら時計を確かめる。2人が来る約束の時間まであと15分、間に合って良かったと安堵しつつ、今朝部屋を出る前にもリハーサルチェックした今年の恵方を指さし確認する。
どうせ、あとの2人は予め恵方を調べてくるなどという気の利いたことはして来まい。
そんなことを考えているうちに時計の針は約束の時刻を指したが、彼の部屋のチャイムは一向に鳴る気配をみせなかった。
やれやれ遅刻か、試合なら不戦敗を宣告されちまうところだ。大学生にもなってだらしない奴らだが、彼らにも楽しみの前に済ませておきたい用事のひとつもあるかも知れない。今日のところは怒らずに出迎えてやるか。
だが、それから尚時計の長針がひと回りしても、彼らが姿を見せることはなかった。
ペッペコペッペコ♫
その時カッキーのスマホにMINEが届いた。差出人は件の親友のうちの1人である。
『先輩に美味い店あるから食いに行こうって誘われちまった。断れん。そっち行くわw』
あまりといえばあまりな事後報告にカッキーが絶句したところへ、もう1人から追い討ちのMINEが投下された。
『マジ、お前も? 俺も彼女がどうしても一緒にって言うから、彼女と恵方巻き食うことにしたって送るとこだったw』
『ちょ、おまえら!』
既読2
『いいなー彼女持ちはー!! 俺も早く彼女欲しー!!』
『なに言ってんの、先輩って女の先輩だろよw 知ってんだぜ?』
『おい、無視すんな!』
既読2
『そんじゃ、お互い楽しもうぜー。明日なー。』
『おーう、ガンバろうぜーお互い! 良い節分をなw』
『ふざけんなよ!』
以下、未読
カッキーの心は砕けて散ってしまった。
あいつら、揃いも揃ってすまないの一言もないのかよ。お互いって・・俺入ってすらいねーし・・せめてそれぞれとか各々とか・・
カッキーは十数分膝を抱えた姿勢のまま、あれからテーブルの上でウンともスンとも言わなくなったスマホを恨めしそうに睨め付けていたが、ふいに自分が極度に腹を減らしていたことを思い出す。
こんな気分だろうとやっぱり腹は減るんだな・・肉体ってのは残酷なもんだぜ・・
そう思いながらのっそりとテーブルのコンビニ袋を覗き込むと中では3本の恵方巻きが仲睦まじく戯れているように見え、嫉妬心からくる妄想が急激にカッキーの心の中を支配し始めた。
「あいつらきっと今頃・・」
カッキーの脳内では、先輩や彼女と恵方巻きの両はしを咥え合って鼻の下を伸ばした2人が、欲望の対象に向かって一心不乱に食い進む所謂『ポッキーゲーム』状態がありありと浮かんでいた。浅ましい奴らめと思ってはいても、自然と自分の口も物欲しそうに尖ってくる。
「いいや・・俺には君がいるから・・」
カッキーは壁に貼った等身大ポスターの中で悩ましげな顔をしている推しアイドルに微笑みかけると、恵方巻きの1本を手に取り包装を剥がしながら近づいていった。
そして何を思ったかその片端の切り口を彼女の艶っぽい唇にビダン!と押し付け、もう片方の端をガブリと咥えておもむろにむしゃむしゃと食べ始めた。先ほど彼が想像の中でムカついた友人たちの姿と寸分違わない。
鼻の下はゴムゴムの能力者かというほど伸びきり、息遣いも荒くてキモい。
実際のところ、この時既にカッキーは友人たちへの憤りや悲しい気持ちなど霞んでしまうほどにすっかりこの1人遊びに心奪われてしまっていた。
なにしろ、ポスターとはいえ彼女にはこれまでプラトニックを貫いてきた。キスすらもしたことがなかったのだ。
そこへもって、先刻の絶望に突き動かされるままに始めてしまったこの他人へは言えぬ戯れが、彼の劣情に消え止まぬ業火を灯してしまったのである。
齧る、飲み込む、の勢いは増し、ポスターの彼女の視点で見たならば、おそらくはデンプシーロールで迫ってくるボクサーほどの迫力には達した時・・
うっ!!!?
カッキーはそれまで飯粒や具材と共にしっかり体内に取り込まれていたある大切なものの供給が、いつのまにやら絶たれていることに気がついてピクッと動きを止めた。
空気
わかった時にはもう遅い。
カッキーは、愛しのアイドルの唇まであと10センチ足らずという距離で喉をかきむしり、もんどりうって倒れ込んだ。
床に手足を広げてしばらくの間ジタバタともがいたが、そのうち視界がどんどん霞んでいった。
ぼやけていくポスターの大好きな顔に向かって手を伸ばし、何かを言いかけたが当然うめき声以外が漏れ出るはずもない。
テーブルの上にパタリと落ちたカッキーの手が必死にスマホを求めてまさぐったが、ようやく掴んだものは虚しくもコンビニのビニール袋だった。
決死の試みが不発に終わったその次の瞬間、部屋の中の一切の音は絶えていた。
そう、彼の心音でさえも・・
唇の周りにご飯粒を付け悩ましげな表情をしたアイドルだけが、彼の不運過ぎる最期を哀れむように看取ってくれていた。
レーヌは碧空に描いた大魔法陣に強い意思の込もった視線をキッと定めると、魔杖を掲げて最後の呪文の詠唱を切り出した。
まるで湯浴みを済ませたばかりのように瑞々しい黒髪をたなびかせる凛とした立ち姿は、普段であれば男性はもとより女性でも見蕩れてホゥとため息のひとつでも吐きたくなるほどの美しさである。
だが、まさに今彼女の後方でポップコーンのように弾き散らされている男たちとってはそんな余裕があるはずもなかった。
怒号と共に人が宙を舞う気配は、どんどんと彼女へ向かって近づいてくる。
(早く・・もっと早く! でも慎重に!)
レーヌは焦る自分の心に言い聞かせながら、ほんの心持ち詠唱のスピードを速めた。途中で諳んじ損ねては、ここまで積み重ねてきた複雑な行程が全て振り出しに戻ってしまう。
しかも、耳をつんざくポップコーン達の悲鳴は、彼女にもうやり直す余裕などないという事実を否応なしに突きつけてくるのだ。
なんとしても成功させなくてはならない。今やレーヌの両肩、いや上下の唇の動きにはこの都市の運命、ひいてはこの世界全体の未来が委ねられているのだから。
そう、失敗は赦されない。ここに至るまでの間、彼女に時間を与えるため犠牲になった者たちの姿が瞳に焼きついている。
(お父様・・)
詠唱を続けながら背後に迫る戦慄に後ろ髪を鷲掴みにされるような恐怖と戦うレーヌは、いけないと知りつつも在りし日の父のことを思わずにはいられなかった。
この中央都市の領主だった父が突然謎の死を遂げてから間もなく、父の側近だった者の中に政治の実権を握ろうとする輩が現れた時、精神的に追い詰められていたレーヌは1時自室に引きこもった。
そもそもが、生来の人見知り気質の為なかなか人前に出ることが出来ず、王女としての即位も先延ばしにしてきた彼女だ、生前そんな娘のことを案じてくれていた父の存在がどんなに心の支えとなっていたのかを、自らが閉じこもった部屋の中で思い知ったのだ。
前領主派の家臣たちの再三の説得に、勇気を出して即位を決めたのは、レーヌ自身その政治的思想が亡き父と同一のものであり、現体制を維持していくにはそれが唯一不可欠な方法であることを十分に理解していたからである。
父が健在だった頃には王女としての即位すらしていなかったものの、数々の政策について父と語り合い、時には名君と謳われた彼が驚き褒めてくれるほどの才覚の片鱗を垣間見せていた。
父を通じて、彼女の政策は以前からこの都市に息づいてはいたのだ。
もう少し遅ければ、この中央都市ダミナートの当主の座は奪われていたかも知れない。だがレーヌには既に父の後を継ぐ資格があったため、彼女の意志さえ定まれば何者もその即位を阻むことを出来はしなかったのである。
だが・・彼女を退けて全ての実権を握ろうとしていたあの男だけは胸のうちに秘めた野望の火を絶やしてはいなかった。その名を宰相ドリガロン。
ドリガロンは、レーヌの父亡き後の実権を得ることが出来ないと察するやすぐさま次なる搦め手に回った。絶対禁忌とされていた古代文献を紐解いたのだ。
密かに研究と調査を重ね、ついにはダミナートから遥か遠方に位置する8つの地域を守護していた霊獣たちを己が配下におく秘術を掌握してしまった。そして、時を置かずに実行に移したのである。
8体の守護霊獣は、ドリガロンが放つ秘術には抗うことが出来なかったらしい。
次々とドリガロンの手に落ちた霊獣たちは、その無比なる力で各地の民を支配しようと暗躍する邪悪な存在へと変わり果てたという。
都市のある地域の陥落が進むことは、中央都市ダミナートの遠方包囲が強化されることと同義だ。ほどなくして、各方面から中央国家転覆の為の侵攻準備が進められているという報告が各地に放たれた密偵たちによって続々と寄せられてくるという状況となった。
ドリガロンの執念深さ、狂気の所業に統治国家の民すべてが恐れ慄いた時にはもう彼の覇業は王手に差し掛かっていたのだ。
この段階に至って、レーヌはある確信を抱いていた。
父は殺されたのだ。あのドリガロンの手にかかって謀殺されたに違いない。動きがあまりにも早すぎる。
即位したとはいえ、レーヌはまだ16の少女である。その心には少なからず迷いと後悔がちらついていた。
もし、自分が即位を拒み、あの時ドリガロンの手に政治の全権を委ねていたならば?
あるいは、こんな現状に国民や家臣を晒す事態は避けられていたのだろうか?
それ以前に、こんな重責に押し潰されるほどの覚悟が、果たしてあの時自分にあったのか。今でも私は・・指導者たる器というものを甘く考え過ぎているのでは・・
馬鹿者!
レーヌは、ハッとなって内面世界から現実へと意識を戻した。
あの優しく、滅多なことでは彼女を咎めたりしなかった父が珍しく感情を昂ぶらせた時の思い出少ない叱咤の声、顔・・たった今そのヴィジョンに引き戻されなければ、危うく呪文を噛み失敗に終わってしまうところだった。
気を持ち直して呪文の最後のフレーズを発し終わると、レーヌは頭上で魔杖を回転させてから魔法陣に向けて大きく振りかざす。
すると、空に浮かぶ大魔法陣が黄色から赤へ色を変えながら中心に向けて収束するように縮み始めた。
「発動しました! 成功です!」
彼女の叫びに呼応して、背後を守り固めていた側近の家臣たちに歓声が上がり、続いてやや後方より不穏なざわつきが起こった。
振り返ったレーヌの目がすぐに届く位置で、1人の兵士が巨大な鉤爪に胴を突き破られた無残な姿で高々と抱え上げられている。
「何を企んでいるのか知らんが、大事な儀式のようだな。悪いが阻止させてもらおう。」
低く威圧感のある声で周りを牽制しながらレーヌの側近で固められた壁を2つに割り、身長2メートルは優に超えるかというシルエットが躍り出てきた。
大きい・・それに、人間じゃない!?
太く逞しい四肢、その丸太のごとき腕の先に鋭く長い金属製の鉤爪がついた籠手を装備した黒豹型の獣人が獲物を値踏みするような目で彼女と対峙する。
黒豹人間は、その右手の先に抱え上げていた兵士をボロ雑巾のように地面へドシャリと打ち捨てると、朱に染まったその爪をレーヌへ差し向けて容赦のない宣告をした。
「ふむ・・どうやら発動後らしい・・だが、術者の息の根を止めてしまえば完成には至るまい。おまえの心臓、この先遣部隊長ソリンが抉り出してやろう。」
持てる魔力の全てを儀式の遂行に使い果たしてしまったレーヌには、もはや自力でこの怪物に対抗し得る手段は残されてはいない。
ソリンは、後方へも注意を向けつつジリジリと低く腰を下ろして右掌を上に向ける構えをとった。
レーヌはその構えから、即座にソリンの狙いが自分の喉笛であることを見抜く。
心臓を抉ると宣言しておきながら、おそらくこちらの目の動きを突進による点の動きから突き上げるブローの線の動きに切り替えることによる混乱を狙っているのだ。
隊長を名乗るだけあり、何も考えずに戦っているわけではないということか。が、レーヌとて近接戦闘が専門ではないが兵法くらい学んでいる。
しかし、知っているのと対処できるかどうかは別問題だ。彼女の知識はそのほとんどが書物の乱読によるものである。幼少の頃から宮廷の書庫に収められていた蔵書を漁り、それでは飽き足らずに国営図書館にも頻繁に通った。
レーヌの興味の対象は多岐に渡り、おおよそ苦手な分野というものは思いつかない。
知識の広さと深さには自負もある。
それでも、知識と実践とは必ずしも一致するものではない。特に今の状況のように、一瞬の判断が生死を分けるような場面では体験の積み重ねがものをいう。
「ウルァ!!」
突然ソリンが叫び声をあげたかと思うと、まるであらぬ方向へと視線を投げた。そして次の瞬間、視線をレーヌへ戻しながら一気に距離を詰めてくる!
これも、レーヌは瞬時にその思惑を読んでいた。一瞬でもあの視線誘導を受けていれば、致命的な隙が発生していたことだろう。この駆け引きも、いつか何かの本で読んだことがある。だが、彼女は矢のように迫るソリンから一瞬たりとも目を離してはいなかった。
やや上体を反らしつつ、バックステップで予想していた通りの初弾を躱す。
ソリンもこうなるパターンは想定に入っていたようで、その勢いのまま身体を宙で一回転させて着地と同時に次の構えを完成させていた。
「おやぁ・・? 魔法がこないねぇ? 魔力切れか・・それとも・・」
ソリンはニヤリと笑って挑発をかけてくる。
レーヌは言われてハッとなった。確かに今のタイミングでは攻撃魔法が放てるならば撃ち込んでいるのが定石だ。
この獣人は、まるで嬲るような口調でこんなことを言ってくる。あたかもレーヌにはそれが出来ないことをわかっているかのような余裕のある態度だ。
あるいは何が飛んできても受け流しきった上で別な挑発の言葉を投げかけてくるつもりだったのか・・
(まさか、遊び半分・・なのですか!?)
黒豹はネコ科の動物だ。その獣人であるソリンもまた、絶対に負けることのない獲物と見下した相手をオモチャのようにいたぶる本能を持ち合わせているようである。
舌舐めずりをしながら近づいてくるソリンの足取りには先ほどまでよりも明らかに隙があり、それは既にレーヌを己の敵ではないとみなしていることを示していた。
「たいして楽しませてもらえなかったようだ。まぁ、死ねよ!」
今度は初弾よりも近い位置から真っ直ぐに貫くように突進してくるモーションだ。多少下がったくらいではじきに捉えられるだろう。しかも、相手はこちらの動きに合わせて左右に振り変えることも容易く出来る。むしろ最初からこう来られていたら既に決着はついていたかも知れない。
レーヌは相手の思惑を読んでいたつもりで、実は『読まされていた』ことに背筋が凍る感覚を味わった。
後ろか左右か、どうあれ判断して動かなければ確実な死が待ち構えているというこの状況で、こともあろうに彼女の身体がとったのは目を閉じてその場に立ち尽くすという、命を自ら差し出すにも等しい行為だった。なまじ、先の展開を読むことの出来る洞察力がこの時は裏目に出てしまったのである。
ソリンも相手が観念したことを早々と見抜くと、そのままレーヌの心臓を貫くコースを邁進した。
その時! 空に浮かぶ魔法陣が眩い光を放った。光は一筋の帯へと収束し、レーヌの頭上を掠めると今まさに彼女の心臓をひと突きにせんとしていたソリンに直撃した!
「グェ!?」
踏み潰されたカエルのような声を漏らして数メートルも吹っ飛んだソリンは、予想外の事態に一瞬の判断を誤り右手で受け身を取ろうとした為、籠手の爪を硬い地面に叩きつけてあらかた折ってしまった。
バランスを取るタイミングも狂い、そのまま地面を2、3度バウンドする。
それでも本能的に敵を感じる方向へ身体を捻りながら立ち上がろうとしたソリンの目に写ったのは・・見たこともない衣装に身を包み、左手には見たこともないペラッペラの素材で出来た袋、右手にはこれまた正体不明の黒い・・棒?を携えた男の姿だった。
「な、なんだキサマは!?」
怒り心頭の叫びに一瞬ビクリとしたものの、あたりをキョロキョロとして後ろで目を閉じているレーヌに目を止めた男はソリンを無視して彼女に話しかけた。
「あの・・」
一瞬後に来るのは心臓を貫かれるという体験したことのない激痛、もしくはそれすら感じる間もないほどあっという間の『死』だと思っていた。だが、そんなレーヌが感じたのはまるで予想外の気の抜けた声。
スッと開いた瞼の先に、初めて目にはするが一目でこの世界の人間ではないと分かる服装をした男が不思議そうな表情で立っていた。
(ああ、間に合ったのですね・・)
レーヌの胸に絵もいわれぬ安堵が広がる。目頭が熱くなっていくのを感じていた。
そして彼女は、まだ何も知らずに戸惑っているであろう男に、こう告げた。
「お願いします、助けて・・ください・・」
もの心地のついたカッキーの視界にまず飛び込んできたのは、地面に伏して何事かを喚き散らしている黒猫の被り物をしたコスプレ男と、その背後で驚きと歓喜の入り混じった表情でこちらを見つめる中世風の甲冑に身を包んだ男たち。
そして、後ろを振り向いた先にいたのが・・一瞬あの推しアイドルかと見まごう雰囲気の黒髪ロングの美少女。
だが、彼女が閉じていた目を開くと、別人であることがはっきりした。
切れ長の目と、より整った上品な鼻、唇もやや薄く引き締まった印象だ。身もふたもない言い方をすれば、好みとしてはこちらの方が数段上位互換である。
顔の可愛さのインパクトが先に立ってしまったが、この娘も変わった服に身を包んでいる。何というか、アニメなどでは似たようなものを見たこともある気がするが、少なくとも日本の普段着ではない。
そんな不思議な少女が開口一番彼に向けて放った言葉が『助けてください』である。
なんだ、これは・・夢なのか?
よく理解出来ない状況ではあるものの、この場面ならばおそらくあの黒猫男から護って欲しいとそう懇願されている、と考えて良さそうだ。
カッキーは、少女の方を向いたまま黒猫男の方を差して小首を傾げた。
少女がコクンとそれに頷く。
夢なら夢で・・まあまあおいしいシチュエーションだよな。
「なんだキサマはって聞いてんだ! 無視すんじゃねぇ!」
「危ない! 避けて!」
「んあ!? おお危ね! こいつマジか!」
態勢を整えた黒猫男がダッと地面を蹴り、籠手に残る一本の爪で切りかかってきた。
少女の声もあって一瞬早く向き直ったカッキーは、反射的に素早く右手首を回転させ黒い刀の束のようなものでカッとその爪を払い退ける。
こんなに無意識に身体が反応するとは・・長年の鍛錬で身につけたものというのは、夢の中でも忘れないものなんだな・・
まぁ、いいや。そういうことなら好きに暴れさせてもらおう。
「なんだ、試合前の礼も知らないのか。武道を嗜む資格がないな、黒猫男。」
「な!? 黒猫だ!? 俺様は黒豹だ! ワーブラックパンサーのソリンだ!」
必殺のつもりで放った一撃をいとも容易く弾かれたことよりも黒猫呼ばわりされたことで頭に血が上ってしまったのか、ソリンは型も何もない大振りを矢継ぎ早に繰り出してきた。が、カッキーは巧みなフットワークを駆使して小さな動きだけでそれを躱してゆく。
「速いだけで筋は雑だな。クロネコのヤマトくん。」
「黒・豹・だ!! てか誰だヤマトって!? キサマ舐めるのもいい加減に・・!!」
噛み付くように発せられたソリンの抗議は、次の瞬間驚愕の表情の中に抑え込まれてしまっていた。
カッキーの手にした黒い束のようなものの一端から金色の輝きを放つ光の刃が伸び、ソリンの鼻先にピタリと突きつけられたからだ。
刀身の表面にはほとばしるプロミネンスのような雷光が現れては消え、消えては現れながら絡みつくようにパチパチと弾けている。
「う・・こ、これは。。?」
「ん? なんだコレ!? まぁ、いいだろう。少し稽古を付けてやる。平成生まれ最強の剣豪、この柿崎ゆうたの太刀を受けてみるがいい。」
手に持っているのが食いかけの恵方巻きだということはカッキーには分かっていた。
正直なところ、夢にしたってこれはナンセンスだろう。しかも、そこからこんな光の刀身が突然現れるなんて荒唐無稽極まれりだ。
まぁ、そう思った時にはもう相手の武器を弾いた後だったし・・兎にも角にも、元々剣道の達人である自分がなんか強力そうな武器を手にし、目の前になんか勝てそうな手頃な敵もいて、超好みの女の子には頼られている。これだけオイシイ条件が揃っているなら楽しまなくてはもったいない。
サッと横へ飛び退いたソリンを追うように正中線を合わせ、左手のビニール袋を地面に落とすと、カッキーは雷の剣を正眼に構えた。
「よし、では行くぞ!」
剣道特有の摺り足歩法でスススッと前に出て、あっという間にソリンの懐に飛び込んだ。
爪で手元を狙ったカウンターを放ってきたところに刀身を合わせ、クルリと捻るように弾き飛ばす・・つもりがボヒュ!という音と共にその爪を焼き切ってしまった。
「マジか・・なんだか武器の差があり過ぎてフェアじゃないような・・」
ポロリと本音が出てしまう。これで既にソリンの方は全ての得物を失った状態だ。
カッキーはしげしげとバチバチ音を立てている刀身を眺めた。これだと、どこで攻撃しようと『峰打ちだ』では済みそうもない。
「えーと・・」
再び後ろをチラ見して、少女の反応を確かめる。少女は両腕を胸の高さまで持ち上げた姿勢でしきりにうん、うんと頷いていた。
(用心棒の先生、さっさとやっちゃってくださいってかー。)
「おい、黒猫男! もうお前に勝ち目はないぞ。大人しく、えー降参するなら、命だけは、その・・助けてやらんでもー」
圧倒的優位に立ちながら勢いを失う声、支離滅裂になる台詞。よくよく考えてみると、いかに夢の中とはいえカッキーには自分の剣で生き物を、しかも人語を操る者の命を奪う勇気の方がない。
そこはまぁ、当然といえば当然だろう。天才と呼ばれた自他共に認める達人とはいえ、これまで経験してきたのは所詮防具完備のスポーツ剣道だ。
「悔しいがキサマのいう通りだ・・もはや勝てる気がしない。その武器も凄いが、それを差し引いても技量が違う・・」
ソリンも切り結んでそれを察したのか、爪を全て失った籠手を外して地面へ打ち捨てると、懐に手を入れ何かを取り出した。
「だが! 降伏する気はない! 任務失敗の責はこの命で償う!!!」
ゲッ!? 爆弾だ!?
「バ、バカ! やめろ! 後味悪いだろ!」
カッキーはその意図に気がついて叫んだが既に時遅かった。ソリンの姿が、おそらくは彼本来の姿である黒豹の姿と重なったかと思うと、その手に握られた手榴弾ほどの大きさの爆弾は無慈悲にも炸裂する。
煙が散った後に、ソリンの姿は跡形もなくなっていた。
それが合図とでもいうように、兵士たちがいる場所で次々と黒い煙が上がってゆく。
気づかなかったが、あの兵士たちとこいつの仲間との戦いが繰り広げられていたのか?
カッキーが呆気にとられていると、黒髪の少女が悲しげな表情で近づいてくる。
「可哀想に・・彼らもおそらくは利用されていただけなのでしょうね・・」
少女は改めてカッキーの方へ目を向けた。そして、先程までのか弱そうな印象が嘘のように、毅然と澄んだ口調で高らかに叫んだのだった。
「よく来てくれましたね。最強の武器を携えし異世界の戦士よ!!」
カッキーの耳にどこかで聞いたことのあるような台詞が飛び込んで来た。
まるっきりベタなゲームかアニメみたいだな・・きっと想像力がテンプレなんだ・・
そういえば、自分は確かあの時部屋で痴態に及んでいる間にこの恵方巻きを喉に詰まらせて・・そのまま気絶でもしてしまったのか、情けない。
まぁ、いいや。せっかくだし、もうちょっとだけいい思いをしてから目覚めよう。
「柿崎ゆうたです。まずは君の名ま〜」
君の名ま。最高にカッコ悪い決め台詞を残し、急激な疲労と目眩のカクテルに襲われたカッキーの意識は渦を巻いて闇へと吸い込まれていった。
なんだよ・・やっぱいいとこで目が覚めちゃうのか・・どんだけお約束なんだ・・
レーヌがその手から溢れる七色の光をカッキーの胸にあてがうと、その光は彼の身体に溶け込むように吸い込まれていった。
「うーむ、姫の回復魔法はいつ見ても派手っ派手ですね・・それ、ショーとかでやってもきっとウケますよ。」
側で見守っていた護衛の男は、彼なりの賛辞を口にしたつもりだった。
もっともこの派手な光はレーヌ本人の趣味などではない。これは大量の生命力を一気に対象へ注ぎ込むことが出来る術で、一般的な回復魔法よりもはるかに高度である。強力な生命力が発動の瞬間色彩となって溢れるのだ。
「そんな・・恥ずかしいです・・」
護衛の男はしまった、というはにかみ顔で、手を額へ当てた。分かっていたはずなのに、今の発言はうっかりしていたと反省した。
現領主であるこの若姫様は、どことなく親しみ易く可愛らしい容姿をしている為、そのつもりが無くてもついうっかり幼馴染と話すような軽口が出てしまうことがある。
とはいえ父の代から近衛兵としてこの宮殿に仕えてきた彼にとって、レーヌは幼馴染と言っても間違いではない。
幼少の砌には、年の近い者同士ということでお互いの両親に見守られながら身分の違いを超えて遊んだことだって何度もあった。
だが、成長した彼女には人見知り気質や恥ずかしがり屋な面も出てきて・・そのせいもあってか、即位してからは意識して直している部分もあるものの、あまり気さくな返しが出来るようなタイプではない。弁は立つのだが、アドリブにはあまり強くない。
それは、宮廷内の見知った面々に対しても同じである。
それにしても、こんなに綺麗になるなんて・・あの頃はまるで思ってもみなかった。
男は密かに彼女に憧れていた。それは、この国に住み彼女を知る若い男たちには珍しいことでもないのだろうが・・
幼い頃からもっと積極的にアピールさえしていたら、自分にもチャンスくらいあったのかな? と、若い護衛の兵士は淡い想像をしてみたりもする。
「あとは私が看ますから、あなたは自分の持ち場へ戻ってください。」
「しかし・・姫が召喚したとはいえ、まだ素性も知れない者ですし、誰か同伴していた方が・・」
「大丈夫です。彼は見ず知らずの私の命を救ってくれました。それに、彼にとってここは慣れない世界ですから、まずは2人きりで落ち着いて話を聞いてもらいたいのです。」
勝気な性格だが、相手の立場に回って考えられるところは父譲りだな、と男は思った。
もっとも、この姫さまに関しては引きこもり気質ということもあり、必要以上にごちゃごちゃとした人が集まっている状況を嫌っているというのもあるかも知れない。
まぁ、あの正体不明の強力な武器はこちらで預かっている。姫さまの魔力も回復した今なら、例え何か起きても返り討ちに合うのはこの男の方だろう。
「では姫、何かありましたらすぐさま兵をお呼びください。」
そう言い残して男は部屋を後にした。残されたレーヌは、まだ懇々と眠っている異世界から来た青年の顔をじっと見つめた。
(この方が最強の勇者・・もう少しイケメンを想像していましたが意外と普通な感じですね・・)
「ン・・んん・・」
それからやや時間を置いて、カッキーが意識を取り戻す。
「おはようございます。とは言えもう昼過ぎなのですが・・気分はどうですか?」
カッキーは欠伸をしてむにゃむにゃした後、傍の椅子に腰掛けている少女に気がつき慌てて表情を整えた。
レーヌから見れば、ボサボサ頭で目ヤニが溜まり、涎の痕をつけた意味不明のドヤ顔でしかなかったが。
夢から覚めたら夢の続き!?
いや、身体があちこち痛い。ああ、あのあと倒れたんだな・・
痛いってことはもしかして夢じゃないのか・・いやにハッキリしてると思ってた。
「ああ、ちょっとあちこち痛いケド、気分はすごくスッキリしてるよ。あ、聞きそびれちゃってたケド、君の名は?」
今度はちゃんと言えた。
「わ、私はレーヌ・・あなたをこの世界に呼んだのも私です。3日前は危ないところを助けてくれて・・その・・ありがとうございました・・」
どことなく早口なギクシャクしながらの受け答えだが、何度も言うように彼女は人見知りだ。カッキーとはこれが初めて交わす会話ではないが、まだまだよくは知らない人間だから無理もない。
「え? 3日? あれから3日も経ったのか・・俺、そんなに疲れていたのかな・・」
「それどころか・・あわや死にかけだったんですよ?」
「うそ、マジで!?」
「ええ、なぜか生命エネルギーが極度に消耗している状態だったので・・あの戦闘で一気に身体へ負荷がかかったんだと思います。宮廷の魔導師たちが使える回復魔法では追いつかないほどでしたから・・私の魔力が戻るのが遅かったら危なかったかも知れません。」
すみません、たぶんそれ死んでたからだと思います。
この世界に呼ばれて来たってことは、やっぱりこれは現実か・・
だとしたら、何という神がかり的なタイミングでサルベージ召喚されたのか。九死に一生を得たぞ。カッキーは不運からの一発逆転ラッキーに感謝した。
カッキーとラッキーは似ている・・ともチラリと思ったが、それは口には出さない。
「それで・・えーと、レーヌ? 俺をこの世界へ呼んだ理由は、あの黒猫男と戦わせるためだったの?」
いきなり呼び捨てにされてやや面食らい、頬を赤らめたレーヌだったが、グッとこらえてかぶりを振った。
「いいえ。圧倒されていた私が言うのもなんですが・・あんな魔力で動物をライカンスロープ化させただけのザコなんて、嵐の前の静けさに過ぎません!」
レーヌには意外と物言いに遠慮のないところがあるのかな・・?
「じゃあ・・?」
「・・確かカキザキユータさんでしたね。ずっと寝たきりだったことですし、リハビリを兼ねて宮廷の裏庭を散歩しながらお話しませんか。私もお昼がまだなのでお弁当を持って・・あそこには私がお気に入りの場所があるんです。」
裏庭とは言うものの、流石は宮廷のとあってちょっとした自然公園を思わせるくらいのものだった。
腕にバスケットをかけたレーヌ、カッキー、そしてレーヌの飼っている黒猫が、迷路のように配置された並木の間をくぐり抜け、やがて開けた円形の広場へ辿り着く。
ここまでの間に、お互いの簡単な自己紹介は済ませてあった。
巨大な統治国家でもあるこの世界の中央都市『ダミナート』の現君主、姫、姫君、お姫さま。若いのにスゴイくらいには思ったが、カッキーにとってお姫さまという人種、職業は身近なものではない。可憐なドレスで御手をフリフリごきげんよう、そういうステレオタイプのイメージしかなかったのだが、なるほどレーヌのルックスならピタリとハマる。
カッキーの方はというとかなり『盛った』。が、まぁ嘘というワケではない。『盛れる角度』という言葉が示す通り全ての物事は多角的な見方によって様々な表現の仕方があるということだ。面接でもなんでも、最初の印象が良くて何が悪い。
広場の中央には、かなりの樹齢に達してそうではあるが、『老いてなお咲かん』とばかりに空いっぱいに伸ばした緑豊かな枝にたくさんの白い花を付けた大樹が根を下ろしていた。
思わずカッキーはこのー木なんの木♫を鼻で奏でる。これだけの木を目の当たりにしてこの曲が出てこないと日本人とは言えない。
まぁ、さっきから本当に気になっているのは木ではなくレーヌの方なのだが・・
サワサワと風にたなびく葉の音も、レーヌの歌いあげるようなソプラノボイスの耳心地には敵わない。
近くに寄ってみると、地表に出ている根のいくつかがちょうど腰をかけるのにいい塩梅だ。
たっぷりとある木陰は今日のような強い日差しも程よく和らげ、何時間でもここにいたくなってしまいたくなる心地よさである。
「ここで昔・・お父さまとたくさんお話をしました・・」
逞しい幹に手を添え、その感触を愛おしむように撫でながらレーヌはどこか寂しそうに微笑んだ。
その言い回しと当主という今の彼女の立場から、レーヌの父がもう少なくとも彼女の近くにはいないのであろうことを察したカッキーには、かけてあげたい気持ちとは裏腹にすぐには言葉が見つからない。
「最初は、本が好きだったのでも知識がたくさん欲しかったのでもなかったんです・・」
でも、新しいことが分かるようになるたびに、お父さまが褒めてくださったのが嬉しくて・・それでいつしかもっとたくさんのことを学びたいと思うようになっていました。
そう続けるレーヌの言葉に、カッキーは自分が剣道にのめり込んだ理由を重ねていた。
棚に飾られるトロフィーが増えるたびに、誇らしげに褒めてくれた家族の笑顔が好きだった。それだけの為に強くなりたいとすら願っていた時期が自分にもある。
「星、動植物、歴史、伝説・・お母さまが亡くなった時には命や人が生きる意味についても一晩中語りあったりもしました・・」
カッキーはまだ家族を失う経験をしたことはない・・というか、え? ひょっとしなくても自分が真っ先にそんな思いをさせてしまう側か?
「大きくなってからは、政治や経済のことも・・あの頃が一番楽しかった・・」
いかんいかん、とカッキーはどうにもしようのない杞憂を頭から追い払った。
あちらの世界ではどうあれ、自分は既にこちらの世界で第二の人生を歩み始めているのだから、レーヌの言葉に集中するべきだ。
レーヌは、今この世界に迫っている危機について粛々と語り始めた。
宰相ドリガロンの裏切り、おそらくはその陰謀による父の死、そして8体の守護霊獣による包囲網が完成しつつありこのダミナートへの侵攻が近づいていること。
「あなたをこの世界に呼んだこと、まずは謝らせてください。あなたにも元の世界での生活があったのに・・私が見つけた古文書の召喚魔法は、とにかくこの世界を救うに足る最強の武器を持った勇者を異世界より呼び寄せる方法について書かれていました・・」
レーヌは申し訳なさそうに表情を曇らせる。
「藁にもすがりたい思いでした・・3日間、あなたを介抱してやっとそれに気がつくなんて・・そんな当たり前のことに気が回る余裕すらなかったんだと思います・・」
目を伏せしおらしく俯向くレーヌの姿にキュン萌えハートとなったカッキーは、感情の整理もつかないままに彼女の肩に手をかける。
「そんなこともう気にしなくていいよレーヌ。俺がこの世界に呼ばれたのも何かの縁だし運命だ。それって、俺にはここでやるべきことがあったってことだよね?」
よくこんなプンとくる台詞がサッと出てきたとお思いだろうが、そこが柿崎ゆうただ。彼は四六時中リア充とは何か? リア充とはどうあるべきか? という思考から遡ってリア充になろうと努力してきた男なのだ。
「優しいんですね・・良かった、勇者と言ってもすごく怖い人だったらどうしようかと内心ドキドキしていましたので。」
レーヌは冗談っぽく微笑みつつも、くるりと身を回して肩にかけられた手から早々と逃れる。
「そろそろお腹が空きませんか? お話の前にお弁当にしましょう。」
料理番が持たせてくれたお弁当は、サンドイッチと瓶入りのレモネード。一見具は簡素に見えるもののプロの隠し味か激美味い。美味いのだが・・
「レーヌは、これで足りるの?」
育ち盛りは過ぎていても、小ぶりなサンドイッチが一人当たりひと切れでは流石に少な過ぎやしまいか?
「すみません、ちょっと物足りないですよね。でも、今は各都市との交易も絶たれていますし・・宮廷の者にも出来るだけ節約するように呼びかけてる手前あまり贅沢はできないんです・・」
確かにレーヌキのスラリとした体型を維持するには、このくらいでもいいのかも知れないが。。
「そうだ、これをお返ししておきますね。あなたの武器と・・あの時一緒に落とした袋です。中身もそのままにしてありますので。」
バイト先のコンビニ袋か・・そういや、あの時夢中で掴んだ気も・・
「あ、そうだ! これがある!」
カッキーは受け取った袋から未開封の恵方巻きを取り出して、レーヌへ差し出した。
「口に合うかわからないケド、これ食べてみない? 恵方巻きっていうんだ。」
「・・武器なんか食べないですよ・・?」
「へ? あ、そうかなるほど・・それじゃこっちを・・」
ちょっとだけレーヌが丸のままの恵方巻きにかぶりつくとこも見て見たかった気がするが、彼女の言い分はもっともだ。
カッキーは5つにスライスされた方の恵方巻きのパックを出して、レーヌの警戒を解く為に一つ口に放り込んでみせた。
もぐもぐ・・
「お、うまい! やっぱ米は食べ応えある! ホラ、レーヌもおひとつどうぞ! 美味しいよ? それに、これはとても縁起の良い食べ物なんだ。」
おそるおそるひと切れつまみ、両手で持ってハムっと口にするレーヌがかわいい。
もむもむ・・
「あ!? おいしい・・です!」
勢いを増してパクついてはもむもむやってるレーヌがホントにかわいい。
結局、5切れは2:3の割合でカッキーとレーヌのお腹に収まってしまった。
「ごちそうさまでした。では、お腹もいっぱいになりましたので本題に入りますね。まず、さきほど話した8体の霊獣たちの中央侵攻を阻止しなくてはなりません。あと同時に、現在霊獣の支配下におかれていると目される地方都市や町や村の解放です。」
おっ? 心なしか声にも元気が戻ったようだ。
「この戦況でしたら、こちらから打って出て各個撃破していくのが一番確実なんです。あなたには私と同行して、8体の霊獣討伐に力を貸していただきたいのですが・・」
レーヌはキョロキョロとあたりを見回していたが、昼寝しかけていた黒猫に目を留めると指をくるくると回して呪文をかけた。
「モモンガモンガ♫」
すると、黒猫の体がフワリと宙に浮き、大樹の幹にまるでペラペラの敷物みたいになってピッタンコと張り付いたではないか。なるほど、モモンガっぽい!
「ちょっとの間だけですから、ガマンしてくださいね。」
不満げな声で抗議する黒猫を嗜め、レーヌは首にかけていたペンダントをその背中にかざした。
するとペンダントから光が照射され、黒猫の背中に画が映し出される。
「うお! スゲ! 動画だ!?」
「この伝承物語についても話しておきますので聞いてください。」
線だけで描かれた簡素な絵ではあったが、なんとアニメーション仕立てなのだ。なかなかすごい技術だ。
それに合わせてレーヌが弁士のように物語を紡いでゆく。いーい声だなぁ・・
その内容はこの世界の創成期に関することだった。
はるか昔、まだこのミリテスランが創造されて間もない頃、世界の8つの方位の果てに土地を守護する霊獣たちが生まれた。
霊獣たちは土地にさまざまな恵みを与え、これが後の世で人間たちの大切な生活の基盤となっていった。
だが、遅れて9番目の土地に生まれたのは守護霊獣ではなく、彼らと対をなす敵対因子と呼ばれた存在であった。
敵対因子は、次々と土を腐らせ、植物を枯らし、鉱物すらも人が触れられない毒性を帯びたものへと変質させる強大な力をふるい、世界を大混乱に巻き込んだ。
守護霊獣たちも立ち向かったが、一体ずつではまるで敵わなかった。
そこへ、どこからともなく1人の勇者が現れた。その勇者は己の武器に全守護霊獣の力を集めて戦いを挑み、その命と引き換えに敵対因子を闇の世界に封じた・・
守護霊獣は再び豊かな土地を育み、人の世は安寧を取り戻した・・
「ご静聴ありがとうございました。このミリテスランに古くから伝わる物語です。」
サッとお辞儀をしたリネサキが指を鳴らすとかかっていた魔法が解け、黒猫はニャニャニャ!と慌てながらズルズルと幹をずり落ちた。
「でも、守護霊獣ってのは実在するんだよね?」
「はい。もっとも本来の彼らは精神体とかエネルギー体のような存在なのですが・・」
現在はドリガロンの秘術で実体化されているのだという。
「敵対因子っていうのも物語の中だけの存在ではないようなのです。文献を漁れば、過去にそのような歴史が本当にあったらしいという断片的な記述はかなり見つかりますから。」
本当におそろしいのは・・
そう前置きして、やや間を置いてからレーヌは再び切り出した。
「もしかしたら、ドリガロンが守護霊獣を支配下に収めたのは野望の途中経過に過ぎず・・この敵対因子の復活をも目論んでいる可能性まであるということなんです。何があっても蘇らせてはいけないものを・・」
「・・よし行こう。俺が絶対にこの世界と・・レーヌ、君を護るよ。」
「嬉しいですユータさん・・ユータさんと呼ばせていただきますね? そうと決まれば、もう明日の朝にはこの中央都市ダミナートを出発することになりますよ?」
カッキーは頷いた。応えるようにレーヌも頷き返す。
これが、カッキーにとっての騎士の誓いとなった。