(十五)魔獣グラスフォン
ガラスの割れる音がした。
そこかしこで無数のカケラが高所から落ちて、砕け散るような。それが石畳に反響して、まるで数千のガラスのベルが鳴り響いているようにも聞こえる。
だが、音がする辺りを見回しても、何も無いのだ。
リリィーナは瞬きした。
その瞬間、商人とたくさんの檻は消えた。
からっぽの地面には、大きな白い輪が描かれていた。
ちょうど檻が並べてあった区画の大きさだ。
「魔術の結界か」
白い輪は境界線だ。いざというとき、あらかじめ魔法で繋げたどこかの場所へ、瞬間移動できる術が掛けられていたのだろう。商人と商品を安全圏に運び、空いた空間へ踏み込んだ敵を捕らえ置くための罠だ。
リリィーナの足下で七色の光が動いた。
「そして、こいつが置きみやげか」
陽光透ける透明な猛禽の頭が、リリィーナを見下ろしていた。
その体高は大人の背丈の約三倍。頭と翼は鷲そのもので、体はライオン。その姿は伝説の魔獣グリフォンだ。ただし、透明な水晶の彫刻のような。体を通過する太陽の光がクリスタルのプリズム効果で分解され、石畳を虹の七色に染めていた。
鷲の頭が揺れ、ライオンの足が踏み出した。一足歩くごとに爪先はわずかに割れ、足裏が砕けて破片が弾け飛んで、シャラシャラと涼しげな音色を立てる。その歩みと共に、石畳にはクリスタルガラスの破片が撒き散らされ、グリフォンの頭から胸部までを覆うガラスの鱗は擦れ合い、リンリンと鳴り響いた。
クワッと、グリフォンのクチバシが開いた。
そこから吐き出された灰色の煙は正面に立つリリィーナをたちまち包み込んだ。
「やったぞ!」
どこからか商人の声がした。狂ったように笑っている。
「不思議探偵なんてチョロイもんだ。そいつはグラスフォン、グリフォンをベースに、魔術で創り上げた番犬だ。体内で合成した障気はあらゆるものを腐食させる。いかな境海の魔術師といえど耐えられまい」
灰色の障気は白い輪の内に滞っている。
煙のように流れ出る性質ゆえに、魔術によって使用範囲を限定しなければ自然と薄まるまで広がり続け、無差別に生き物を殺戮する凶器だ。
商人も魔術師のはしくれだ。いくら目抜き通りからはずれた場所でも、市街で魔物を解き放つほど愚かではあるまい。
灰色の煙を吐き続けていたグラスフォンは、主人の言葉の切れ目に、クッと顎を引いた。煙を細く吐き続けながら目をきょろつかせ、体をゆすっている。目標を見失った使い魔は、主人に次の指示を求めているのだ。空中から商人の声が響いた。
「どうした、グラスフォン、もう障気を止めていいぞ。普通の人間ならとっくにドロドロに溶けて死んでいる。オレさまが、あの不思議探偵を殺したんだ……!」
狂喜する声は、そこで途絶えた。
煙の充満する結界内の、その場所だけが丸く輝いた。
薄い黄金色を帯びた卵形の空間に。
グラスフォンがゴウゴウと吐き出す灰色の煙は卵形の外側で漂うばかり。その中でリリィーナは、白く耀く銀の長剣を頭上高くに掲げ、振り下ろした。
灰色の煙は両断され、左右に分かれた。
その瞬間、リリィーナを護っていた光は消え、周囲にたちこめていた煙も失せた。間髪置かずに手首を返し、空間を切り下ろす。
銀の剣の衝撃波は、見えない刃となって空間を切り裂きながら走り、その直線上にいたグラスフォンを、縦真っ二つに両断した。
透明な体躯が爆発した。四散したクリスタルガラスの破片が空中にきらめく。
その背後の空間の破れ目から、別の景色が覗いた。
どこかの暗い屋内で、青ざめた商人が檻にしがみついている。
リリィーナは石畳を蹴り、空間の破れ目へ飛び込んだ。
一瞬の闇をくぐり抜けて、向こう側へと入り込む。
痛みかけた魚の臭気が鼻をついた。
高窓から午後の陽射しが差し込んでいる。
港の荷揚げ用倉庫の一つらしい。土の剥き出した床に無数の檻が置いてある。カルバドはしがみついていた檻の鍵を開けようと、鍵穴に差し込んだ鍵をガチャガチャと動かしていた。
「わわ、こっちに来るなッ!」
あわてふためいたカルバドは、震える手から鍵束を落とした。
「動物を使うのはやめておけ。それより頭を使って考えろ。多次元管理局は司法取引をする用意があるぞ。お前には指名手配がかかっている。境海中に手配書が出回っているのに気付かなかったのか?」
リリィーナは左手の平を前方に向けた。カルバドが拾うより先に鍵束は宙を飛び、リリィーナの左手に吸い付いた。真鍮や鉄、青銅製のシンプルな構造の鍵ばかり、数十本をまとめる環には、境海の紋章が刻印されている。
「クソ魔術師めッ。そんなもの、知るか。それを、か、返せっ」
カルバドはバタバタと走って檻の向こう側に回った。
「仕入れ先はタンゲイトーだな。この生き物たちの前身が何か、知っているのか?」
リリィーナが檻を指差すと、檻に囲まれて行き場を失ったカルバドは、その場にどっかり胡座をかき、ふてくされた表情で睨みつけてきた。
「そんなもの、オレにはどうでもいい事さッ。境海を渡る船の中には魔法の生き物ばかりを扱う貿易船がある。そこから買うだけだ。さっきのグラスフォンは番犬用にどこかの魔術師から譲り受けたんだ。オレが作ったんじゃない!」
「開き直るか、密輸商人め」
「くそッ、どうせ多次元管理局に引き渡すんだろう。どうにでもしやがれ!」
カルバドの仲間や密輸船の摘発には、すでに多次元管理局の別働隊が動いている。
リリィーナはカルバドの方へ踏み出した。
小さな羽ばたきが聞こえた。
一瞬遅れて風が脇を通り過ぎる。
白い光球が倉庫の奥へ飛んでいった。光球の中で小さな翼が上下している。
リリィーナが光球を目に留めた瞬間、地面から大量に白い霞が湧き上がり、視界は白い霞の帳に遮られた。
そして一陣の風が吹きぬけた。
白霞は晴れた。
倉庫内は空っぽになっていた。