(九)混沌の紋章
コールはペラペラと喋り出した。
「タンゲイトーへの定期船は、ここから西へ三海里の大きな港に入る。新月に、境海の紋章を旗にした大型の帆船が入港するんだ。見た目は裕福な商船だが、じつは船底が二重になっている密輸船だ。だいたい、密輸をやってる船は、欲張りだから、喫水線の沈み方ですぐにわかる」
船を水に浮かべると、船の下部が海面に沈む深さは、船の大きさによって規格が定められている。
それが喫水線だ。
船体が重すぎて船底が沈みすぎれば、当然バランスを崩して沈没の原因になる。密輸を行う船は一度の航海で利益を上げようとして、一度に運べる積載量を無視することが多く、重荷のために予想外の場所で暗礁に乗り上げる。浅い海底に船底が引っ掛かって、動けなくなるのだ。
「ここには密輸船が多い。リングマスターの船を見分ける他の方法はあるか?」
「そうだな。舳先の船首飾りが、女神や人魚の半身像ではなく、派手な仮面の道化師だ。アルレッキーノにハーレキン、エルカン、アルルカン、クラウンにピエロ。そういったちょっと珍しいやつさ。そして、彫像のどこか見えにくいところに、必ず灰神のシンボルが刻まれている。混沌の紋章である円環だ。魔術師なら一目で見分けがつくだろうよ」
早口に喋り終えたコールは、ゴクリと音を立てて唾を呑み込んだ。
リリィーナはほくそ笑んだ。コールが魔術に関わる内容を語り始めている。警戒が緩んできたようだ。
境海には無数の神が存在する。
その中でも、灰神と呼ばれる『冷たき灰色の神神』は、あらゆる悪しき力の象徴だ。灰神という字の由来は、人類にとって光でも闇でもなく、その存在の領域が、曖昧な灰色の領域に属するという伝説による。古来より境海のあちこちで暗躍する暗黒の神族とも言うべき存在だった。まともな人間にとっては口にするのも忌むべきものなのだ。
「境海の悪魔は灰神と古い関わりがある。やつらは用心深い。タンゲイトーには秘密の海図がなければ上陸できないそうだが、抜け道はあるか?」
先を促すと、口をへの字に曲げていたコールは、再び口を開いた。秘密を吐露したら、ふてぶてしく開き直ったようだ。
「タンゲイトーは孤立した島だ。空にも陸にも、抜け道はない。あの島は黒い珊瑚礁の真ん中にある。黒い珊瑚は何でも喰らう貪欲な魔物だ。魔力で姿を隠し、ついでに港への入り口も隠している。黒い珊瑚礁の海図ってのは、船長が持っている真珠の鏡だ。このくらいの大きさで、簡単に持ち運べる」
コールは両手の人差し指と親指で丸を形作った。
「隠された港へ入るための魔法の門は、真珠の鏡で月の光を岸壁に反射すれば、洞窟が開くんだ。鏡の表面に並べられた真珠が、珊瑚礁の浅瀬の正確な位置と、港へ入れる唯一の航路を描いている。たとえ魔法使いがいて黒い珊瑚をやりすごしても、契約していない船は座礁するか、敵と見なされて黒騎士に追い払われるんだ」
一息に喋り終えたコールは息をはずませ、どこか安堵したように表情をゆるめた。
「よかろう。これは餞別だ」
リリィーナは金貨を一枚、放り投げた。
「へ、ありがたくいただいておくぜ。これからは金がいる……ッ」
空を飛んできた金貨を掴んだ瞬間、コールは大きくのけぞった。
硬直した手から金貨が落ちる。くわっと目が見開かれた。両手で喉を掴んだ。低く呻きながら虚空を睨み、よろけた。
「まさ、か。ここまでは、禁忌には触れないはずだ。オレは裏切っていな……」
わななくその口から、黒ずんだ血があふれ出た。ボタボタと地面にしたたり落ちたその血の表面が、動いた。アメーバのごとく蠢いて広がり、やがてその形は、大きな三本角を生やした頭部に長いマントを着た人形となった。
「リ、リングマスター」
コールは悲鳴と血塊を吐き出した。体をくの字に曲げ、一回だけ、ピョン、と跳ねあがって曲げた腰をまっすぐに伸ばした。痙攣する手が喉を押さえ、顔が上向いた。顔面がすっかり天を仰いだとき、頭から足までが一直線に伸びきって、ほとんど爪先立ちになっていた。
次の瞬間、コールの立っていた場所で何かが砕けた。
数メートルの距離を一気に飛び退いたリリィーナは、目をすがめた。
さきほどまでリリィーナがいた辺りの地面は赤く染まり、コールは右側を下にした横向きに倒れていた。自ら流した血の海に顔半分をうつぶせている。半分見える左顔面は青黒く変色し、白目を剥いていた。右頭部は完全に潰れている。これではほぼ即死だったろう。
彼が倒れた過程は、異常に早過ぎた。まるで巨大な手が、鷲掴みにしたコールを、音速で地面に叩きつけたかのようだった。
「タンゲイトーに入るための海図の秘密を語ったときに、リングマスターの影が現れた。後催眠型の呪いらしいな。念の入ったことだ」
そういった呪いの多くは、「鍵となる言葉」でスイッチが入る。特定の言葉を発した時に、呪いが発動して命を奪われるのだ。
コールの場合、それは決まった単語ではなく、タンゲイトーの秘密に関わる情報の、何か――意味か、複数の語彙の組み合わせだったのだろうと、リリィーナは推測した。コール自身は話してもさしつかえないと考えていた内容だったようだからだ。だが、それは、呪いの主人には許し難い裏切りだった。
「契約者は、リングマスターの支配から逃れられない宿命を持つ、か」
それがリングマスターの契約だ。
この無惨な死体こそ、けっして破られることはない契約の完了形なのだ。
リリィーナはコールの死体をざっと検分した。最後にコールが「リングマスター」と呼んだ、地面に血で描かれた奇妙な人形は、血の海に消えていた。
リリィーナは路地の入り口を見やった。
港湾局へ行くのが手順だが、下っ端係官に説明するのが面倒だ。
やはり、この港にある多次元管理局の支局へ連絡しよう。
地方で発生した事件は地元警察の管轄となるが、これは境海を越えた犯罪に関連している。局の検死官が診れば、船乗りの死因となった呪いの詳細は、すぐに判明するだろう。