(十六)魔の化身
リリィーナの足下で影が動いた。
振り仰ぐと、天窓のガラスが天に向かって割れた。
そこから白い光の球が落下してくる。
ガラスの破片が降りそそぐ前にリリィーナはその場所から離れ、倉庫の出口に向かって走った。
外に出て、リリィーナは背後に現れ出た気配を察知した。
「また君か、ホリディ」
リリィーナは振り向いた。
倉庫の入り口にホリディがいる。軽く振られた両手指の先から水滴が飛んだ。
「あれっぽっちの霞を作るのに、袖まで濡れましたよ。海水は扱いにくいですね。申し訳ありませんが、カルバドは避難させました。下品でいけ好かない男ですが、こういうのも私の仕事のうちでして」
白い光の球が飛んできて、ホリディの左肩に留まった。光の中に白い小鳥がクチバシで羽をつくろっている。小鳥が透明な翼を広げると、チリン、とベルの音が鳴った。ホリディが差し出した指先に移ると、瞬時に豆粒ほどに縮み、拳の中に吸い込まれて消えた。
「水晶の鳥か。魔法も運べるとは、なかなか見事な出来映えだな」
「不思議探偵に褒めていただけるとは光栄の至りです。では、とっておきの自信作を披露せねばなりませんね」
ホリディは、にこ、と笑った。こどものように邪気がない。
ポツン、とホリディの前の地面に黒いシミが出来た。
一つ、二つ、三つ、四つ、五つ……分裂し、点点と広がり、一つ一つが丸く盛り上がり、むくっ、と動いた。真っ黒な小人だ。全長は二十センチもないだろう。骨と筋ばかりのミイラのように細い身体で、手に手に銀色の小さな棒を持っている。キラリと光った。
ナイフだ!
小人たちはナイフを閃かせ、前線にいた半数が、リリィーナに向かって一斉に跳躍した。
地面にシミを認めた瞬間に、銀の剣はポケットから掴み出していた。長剣にするのは一瞬もかからない。
リリィーナは銀の剣を一閃させた。
宙に飛んだ小人は縦に、横に、あるいは斜めに斬り分けられたいびつな黒いカケラとなって、弾け飛んだ。
ホリディが次の魔術の一手を思考に上らせる前に、リリィーナを襲ってきた小人は地面の黒い染みに還っていた。その後方で第二弾にかかろうと待機していた残りの小人たちが、じりじりと後退していく。
リリィーナは剣の切っ先を下に向け、トン、と地面を突いた。
剣先から生まれた衝撃は、波紋状に地を這いながら広がった。水面に何重もの輪が広がるように、空気を波打たせながら拡散して、地表に居並んだ小人どもをことごとく呑み込んで、消えた。
小人が出てきた黒い穴ぼこの痕跡も消滅した。
すべては魔術の幻影だ。
ホリディから貼り付けたような冷笑が消えた。より強い魔力によって、彼の魔力が制御されたのだ。勝ち目がないことは明らかだった。
リリィーナは長剣を縮めた。掌より少し長い短剣にして右手に持つ。まだ油断は出来ないが、武器を小さくすることで、これ以上の戦闘を望まないことを示したつもりだった。
「投降したまえ。君もリングマスターの被害者だ。局は君を保護する用意がある」
「オレを……保護するだと?」
いきなりホリディの顔つきが変わった。かろうじて保っていた人間的な無表情をもかなぐり捨て、吊り上がった目に狂気が光る。ホリディの全身を取り巻く生命の輝きが真紅に変じた。能力者にしか視えない人体を取り巻く光が、紅蓮の炎のごとく燃えたっている。破壊と攻撃の象徴であり、怒りの顕現であった。
リリィーナは目を細めた。
魔力を持ち、訓練を積んだ能力者といえど、視覚のみから読み取れる情報は限られている。魔法の目で探ろうとしても、ホリディとて魔術師だ。魔法による心身への防御は常に張り巡らしているだろうから、心の奥深く隠していることまでは読み取れない。伝わってくるのは凄まじい憤怒のみだ。
「バカバカしい、局に何ができるんだ。本当は何も出来ないくせしやがって!」
ホリディの声は震え、暗い憎悪に彩られていた。喋るホリディの背から、白いもやもやした煙のようなものが遊離していく。白い煙はホリディの近くを漂い、すぐ横の地面に降りて、わだかまった。
もやもやから四つ足が伸びた。
筋肉のもりあがった獣の脚が形成され、地面をしっかと踏みしめる。引き締まった毛深い胴、筋肉の盛り上がった肩から太い首が伸びた。長い鼻面、大きな口からはみ出た純白の牙、両の眼は琥珀色に爛爛と光っている。豊かなたてがみとふっさりした尾が、青白い炎に包まれて揺れていた。
この世に在らざる魔の獣。
あたりの空気がドクンと脈打ち、冷気が辺りに湧き上がる。
魔物の棲む世界の温度だ。
ホリディは、ニイ、と笑った。歪んだ唇が大きく横に広がる。悪魔めいた笑みだった。ホリディを取り巻く真紅の光が、いっそう大きく燃え出した。
「魔術師ならわかりますね。コイツは純粋な怒りの化身、フェンリルです。あなたを噛み殺すまで消えはしない。たとえ局員でも逃げられませんよ」
フェンリルは『怒りの魔術』の別名を持つ。魔術師の純粋な憤怒から生成される使い魔だ。いったん解き放たれれば、地の果てまでも標的を追い続け、その命を刈り取るまで消えはしない。人間の感情が生み出す想像物の中でも、フェンリルほど危険な凶器は珍しい。多くの魔物を見てきたリリィーナも、実際に生み出される処を目撃したのは、これが始めてだった。
「やめろ、ホリディ。君を傷つけるつもりはない。フェンリルを消すんだ」
強い感情から誕生した使い魔は遊離した直後は、創造主との繫がりがことのほか深い。激情に支配されているホリディにとって、今のフェンリルはホリディの心身の一部でさえある。リリィーナがフェンリルを殺せば、ホリディも無事では済まない。
「フェンリルを君の意思で消すんだ。そうすれば君を傷つけずに済む」
まだ、ホリディは凶器を敵に放ってはいない。ホリディが呼び戻し分解さえすれば――この状況で憎悪を制御するのは、彼にとっては恐ろしく困難だろうが――多少の犠牲を払うことになっても、フェンリルを無に還せるかもしれない。
「イヤだね。第一、そんな方法は知らないんだ。ここでアンタを殺さないと、オレがリングマスターに殺されるんだよッ」
ホリディのせせら笑いを合図に、フェンリルを包む炎が大きく燃え立った。強靱な四肢が地を蹴り、宙に飛んだ。青白い尾を引く帚星のごとく。
リリィーナがフェンリルの動きを目で追った一瞬後、ホリディの姿は通りから消えた。
フェンリルの姿もなく。
背後から風が吹きつけてきた。
狂気を孕んだ冷たい風が。
間一髪でしゃがんだリリィーナは、銀の剣で頭上をなぎ払い、そのまま左へ大きく跳んだ。建ち並ぶ倉庫三軒分の距離を飛び越し着地する。
カラン、と乾いた音がした。
さっきまでいた場所に、細長く白いカケラが転がっていた。
フェンリルの牙だ。
長さ三十センチほどのそれは、先ほどのリリィーナの一撃で折れたのだ。その周りで斬られた毛が青白く光っている。散らばった毛は、自ら発する青白い炎によって燃え輝き、跡形もなく焼失した。
冷たい風が地を掃いた。
先触れの風を追うように、フェンリルが急降下してくる。
全身を包む炎はいよいよ青白く燃えさかり、牙をガチガチと鳴らしながら、道の両側の建物を交互に蹴って飛んでくる。蹴られた壁には、鋭い爪痕が刻まれていた。全長二メートル近い巨体の、発達した筋肉のしなやかな動きと俊敏さは、猫科の猛獣に似ていた。
リリィーナは銀の剣を再び長くして、左手に持ち替えた。ホリディを生かして捕らえるには、フェンリルに致命傷を与えずに封じるしかない。それには相手を凌駕する魔力がいる。
フェンリルの動きが止まった。
壁に四つの足で張り付いたまま、低く唸り――――リリィーナと目を合わせた緊張の頂点で、フェンリルは壁を蹴った。
リリィーナは瞬時に移動した。空中を直線的に駆け降りるフェンリルの着地点を読み、その真下へと潜り込む。神速の動きにフェンリルは空中転換できずに、石畳に着地した。
フェンリルの腹の下にリリィーナは押し潰された!――――――はずが、フェンリルは、パッと後足で立ち上がった。
リリィーナは巨大な前足の間にいた。
右手でフェンリルの喉を掴み。
指は五指とも喉に食い込んでいる。
フェンリルは頭を仰向けた。
大きく仰け反る喉から胸にかけて、一筋の長い傷が、パックリと口を開けていく。リリィーナの一撃で切り裂かれた傷だ。半ば幻影に近いアストラルボディの体には致命傷ではないが、攻撃力の半分は削がれているはず。
自分の懐には届かない狼の両前脚が、むなしく空を引っ掻いた。
「まったく、よりによってわたしの苦手なものを出してくれたな」
魔力はなかなかのものだが――リリィーナは微笑んだ。リリィーナの攻撃を受けても牙を折られても、さらに凶暴になって挑みかかってくる処は、使い魔としてあっぱれだ。
「あいにくだが、お前は私の敵ではない」
リリィーナは右手に力を込めた。
「キュウン」と、フェンリルが鳴いた。
人工の使い魔は攻撃のために半実体化するが、本来は幻影めいた存在のアストラル体だ。彼らは自前の声を持たない。必要があれば植え付けられた特定の『音』を再現して使う。
それが、狼の鳴き声から最低の弱音を再現し、怯えている。
敵を追跡し、噛み裂くための本能しかないフェンリルが、自我すら持たぬ使い魔が、敵に哀れみを請うている。
「おとなしくするがいい。お前たちを死なせはしないから安心しろ」
フェンリルの喉を掴んでいるリリィーナの手の隙間から、銀色の炎が噴き出した。銀の炎は燃え上がり、身悶えするフェンリルの青白い炎が揺らめく全身を喰らい尽くし、さらに大きく燃え上がった。
ついにフェンリルは、銀の炎の中に溶け崩れた。
狼の形は失ったが、それでもまだ銀の炎の中心部分に、フェンリルの熾火が残っていた。
青白い小さな火がぐるぐると渦巻いている。
これこそがフェンリルを形作っていたエネルギーそのものだった。
リリィーナの銀の炎は、ワッ、と大きくなり、青白い小さな火を完全に押しつぶすと縮み始めた。
やがて炎はリリィーナの両手で包めるほど小さくなり、掌の上に浮かんだ。
銀の炎の頂上が、細い糸のように伸びあがった。
それは一筋の銀の流れとなり、リリィーナの左手に握られた剣の、柄頭に埋め込まれている水晶玉へ吸い込まれた。剣の柄全体がぼんやり淡く光っていたが、剣を一振りすると光は消えた。
リリィーナは剣を縮小し、ポケットに仕舞った。