(十)匠の館
ここは「匠の館」と呼ばれている。
ラリゼルの部屋はトイズマスターの仕事部屋の隣に用意された。トイズマスターがそれを望んだのだ。調度類は簡素だが、ワードローブにはしゃれたワンピースなどが何着もあり、サイズはラリゼルにピッタリだった。白い化粧台の引き出しには、櫛やヘアピンなどの小間物、ネックレスやブローチなどのアクセサリー類がたくさん入っていた。
翌朝、ラリゼルは自分の制服に似た青いワンピースを選んで着替えた。靴は履いてきた自分の靴だ。真新しい靴もあったが、ヒールが高すぎたり派手な飾り付きで、実用性に欠けるきらいがあった。
それから、朝食のためにトイズマスターの仕事部屋を訪れた。
トイズマスターは囚人だが、特別待遇を受けているという。日常の世話はピエロがしている。必要な物は申しつければ、可能な限り取り寄せられる。
仕事部屋に設えられた食卓は豪華だった。タンゲイトーは孤立した島国と聞いたのに、焼きたてのパンや香りの良い紅茶に、ハムやベーコンなどの加工食品はもちろん、幾種類もの新鮮な果物まで供されている。
「石造りの三階建てで、広いお部屋が二十以上あるなんて、すごく立派な幽閉場所よね。オーナーと従業員は気に入らないけど、高級ホテル並みだわ」
とはいえ、館の八割は倉庫で、トイズマスターがこれまでに作らされたオモチャや材料の保管場所になっているらしい。囚人はトイズマスターだけだという。他に幽閉されている大人はいないのだ。
「自由以外はなんでも手に入る……という状態かな」
力なく独りごちるトイズマスターに、ラリゼルは部屋の外にピエロがいないのを確かめてから、こう答えた。
「それも時間の問題だと思うわ。ここが伝説の夜の遊びの国だろうと、境海の悪魔がいようと、これからさっそく、脱出方法を探るつもりよ」
トイズマスターが何とも困り果てた顔つきで溜め息をついたとき、ドアがノックされた。
ホリディだ。ピエロを二人連れている。彼だけは今日も明るい緑のコートに赤いスカーフを結んでいる。ピエロの扮装をしないホリディは、お供のピエロに指示を与えたりしているから、管理職のような立場なのだろう。
ホリディは、ラリゼルにうやうやしくお辞儀をしてから、トイズマスターに話しかけた。
「あなたの知り合いにしては、えらくきれいな女の子だと思っていたが、まさか本物の王女様だったとはね。夜の遊びの国へようこそ、ラリゼル・エレア・ストルージェ姫。お忍びで魔法大学付属学院に留学していた、バスティア国の王女殿下」
ホリディはじろじろとラリゼルを眺めた。ぶしつけだが、いやらしさはなく、珍しい動物でも見るような好奇心の強い視線に感じられた。
ラリゼルは戸惑った。普通の誘拐なら、身代金の要求や殺される心配をするだろうが、この状況で自分の身元がわかるとどうなるのか、よくわからなかったのだ。
ホリディはラリゼルが観察しているのに気付くと、笑いかけてきた。それは、底意地の悪そうな、子供っぽさが強調された嫌な笑顔だった。
ラリゼルは顔を背けた。目の端で、ふん、とラリゼルを小馬鹿にするホリディの表情を捉え、あれ? とラリゼルは疑問が湧いた。
ホリディは、てっきり経験を積んだ老練な魔術師が魔法で若者の姿をしているのだと思っていた。トイズマスターとラリゼルに対する慇懃無礼な態度は、ひねくれきった大人そのものだったからだ。しかし、ホリディの物腰や仕草はあんがい若若しい。顔立ちは頬の線もまだ柔らかな丸みがあり、ちょうど少年と青年の中間期にあるようだ。
もしかすると、ホリディは見た目通り、ラリゼルよりほんの少しだけ年上の若者ではなかろうか。そうなら、少年みたいな若造がリングマスターお抱えの魔術師だということになる。幼い頃からよほど魔術の才に恵まれた天才で、それをどんな方法を使ってかリングマスターが見出し、一番の部下にするべくどこかからスカウトしてきた……?
「さて、良いお知らせがあります。リングマスターが、姫君を、王城でじきじきに保護すると申し出ておられます。元の世界には二度と帰せなくなりましたよ」
ホリディの報告にトイズマスターは青ざめ、紅茶のカップをひっくり返した。ラリゼルを背後にかばいながら、じりじりと部屋の隅に後退する。
ラリゼルは、トイズマスターの背後で首を竦めた。
「バッ、バカな申し出だ。この子が帰らなければ多次元管理局だって黙っちゃいないぞ!」
トイズマスターは、この時点まで、ホリディやピエロの前でラリゼルの素性や局との関係がわかるような会話は一切していない。それは、こうなることを恐れていたからだと、ラリゼルにもわかった。
ホリディは斜かいにかまえ、冷ややかに笑った。
「あなたはつくづく甘い人ですね。多次元管理局が何をしてくれると言うんですか。どうせ、なにも出来はしませんよ。いまだにこの島の場所すら、知らないではありませんか」
「わたしはいい。だが、姫君は帰してくれ!」
トイズマスターの慌てぶりとは正反対に、ホリディは嬉しそうに目を輝かせた。
「へえ、あなたがそんな顔をするとはね。この子をあなたから奪うのは、私にとって何よりやりがいのある仕事らしいな」
一歩一歩、ホリディが近付いてくる。トイズマスターを盾にこっそり覗いていたラリゼルは慌てて顔をひっこめた。
「やめてくれ!」
いきなりトイズマスターがその場に正座した。ラリゼルは立ち竦んだ。
「待ってくれ、頼む、この通りだ。私は、君にもそんなことはして欲しくないんだよ、ホリディ」
トイズマスターは額が床につくほど頭を下げた。見下ろすホリディの水色の瞳には冷たい光が宿っている。触れれば切れるナイフの刃先のような目だ。凍りついた微笑がスッと消えた。
「……なんですか、その卑屈な態度は。私に頼んだって、効果はありませんよ。取引なら、リングマスターに申し出るんですね」
「わかった、リングマスターを呼んできてくれ。この子を見逃してくれるなら、代わりに……代わりに、例の物を作ると伝えてくれ」
トイズマスターは背筋を伸ばし、ホリディを見上げた。
ホリディの眉間に深い縦皺が刻まれた。軽蔑のこもった冷笑があからさまな嫌悪に取って代わる。
「……ふん、そんなにガキが大事か、自分の命よりも?」
ホリディを見つめるトイズマスターの視線は、揺らぎもしない。
「君たちが捕えた子供をすべて解放し、親元に帰してくれるなら、私は喜んで死ぬとも」
トイズマスターが喋り終えた次の瞬間、ホリディはこんどこそ豹変した。人相までもがガラリと変わり、身にまとう雰囲気も別人になった。まるで憎悪の化身だ。殺意が全身を覆っている。ラリゼルは恐怖を感じて左の方へ後ずさった。
「……きさまは、偽善者の糞野郎だ」
ホリディは床にツバを吐き捨て、座っているトイズマスターの左肩を蹴った。容赦ない一撃に、トイズマスターは後ろ向きに倒れた。ひどく打ったに違いない肩を庇いながら、すぐに身を起こした。
「君たちは命の意味を知らない。だから、オモチャの本当の存在意義もわからないんだ。だが、それはけっして君の罪ではないんだ、ホリディ」
トイズマスターは穏やかに諭した。ホリディのことをよく知っているような口ぶりだ。
「うるさい、だまれ!」
ホリディはますます怒り狂った。いきなりラリゼルの方へやって来て左腕をつかみ、トイズマスターの方へ乱暴に押しやった。ラリゼルはよろけてトイズマスターにぶつかり、その横に尻もちをついた。トイズマスターはすばやくラリゼルを助け起こし、背後にかばった。
「聞こえただろう、ホリディ。私は作ると言っているんだ。だから、君は二度とこの子に触れてはいけない。すべてはリングマスターの知るところになる。早くリングマスターを呼んできてくれ」
ホリディの顔面は紅潮し、トイズマスターを指差す手は細かく震えていた。
「バカにしやがって……覚えていろよ。ボスは呼んできてやるさ。おとなしく待っていろ」
ホリディはドアを叩きつけるように閉めて出て行った。
しばらくすると、ラリゼルはピエロに作業場から連れ出され、自分の部屋に居るよう言いつけられた。
ひとりでベッドに腰掛けていると、何か聞こえてきた。
人の声だ!
ラリゼルはベッドと反対側の、隣室の境目になる壁にへばりついた。
トイズマスターの声がする。
「ああ、言われたとおりに作る。だから、ラリゼル姫には手を出さないでくれ。……いいとも。最高の材料で……ああ、わかった。その通りに……もちろん、そのように設計するとも。いや、時間はさほどかからないよ。手を加えるのは少しですむ」
懇願する表情が目に浮かぶようだ。すぐ側にいる誰かに話しかけているらしい。おそらく相手はリングマスター、この国の恐るべき支配者だ。
「その代わりに約束してくれ。ラリゼル姫には自由を与えて欲しい……」
ラリゼルは呼吸を止めた。
耳を澄ませばトイズマスターの声は奇妙なくらいにはっきり聞き取れるのに、相手の話す声は、ついに聞こえなかった。
ラリゼルは呼吸を再開して、静かに壁から離れた。
両手で耳を塞いだ。ラリゼルが一緒にいるがために、トイズマスターは何かの制作を強要されている。そう思うとたまらない。芸術家が強制され、意に沿わぬ作品を作るなんて屈辱以外のなにものでもなかろうに。
こぼれそうになる涙をこらえ、扉をそっと開けて廊下を見た。見張りのピエロはいない。広い館内は静かだ。
玄関から外へ出ても、ピエロはどこからも現れなかった。
ラリゼルにも散歩する程度の自由はあるらしい。あるいは絶海の孤島からはけっして逃げられないという、リングマスターの自信の現れだろうか?
外は心地よい風が吹いている。空は魔界とは思えないほど澄んでいた。
風に乗って軽快な音楽が流れてくる。
メロディーに混じって大勢の子供の声がする。
ラリゼルは匠の館を振り返った。目の前には遊園地がある。
どうせ逃げられないのならどんなところか調べてやろう。
ラリゼルは観覧車を目指して歩き出した。