祖父のはなし
父方の祖父が生きていた頃。
年に何度か、他県にある祖父母の家に、遊びに行くことがあった。その時は父の兄弟姉妹とその家族も集まり、泊りがけで賑やかな数日間を過ごしていた。
その、ある時の話。
私は幼すぎて憶えていない。母から聞いた話になる。
母が、妹を身ごもっていた時だったというから、私は2歳だった。
台所仕事を手伝っていた母は、急に、私がいなくなったと思い込んだ、という。
実際は、家の中で、年長のいとこたちが遊んでくれていたらしいが、母はそれを確認することもなく、私が外に出た、探さなければ、と思ったらしい。
誰にも言わずに、外に出た。
祖父母の家の裏手は、急な下り斜面になっていた。下りきったところに小川が流れていた。その向こうには雑木林があった。
母は、表の通りに私がいないのを見ると、裏に回った。
雨が上がったばかりで、斜面は泥で滑りやすかった。それでも、母は私を心配して下りていった。
小川は増水しており、濁っていて、流れはいつもよりずっと速かった。
母にはそんな小川がとても気になり、岸まで来ると覗き込んだ。
すると、水の中から、ちゃぷ、ちゃぷと音がした。子供が水を掻くような音に聞こえたそうだ。
母が、さらに身を乗り出した。その時。
背後で窓を開ける音がし、祖父の大声が聞こえた。
振り向くと、小川に面した窓の向こうで、祖父が引き攣った顔をして、自分を呼んでいたという。
「家に入れ! 早く!」
祖父は叫んだ。「お腹の子が取られっちまう!」
何のことかわからなかった母だが、祖父のただならぬ気迫に驚いて、斜面を駆け上がり、玄関に飛び込んだ。
その後、家の裏には祖父が柵を立て、小川に下りることはできなくなった。
母が詳しいことを訊ねようとすると、祖父は
「そんなことあったか? 憶えてねえな」
の、一点張りであった。
自分は夢でも見たのだろうか、と母も考えたが、やはり、あれは夢ではなかった…そう断言できると言う。
「だってその後、小さかったあんたが家にいるのを見つけて、体の力が抜けるほどほっとしたのをよく憶えているんだもの」
私がその話を聞いたのは、祖父の葬儀の翌日である。もう5年も前だ。
葬儀では不思議なことがあった。
町の葬儀場で行ったのだが、会場が一杯になるくらいに多くの人が来た。親戚だけではそんなにならない。祖父は友人知人が多いのだな、などと皆で話していたのだが…
それなのに、芳名帳に書かれた名前はそれほど多くなかったらしい。
殆どの人が、名前を書かず、でも、葬儀に列席していた、ということになる。
それに。
母の話を聞いて、不思議に思ったことがあった。
話を聞いた後、身内で祖父母の家に集まった際、私はそれを確認した。
それは、小川に面した窓。
祖父が、母を呼び戻した、窓。
家の一番奥の部屋は、その当時は使われておらず、締め切られていた。だが子供は、家中どこでも遊び場にしてしまうものだ。だから私は、その部屋のつくりは知っていた。
だから。おかしいと思った。
改めて奥の部屋に入ってみた。
窓なんてないのだ。
小川の方向には、壁があるだけなのだ。
気が付くと、部屋に、祖母が入って来ていた。
「裏の柵を立てた日に、ね」
祖母が言った。「おじいちゃんが、大きな蛇を退治したんだよ」
「え、どういうこと?」
訊ねる私に、祖母は、
「この話は、これでおしまいね」
静かに言い、みんなの所へ戻ってしまった。
今はもう、その家はない。
祖父の葬儀のすぐ後、体の弱かった祖母は伯父の家に移り、空き家になって数年後に、周辺の土地とともに買われ、住宅街になった。
小川もなくなった。
妹は無事に生まれ、来年成人式を迎える。
振袖を着て祖父母のお墓にお参りするんだ、なんて言っている。
おわり
読んでいただきありがとうございました。