Lost the Key III
少々長いですが、最後まで読んでいただけたら、それだけで嬉しいです。
なんでもないような日常が変わるのは、人が恋する時だと思う。それは自分だけの考えかもしれないけど、そう思ってやまないんだ。だって、そうじゃない。好きな人がいて、目があったり、話したりするだけで、なんかウキウキしてくる。女子高生見たいかもしれないけど、それっていい事だと思う。平凡な日常が、一気にバラ色に変わるんだから。
「せんぱぁい。お先でぇす」
「え、あ、うん。また明日ヨロシク」
妙に間延びする話し方、でも、それが何となく癒される。私のやさぐれた汚い心を、洗ってくれるようで。
「城島くんは、まだ帰らないのかね?」
「まだ仕事が残ってるんで」
「そうか、じゃあ、私も先に失礼するよ」
「お疲れ様です」
何気ない上司との会話も、なんだか楽しくなったりする。パソコンの画面に映った自分の顔が、明らかににやけているのに気付いてドキッとしたけど、上司はそれに気付いていたのだろうか。それは、ちょっとした謎のまま、今日という一日を、私は平凡に終わらせようとしていた。
彼が現れなければ。
*
残業も一段落ついて、部屋の電気を消し、会社を出る。ずれ下がったメガネに、埃がついていた気がして、カバンからメガネ拭きを取り出す。その間、あまりにも乏しい視力には、外がきちんと見えていなかった。もちろん、目の前も。
ドンッ
「きゃっ」
誰かにぶつかった衝撃とともに、うっかりメガネを落としてしまう。弱すぎる視力で、視界の悪いこの世界からメガネを探すのは、ちょっと至難の業だった。
「すみませんね、はい、お探し物はこれでしょう」
しゃがみ込んで手探りに探していたメガネを、彼はそっと手において渡してくれた。それをかけて、顔を見上げてみても、誰もいなかった。
でも、立ち上がって前を見直した時に、そこに彼は立っていた。黒いスーツに、黒い革靴。黒いシルクハットを、目深に被っており、顔は下半分しか見えない。手にした黒曜石のようなステッキは、彼の手の上で踊るように揺れていた。
「こ、こんばんは」
「こんばんは」
何で緊張しているのか、自分でも分からなくなって、先に進もうとした足は、動かなかった。余計に戸惑って、視線を泳がせて、顔を赤らめる。顔から湯気が出そうになった頃、静かな言葉が聞えてきた。
「貴女は、城島 恵美さんですよね」
「……そうですけど……」
何で、私の名前を?そう聞こうと思ったのに、言葉は自分を裏切った。
「なら良かった。これでちゃんと渡せます」
「何を?」
「『鍵』です」
思わず聞いてしまった自分に後悔しているうちに、彼はそう答えて、楽しそうに杖で遊ぶ。口元がちょっと上に上がっているから、笑っているのだろうか。私を?
「……あの、鍵って、自転車の鍵ですか?私、どこかに落としましたか?」
「いいえ」
「じゃあ、家の鍵とか?」
「違います」
「じゃ、……ロッカーの鍵とか、会社の鍵とか?」
「それも、違います。私がお渡しする『鍵』は、『記憶の鍵』です」
「記憶?」
あまりにもハッキリとそう言うものだから、ちょっと警戒心を持った。変な事を言っている。誰だって、そう思うに違いない。
「そう警戒なさらずに。私は人を攫ったり、売ったりしませんよ。私はただ、忘れられた『鍵』を元あるべき場所に返すだけです」
「どういう意味か、サッパリ……」
「それもそうでしょう。知っていたのなら、私の出番はありませんから」
そしてまた、少し微笑む。悪い事はしないと言ったけれど、どこまで信用していいものか、サッパリ分からない。それに、さっきからもてあそんでいる杖に仕掛けがあったりしそうで、油断できない。
「そう睨まないでくださいよ。まるで、私が悪役のようだ」
……流石に、そうにしか見えないとは言えないので、黙っておく。
それにしても、不思議な雰囲気の人だ。人見知りする私でも、普通の人よりも硬くならないでいるし、言葉に棘が含まれているとも思わない。ただニッコリして、変な事を言っているだけなのに……。
「すみませんが、時間がないので、私の話を聞いてくれませんか?」
「は、い?」
「有難うございます」
そう言って、軽く握手した。あれ?いつの間にここまで近くに寄ってきたんだろう。うつむいていた顔を上げて、それを聞こうとしたのに、彼は元の近くもなく遠くもない距離に戻って、ただ微笑んでいた。
「私は、貴女の失くした『鍵』を届けに来ました。とはいっても、私が直接貴女にお渡しする事はできないので、その『鍵』は貴女に探してもらう事になります。……ここまで、よろしいですか?」
分からない単語はない。でも、混乱するような事はないので、とりあえず頷いて答える。
「私は『鍵』を見つける事はできますが、触れる事はできません。だからこそ、貴女に探してもらわなければならないのです、大切な記憶の『鍵』を。そして扉を開くのです。見つけた『鍵』を胸に抱いて」
「……。でも、私に忘れた過去があるなんて……」
「分からないからこそ、失われた『鍵』はあるのです」
指先でまわる杖を見ながら、揺らぐ意識の中で、私は何を思っていたのか、サッパリ分からない。
「さあ、探しにいきましょう。失くしたものを」
それが最後に聞いた、彼の声だった。
*
ふと気が付けば、そこは白い世界だった。目がおかしい訳でもなく、雪が積もっている訳でもない。白い紙に、黒い線で描かれた景色があるだけだった。
「……ここ、見た事ある」
恐れずに一歩踏み出してみれば、そこは昔暮らしていた町だった。今は都会に出てきて、滅多に里帰りもしないから忘れていたけれど、この果てしない道を、家並みを薄っすらと覚えている。懐かしい。そんな気がした。
「タイムリミットまでまだ時間はありますが、そうのんびりされては困りますね」
あの男の人の声が、空から降ってくるような気がした。けれど、見上げた白い空に、あの黒い姿はなかった。
「私を探さずに、『鍵』を探してください」
「探せって急に言われても、私……どうしたらいいんですか?」
「自分がここに来て、あなたはこの場所を懐かしいと思ったはずです。それは『心の扉』が、『鍵』と共鳴している証拠です」
「だから?」
「だから、自分の気持ちに正直に、懐かしいと感じる道を歩めばいい。『鍵』がある場所には、必ず色がありますから、分かりやすいですよ」
「その場所に行って、『鍵』を見つけられたら、私は帰れるんですよね?……あの、その、現実……に」
「はい。それでは『鍵』探し頑張ってください」
何故か分からないけれど、彼の口車に乗せられた気はするけれど、私は自分に正直に、一歩足を踏み出した。
懐かしい。懐かしい。懐かしい。今はそれしか私の頭に浮かばない。急いだりする事もなく、ただ歩いているだけなのに、景色は思った以上に早く動いていく。まるで、世界が進化していくかのように。
そんな摩訶不思議な世界の中を歩いていくうちに、彼が言っていた通りの場所に出た。今まで黒と白だけだったはずの世界が、色を取り戻し、華やかさを持っていた。
「……ここって」
記憶にはないけれど、とても懐かしい、そんな感じがした。平屋の一戸建ては古いのに、堂々と建っていて、長年を過ごしてきたとは思えないほどに生き生きして見える。
けれど、この場所にはそれだけで、鍵なんて見当たらなかった。
「……中にあるのかな?」
靴を脱ぐかどうかに迷い、結果、靴を脱いで中に上がる。日本人として、靴で家に上がるのは、流石に抵抗があったから。
暖かさが伝わってきそうな気の床はよくすべり、裸足で歩きたいと思った。昔ながらのつくりの家は、狭くもなく、広くもない。ちょうどいい。その言葉がしっくり来る家だった。
そんな家の中を散々歩き回ってから、本来の目的を思い出し、鍵を探す。台所にも、縁際にも、和室にもなかった。そして、最後のふすまを開けた時、一番広い部屋の中心。大きな木製の机の上に、不思議な形をした鍵を見つけた。花を連ねたような模様で、明らかに普段の生活で使うような鍵じゃない。クエスチョンマークに似た形をし、不思議な事に、ほのかな輝きを放っていた。さらに不思議な事は、それが宙に浮いていて、何かを待つかのように回転している事。そのおかげで、光の残像がハートの形に見えた。
「……これが、『鍵』……」
手にとって見るのが恐ろしくて、指先で少し触れてみた。指が触れた瞬間に壊れてしまうかと思ったけれど、指が当たってもその場に鍵は存在し続け、ほのかな光を放ち続けていた。私の指に、ほのかな暖かさを譲って。
勇気を出して、鍵をつまみあげてみる。緊張して強張る手をほぐすかのように、優しく鍵は手を温める。ほのかな輝きもそのままに、美しさを保ち続けるその鍵を、そっと、そっと胸に抱いてみる。気が安らいで、瞳を閉じる。じんわりと伝わってくるほのかな暖かさとともに、あの声が聞こえた。
「さあ、思い出してください。貴女の大切な記憶を」
*
ゆっくりと瞼を開いた時、周りの景色は変わっていなかった。だが、増えたものがある。人が、この世界に、この家に存在していた。声もなく立ち竦む自分に気付いているのかいないのか、家の住人はほのぼのとした日常を過ごし、思い思いの事をしていた。庭では老人が盆栽の手入れをし、少しだけ開いたふすまの先から台所に立つ女の人の姿も見える。そして、木製の机の上に野って寝っ転がっている一人の少女。その少女に、見覚えがあった。
「ただいま」
玄関の方から、のんびりとした口調の優しい声が聞こえてくる。その声が聞こえた途端に、少女は跳ね起き、私を通り抜けて、玄関へ駆けて行った。
「な、なな」
訳が分からないまま立ち竦んで、少女が通り抜けた自分の体を触る。通り抜けない。普通に私は存在している。そのはずなのに、何故、彼女は通り抜けて行ったんだろう。
「ねぇねぇ、おばあちゃん。一緒に遊ぼうよ」
甲高い、少女の声が聞こえる。……この声って、私の声じゃ……。
「はいはい、全く元気だねぇ、恵美は」
恵美。確かに私の名前を言った。ふすまを開けて、少女が現れるまで固まったままの私を、また彼女は通り抜け、そしておばあさんも通り抜ける。気味が悪くなって、距離を置いた。
「今日はね、学校でね―――」
楽しそうにしゃべりだす少女。いや、私か。
「そうだったの」
おっとりとした笑顔を浮かべて、おばあさんはゆっくり頷きながら、ちゃんと小さな私の話に耳を傾ける。一言も取りこぼさないように、そうしているように見えた。
「でね、私、正直にそれはいけないって言ったのに、その子達ったら、いけなくないって言うんだよ。んでね、正直に言った私を逆に攻めるの。酷いでしょ」
口をへの字に曲げて、ちょっと悔しそうに語気を強める。
「おやおや、正直に言った恵美が悪者かい?」
「そうそう、そうなの!」
「それは、嫌だねぇ」
それまで黙って聞いていたおばあさんは、悲しそうな表情になって、まだ口がへの字になっている小さな私の頭を撫でた。そこで思い出した、このおばあさんは、一昨年亡くなった祖母だと。
「だからね、メグね、もう、正直に言うのやめるんだ」
「どうして?」
「だって、正直に思った事言うと、みんな嫌うんだもん」
「だからって、嘘もついちゃいけないでしょ?」
「うん。だから、おばあちゃんに相談!」
「なぁに?」
「正直に言いたい事言って、本当にいいのかな?嘘つくより、そっちの方がいいのかな?」
「ん〜」
優しい目を向けたまま、祖母は少し考えて、こう言った。
「両方とも、大事だねぇ」
「りょーほう?そんなの、卑怯だよ」
「じゃあ、恵美は一つ選べるかい?」
「正直か、嘘か?」
「そう」
「う〜ん……」
体を斜めにして、少しの間悩む。眉間に皺の寄った私の顔を見て、祖母は少しだけ笑っていた。その笑顔が、まだ生きている時の祖母を思い出させて、ちょっと心が痛かった。
「無理、かも」
「そうでしょ?人は、全部正直なままじゃ、生きていけないの。偽善者だって、そういわれちゃうからね。だからと言って、嘘ばっかりでもいけないの。やがてその嘘が崩れた時に、本当に頼れる人がいなくなっちゃうからね」
「じゃあ、どうすればいいのかな?」
「自分の気持ちに、正直にいればいいんだよ」
「でもそれじゃ、嫌われる」
「そう、だからこそ、自分に正直にならなきゃいけない。嘘をついた事を、責める自分の気持ちがなくちゃいけない。正直に言った事を、誇れる自分の気持ちがなくちゃいけない。それを、その気持ちを上手に使って、私達は生きていく事しか出来ないんだ」
「どうして?」
「人は不完全で、不器用だからね。全てが正直であれば、争いは起きないかもしれないけれど、正直に言いすぎれば人の心は傷つくものよ。全てが偽りであれば、戦争だってなんだって簡単にできてしまう。相手を騙すことが一番の力になるからね。でも、今まで言っていた事が嘘だったと知った時、周りの人は大きく傷つく。もちろん、自分だって傷つく。今まで信頼していた人達が、大切な人達が、自分から離れて行ってしまうからね」
「うん」
「だから、正直と、嘘を上手く使って私達は生きるの。絶対に伝えたい気持ち、そうね、例えば……恋する気持ち、悲しい気持ち、楽しい気持ち。そういう事は、はっきり言ってもいいのよ」
「相手が傷つかないから?」
「そう。だけど、怒りとか、恨みとか、嫌いだって言う気持ちは、嘘をつかなくちゃいけない」
「相手が傷ついちゃうから?」
「それだけじゃなくて、言った後の自分も辛いから。人は、後悔するものだから、絶対に言った事、やってしまった事を後悔するの。ああ、あの時こうしていなければ良かったって」
「じゃあ、何のための嘘?」
「自分と相手の気持ちを護るための、嘘」
「自分と、相手の気持ちを護るための……嘘」
小さな頃の私と一緒に、思わず呟いた。穏やかな祖母の笑みが、冷たく冷えた私の心を解きほぐし、暖める。
「そう、相手の事を考えれば、きっと自分の事にもなる。そうおばあちゃんは思ってるの。だから、恵美はそんな相手の事を考えた正直と嘘がつける人になって欲しいな」
「なれるかな?」
「この世界は自分だけが全てだと、思った事がない?」
「ないよ。みんなの世界だから。みんながいて、嫌な想いとか、嬉しい想いとかする世界だから、みんなの世界だよ」
「なら、きっと大丈夫だよ。恵美は」
皺でよれた手が、小さな私の頭に置かれる。その手が今の私の頭にも在るようで、なんだか少しだけ照れくさかった。
「人は、人と支えあわないと生きていけない。だから、上手い人との繋がり方、出来るといいね、恵美」
「うん!」
明るい昔の自分の笑顔を見て、罪悪感が胸に込み上げてきた。都会に出てきてから、私は人のために真実を、人のために偽りを言っただろうか?人のためを考えて、考え抜いて発言していただろうか。きっと、いや、絶対にしていない。周りの目だけを気にして、自分を護るためだけに言葉を使っていた。突き放される事、置いて行かれる事、嫌われる事を嫌って。
今、この祖母の言葉を聞いて思い出した。大切なのは、自分と相手の気持ち。どんな言葉でも、小さな励ましの言葉が、相手にとっては大きな意味になる。どんな言葉でも、小さな皮肉の言葉が、相手にとっては大きな傷となる。それを、今更になって、やっと思い出した。
何故、何故今まで思い出せなかったのだろう。こんなにも大切な祖母の言葉を、何故忘れてしまっていたのだろう。込み上げる後悔の念と、罪悪感とが胸の中でせめぎあい、今ここにある自分というとても汚い人間が嫌いになる。あまりの恥ずかしさに、顔から湯気が出てきそうだった。
「人の言葉とは、とても尊いものであり、脆いものなのです」
どこからか、あの男の人の声がする。彷徨う視界に、黒い影がかすった。その方向を見やると、白い世界が揺らぎ始め、祖母達も泡のように消えていく。
「忘れたいと想う言葉だからこそ、耳に残ってしまって。大切な言葉だからこそ、埋もれていってしまう。汚い言葉の山に潰されてね」
「……一理あるかもしれませんね」
「その言葉にだって、嘘も真実が含まれる。まあ、とらえ方は人それぞれですから、他人がとやかく言う事ではないのですがね」
「そうかも、しれません」
「では、還りましょう。あなたのいるべき世界に―――」
胸にあった『鍵』の暖かさを感じながら、ゆっくりと私は瞳をとして、安らかな笑みを浮かべた。
*
あれから、私自身を見直してみた。そうしたら、『変わったね』と、よく言われるようになったけど、中身は臆病なままで、何も変わっていない。そう私は思っている。
人を護るための言葉と、自分を保護するための言葉。まだまだ未熟で考えが浅いからハッキリした事は言えないけれど、その言葉達は、きちんと私の中にある気がする。あの『鍵』と共に。
「せんぱぁい、お先でぇす」
「……ちょっと、待てくれるかな」
「なんですか?あ、ひょっとして、何か間違えてましたか、俺?」
「ん〜ん、ちょっと、違うの。時間、あるよね?」
「ありますけど?」
「話があるからさ、ちょっと、ついてきてくれる?」
勇気を持って、大切な言葉は伝えよう。その勇気が、今の私にはある気がするから。
最後まで読んでくださり、誠に有難うございました。