(一)喫茶エクメーネ
「るるーっぷ! 大変なのです」
パーンッ、と入り口のドアが開いた。
ドアベルがカランカランと鳴り響き、甲高い声がつづく。
「不思議探偵のリリィーナを探しているのです!」
ピンク地に小花模様の熊のぬいぐるみ(テディ・ベア)が玄関近くに滞空し、左右に置いてある緑の鉢植えの上空を行ったり来たり、飛びまわる。ぬいぐるみ妖精のシャーキスだ。
リリィーナは飲みかけのカプチーノを置いた。
喫茶エクメーネは奥に細長い造りだ。店内の象牙色の壁には果物の絵が飾られ、木製の重厚なテーブルを、古めかしい角形ランプがオレンジ色に照らし出している。昼食時とあって五つのテーブル席はもちろん、カウンター席まで客でギッシリ埋め尽くされている。
「わたしはここだよ、シャーキス」
カウンターの一番奥から、リリィーナは手を振った。今日の服装はいつもと同じネイビー・ブルーの三つ揃いに同系色のネクタイなのに、慌てもののシャーキスには他の客と見分けがつかないようだ。上半身をひねった拍子に、チョッキのポケットから懐中時計がはみ出した。チョッキのボタンにひっかけた銀の鎖はお洒落を兼ねた淑女の実用品だ。男前なスタイルだと友人間では好評だが、これでもスーツは婦人用で、ことさら男装しているわけではない。
「るぷーいッ、やっと見つけた!」
シャーキスはクルクル回転しながら食事中の客の頭上すれすれを飛んで来た。
リリィーナの頭の真上で垂直上昇、短い黒髪を風圧で巻き上げ、すぐに急降下。リリィーナの顔の前でピタリと空中停止した。よほど慌てて飛んで来たのか、赤いリボンネクタイがほどけかかっている。
リリィーナは目の前の、シャーキスのプックリしたお腹をつついた。
「なんだい、しばらく姿を見なかったけど、ご主人のニザエモンさんはどうしたの?」
「大変なのです。ご主人様は悪いヤツらに誘拐されたのです。なんと、ラリゼル姫もご一緒なのです!」
店内にいた客が、飲み物をいっせいに吹き出した。慌てて立ったり椅子をテーブルにぶつけたりする音は、より大きなざわめきにかき消された。
「あの魔法玩具師のニザエモン氏がか」
「ラリゼル姫と云えば学院で大評判の、銀の巻き毛に青い瞳の美少女じゃないか!」
「そうそう、一年前から魔法大学付属学院に留学中のバスティア王国の王女さま、ラリゼル・エレア・ストルージェ姫だよ! たしか、今年、十五歳だっけ。急いで編集局に戻って写真を探さないと。マスター、お勘定はここに置くよ!」
男性客の一人がコーヒーを飲み干し席を立てば、
「そうだよ、飯なんか食ってる場合じゃない。俺は事件の裏を取りに行ってくるよ。ニザエモン氏の魔法玩具店『カラクリ』は確か、ここから東の通りだったな」
隣の青年が食べかけのサンドイッチを口に詰め込み、同僚の後を追う。
「私は社に連絡しなきゃ! すごい特ダネを拾えたわ。ありがとう、シャーキス!」
黒縁メガネの女性記者は苺のショートケーキを三口で食べ、紅茶で一気に流し込んだ。満席だった店内の客たちが我先にと席を離れ、ドアベルの音が休みなく鳴り響く。
あとのテーブルにはまだ湯気の立つティーセットや食べかけの料理と、それらの代金だけが残された。
シャーキスが事件を叫んでから三秒足らず。
リリィーナが「黙れ」と命じる暇もなく。
空中であたふたするシャーキスを、リリィーナは鷲掴みにした。
「誘拐事件を店の中で宣伝するヤツがあるか。ここはスクープを狙う記者の溜まり場だぞ。今日の新聞で公表されたら、人質の命が危ないだろうがッ!」
「るるっぷりい、ぷううーッ!」
人には意味不明のシャーキス語で抵抗しながら、シャーキスは首根っこを掴まれたまま、プルプルと首を横に振った。
「でも、身代金などの要求は来ないのです。今日も明日も明後日も、けっして!」
「あのニザエモンさんが、いったいどこの誰に誘拐されたって言うんだい?」
店長がカウンターキッチンを出て、足早にやってきた。
シャーキスは、ひょいと空中に飛んで、リリィーナの頭上にのっかった。店長は百九十センチと長身なので、リリィーナの頭に座ると目線がちょうど良いらしい。
「るっぷ! だって、ご主人さまが連れて行かれたのは、『夜の遊びの国』なのですから」
「あの魔界の?」
リリィーナとマスターは顔を見合わせ、リリィーナはシャーキスを掴んで下ろした。
「そうです、こどもたちが永遠に遊び続けるあの遊園地です。今朝早く、ご主人さまが半年ぶりに帰ってきたと思ったら、いきなり旅行鞄にご自分の玩具作りの道具をぎゅうぎゅう詰められて! しかも黒い服の怪しい男が一緒にいて! ボクはぬいぐるみのフリをして、会話を全部聞きました。そうしたら出て行くときに、ご主人さまはボクを持ち出して、道の途中のゴミ捨て場にポイッ! このボクを捨てたんですよ!」
シャーキスは首根っこを掴まれたままでのけぞり、大きく両手を広げた。
リリィーナは「それは、早く知らせに行けという意味だったんだよ」と説明したが、シャーキスは「よりによって生ゴミの日にッ!」プンプンしている。マスターが髪に手を突っ込み「なんてこった!」と苦苦しく呟いた。
「ひとくちに魔界と言っても、次元世界はたくさんあるし、その間を隔てる境海は広大すぎる。手掛かり無しじゃ、どの世界の『国』か、探すだけでも一苦労だぞ」
事件の大変さが理解できるだけに、顔をしかめている。
「それだけでも記者達にバレずに済んで良かった。マスター、ここの常連の後始末は頼みます。わたしはシャーキスを連れて局に行ってきます」
リリィーナはシャーキスを左の小脇に抱えて外に出た。