深川たそがれ河岸
深川たそがれ河岸
沖田 秀仁
別に急いでいたわけではない。
歩き慣れない下駄を履いていたわけでもない。
しかも昼下がりの勝手知った油堀西横川に沿った河岸道だ。
心地良い下駄の歯音を刻んで歩いていたが「あっ」と悲鳴を上げるまでもなく体が大きく泳いだ。左足が不意に滑って股裂きになるかと一瞬目の前が真っ暗になった。足を踏ん張ろうにも更にズズッと前へ流れて黄八丈の裾が肌蹴けた。このままでは両足を上にして尻餅をつき、天下の往来で赤い蹴出ばかりかその奥までも人目に曝すかと恐怖した。
満身の力を両脚に籠めて踏ん張り、両手を地面に突いただけでどうにかひっくり返らずに済んだ。人前でみっともなく尻餅を搗かなかったのは幸いだったが、踏ん張った拍子にお気に入りの薄紅の鼻緒が切れてしまった。足に馴染んで履き心地の良い加減に緩んだ鼻緒だったのにと恨めしそうに駒下駄を見た。
片手をついたまま眉根を寄せて下駄を拾うと辺りを見回した。なぜ足が滑ったのかと眼差しを険しくするまでもなく、転がっている箸のような小枝が目に入った。そこは掘割に面した加賀町の河岸道、片側町の表店の並ぶ中ほどの塩や煙草を商う『的屋』の前だ。今朝のこと殺されたお駒の長屋の佐平店はこの店の裏手に建っていた。
今朝は落ちてなかったはずだが、とお春は木切れを手にして立ち上がった。まだ桜の花便りの来ない春浅い昼過ぎの光で木切れを見た。小指ほどの径で長さ五寸ばかりの小枝でびっしりとついている芽は小さく固いままだ。一目でそれは堀割の岸に茂っているネコヤナギの小枝を折ったものだと分かったが、ささがき牛蒡のように削がれて尖った端から推測するまでもなく人の手で削られたもののようだ。
朝には転がってなかったはずだが、とお春は再び小首を傾げかけた。が、今はそうした思案はさて置いて鼻緒を何とかしなければならない。片足でケンケン飛びにすぐ傍の土手階段脇へ行き、背に負っていた荷を下ろすために置かれている荷卸し石に腰を下ろした。
こんな時に黄表紙本ではどこからか色男が現れて、懐から取り出した真新しい手拭を惜しげもなく「ピッ」と糸切歯で裂いて器用に挿げ替えてくれるものだ。お春は思わず顔を赤らめたが、期待を裏切ってお春の目の前に現れたのは斜向かいの煮売屋で店番をしている腰の曲がった老婆だった。
「脇見をしながら歩いているから、犬も歩けば棒に躓いちまうのさ」
と憎まれ口を叩きながらやって来ると、懐から襤褸手拭を取り出し手で造作なく裂いた。
「嘉平ンとこの娘だな。さっき若親分が下っ引を連れてそこの長屋の三尺路地へ入ったが、まだお駒の件はケリがついていないのか」
お春の隣に座って鼻緒を挿げ替えながら、老婆は興味深そうに聞いた。
お春の父親は嘉平といって界隈の岡っ引を長年勤めていた。不惑を前に突如として色香に迷い、自分の齢の半分ほどしかない界隈の小町と評判だった小間物屋の末娘に惚れ込んだ。もちろん娘の父親とそれほど年が離れているわけでもなく、一悶着も二悶着もあった挙句に晴れて所帯を持つことができた。そして四年前、還暦を迎えたのを機に縄張りを倅の嘉吉に譲って隠居した。嘉吉とお春は嘉平が遅くにもうけた兄妹だった。
「御用のことは知らないけど、ただお駒さんがわっちの幼馴染のお姉さんだったから」
と言い淀んで、お春は老婆を見た。
ケリがついていないとはどういうことなのだろうか、と怪訝そうに眉根を寄せた。やはりお軽の言っていたことは本当なのだろうか、と幼馴染の言葉を思い返した。
御用では自害ということで決着がつきそうだ、と昼餉に戻った嘉吉が父に話していた。
だが井戸端で昼餉で使った瀬戸物を洗っていると、裏路地一筋隔てた隣町から半町ばかりの道のりを松村町へお軽がやって来て井戸端のお春を見つけて、
「姉は一年半前に家を出て惚れあった火消人足と暮らしていたの」と泣きながら言った。
――これから祝言も挙げると言っていたのに金輪際自害するはずがない、と訴えたのだ。
お春は五歳年上のお軽の姉を知っていた。まだ手習指南所へ通い始めた当初、裏筋の隣町からお軽の手を引いて行燈建の家の前までやって来ると、待ち合わせていたお春に「お願いね」と妹を頼んだ。お春が頷くとお駒は微笑んで二人が町内の手習指南所へ行くのを見送ってから、三味線の入った箱を小脇に抱えて門前仲町の師匠の家へ稽古に行くのを日課にしていた。
今にして思えば当時のお駒は今のお春よりも二歳ほど年下だったことになる。十五にして手習指南所へ通い始めた小娘にさえ色香を感じさせたお駒の大人びた風情は生まれついてのものだったのだろうか。「がさつでいけねえ」と家でしょっちゅういわれているお春にはうらやましい限りだった。
そのお駒もかれこれ二十と二、三の大年増になっていたはずだ、とお春は感慨に耽った。誰しもが一年に一歳ずつ齢を取る。妙齢の娘もいつしか年増女となるのが世の常だ。
昼下がりの油堀西横川に江戸湾から遡上する上げ潮に乗って荷船が入って来た。深川の町は潮の満ち引きによって町中の潮の匂いも満ち退きした。十間ばかりと狭い大島川から満ち潮に乗って江戸湾から深川へ入り、南北に走る油堀西横河を通って東西に走る大運河の油堀に出て木場へ材木を運ぶのだろう。船頭の操る棹先から水滴が花のように掘割に広がった。それを汐にお春は挿げ替えてもらった駒下駄を足元に置いた。
「若いってことは道に迷うってことさ。それは男と女を問わないが、バカな世迷い男は始末に負えないからね。浮気男は自分が惚れた女も浮気女だと疑うものなのさ」
と老婆は言って、乱杭歯を見せてニッと笑った。
お春は挿げ替えてもらった鼻緒の礼を言って、駒下駄に足を載せると荷卸し石から立ち上がった。長屋へ嘉吉が行っているのなら願ってもない機会だ。お軽はお駒が自害するはずはないといっていたし、煮売屋の老婆の言い方ではお駒の惚れた火消人足は迷い男のようだ。それがどういう意味なのか判然としないが嘉吉に聞けば解るに違いない。
それにしても「なぜだろうか」と、お春は片側町の表店を見渡した。
どこかが違っていた。街角の煮売屋への行き帰りにいつも通る河岸道だ。今朝のこと通りの中ほど、表店の間の三尺路地を入った棟割長屋にお駒の家へ行ったばかりだった。
『的屋』を店番をしている親父は藪七という香具師あがりの男だ。齢は六十に近く枯れ木のように痩せ細っているが、かつては所の奉納相撲で三役を張ったほどの力自慢だったという。香具師をやっていた名残りか店の前はいつも舐めたようにきれいに掃き清められていた。前を通る者が塵でも落とせば店から飛び出て怒鳴りつけた。
香具師は常設の寺社門前の地割を除くと、祭礼などの人出を見込み路傍の人様の家の前を三尺二間ほどを拝借して商売をした。そこを汚して素知らぬ顔をすればただでは済まないという習い性が身についているようだ。
小枝を右手に持ったまま、お春は佐平店の三尺路地へ入った。朝に来た時には三尺路地に町方役人がいて、兄の後について入ろうとしたお春は止められた。今は誰に憚る必要もないはずだが、お春はそっと足音を忍ばせて三尺路地を抜けて長屋の六尺路地へ入った。
およそ三十年に一度、江戸は大火に見舞われているため朽ち果てた長屋は少ない。お駒の家も木の香新しいというほどでもないが、障子などの建付けはしっかりしていた。
「おう、何しに来た。手に何を持っているンだ」
不意に腰高油障子を開けて、お駒姐さんの家から嘉吉が出てきた。その後ろには間延びした顔の五郎松が立っていた。五郎松は先代から引き続き下っ引を勤めている男で、齢は嘉吉より十二ばかり上の同じ干支の戌だった。
「的屋の前に落ちていたの、兄さんこそ何してるのよ」と、幼馴染の姉の家を覗き込んだ。
名うての辰巳芸者の相仕としてお座敷に上がり三味線を弾いていただけのことはある。垣間見た部屋の中は整然と整えられ、薄紅色の枕屏風で奥の一角が仕切られていた。
「まるで掃除したように綺麗だけど、お駒さんの家は今朝のままなの」と、お春は聞いた。
「何を覗き込んでいやがる。御上の御用に小娘が嘴を挟むものじゃねえ」
両手を広げて大きく立ち塞がり、押し退けるようにして嘉吉はお春の視界を遮った。
「お駒さんは自害したってことのようだけど、どうして」
お春は何度も自問してきた問いを嘉吉にしてみた。
すると怒ったように「小娘が口を挟むなって言っただろうが」と小声で叱った。
「家に鍵が掛かっていたンでさ」と、嘉吉に代わって五郎松がくぐもった声で教えた。
鍵といっても土蔵の扉に仰々しく掛けられている御大層な鉄製の錠前のことではない。桟を落す仕掛けの猿落としに心張棒を支すほどのことだ。たとえ戸締りしても腰高油障子の戸は蹴破れは簡単に押し入られるものだが、それでも鍵が掛かっていたことは中から掛けられても外から掛けるわけにはいかないため誰かが押し入ったのではない証になる。
――もう良いだろう、とお春を押し退けようとする嘉吉に、
「猿落としの桟が落してあったの、それとも心張棒が支ってあったの」
と、お春は食い下がるようにしつこく聞いた。
「心張棒が支ってあったのさ」と、嘉吉はつっけんどんに言ってお春を追い出した。
心張棒が支ってあれば下手人がお駒を殺してから外へ出るわけにはいかない。棟割長屋は名の通り長屋を入妻屋根の棟で真っ二つに割った長屋のことだ。間口九尺に奥行二間の家に窓はなく、腰高油障子だけで外と繋がっているだけなのだ。
お駒は心ノ臓を出刃包丁で一突きにして果てていたと聞かされた。横たわる遺体にはなおも出刃が突き刺さったままだったという。お春にそうしたことを教えてくれたのは嘉吉ではなく幼馴染のお軽だった。姉は「行く行くは次郎吉と所帯を持って三味線を教えて暮らすンだ」と語っていた、と井戸端へやって来たお軽は顔を歪めて涙をこぼした。芸で身を立てようと精進していた姉が自ら命を縮めるだろうか、とその悔し顔が訴えた。幼馴染の無念さに後押しされるかのように、お春は昼下がりの河岸道を長屋へやってきたのだ。
「マツ、詰まらねえことを言うな。まだ自害と決まったわけじゃねえ」
嘉吉は長屋の入り小口で振り返ると、小声で五郎松を叱った。
それをお春の耳は聞き逃さなかった。先を歩いていたお春は三尺路地から長屋の六尺路地に出た所で立ち止まると振り返り「どういうことなの」とキッとした眼差しで聞いた。嘉吉は浅く溜息をついて「お前が詰まらないことを言うから」とでも言いたそうな眼差しで五郎松を睨んだ。
「お駒の家へ腰高油障子を外して一番に踏み込んだのは表の塩屋の親父だ。何でもいやな呻き声を聞いたとか言って、お駒の家の腰高油障子の桟を叩いたが返答がないため、長屋の男たちと一緒になって外したのさ。大勢の男たちが踏み込んでお駒の家が泥だけになったからと、おいらたちが駆けつけた時には隣近所の長屋の女房たちがご丁寧に板の間まで水で流して雑巾で拭き掃除をした後の祭だった。もちろん差配が命じたことだろうが」
と、嘉吉は忌々しそうに言い放った。
長屋の差配は大家ともいわれている。長屋の管理から家賃の取り立てまでを任された者をそう呼んでいた。江戸の長屋は投資の一環として金持ちが長屋を建てて縁者や信用のおける年寄りに管理を委ねるのが通例だった。
佐平店は木場の材木商山縣屋佐平が建てた長屋だ。差配は長く深川佐賀町の米蔵で蔵番人を勤めた男だった。米蔵の番人と比べれば、長屋の差配の方が格段に待遇は良い。そのためなり手はいくらでもいるため、差配は管理者として責任は重いがいつお払い箱になるか分からない弱い立場にあった。家賃の取り立てや長屋の管理が悪いとたちまち解任されかねない。長屋からお縄付を出すのは以ての外だが、殺しや自害があっただけでも長屋の評判に障る。血糊の付いた床や板壁を放っておけば乾いてこびりつき血汚れが取れなくなる。次の借り手を探さなくてはならないため、差配は町方の怒りを買うよりもまずは掃除するようにと長屋の女房たちに命じたのだろう。
しかしそのためお駒が自害して果てたのかそれとも殺されたのか、嘉吉たちが仔細に検分することは出来なくなった。本来なら病死でない限り、町方役人が出張って来るまで何もかもそのままにしておくのが決まりだったのだが。
八丁堀から番太郎に呼ばれて朝靄の中を駆けつけて来た本所改役定廻同心高橋佐内も怒り心頭に発し、差配を目の前に据えて「かくなる上はお主を下手人と定めて差紙でお白州に呼び出すぞ」と、口から泡を飛ばして脅す始末だった。
しかし覆水盆に返らず。きれいに掃除してしまった部屋から何も手掛かりは得られず、一番にお駒の家へ入った藪七とお駒の隣の大工助三郎から様子を聞くしかなかった。
「おう、御用で聞きたいことがある。昨夜何か変わったことはなかったか」
と、嘉吉は隣の障子の桟を叩いた。
大工の助三郎は稼ぎに出掛けていたが、三十過ぎの女房が狸のような顔を出した。
「亭主の次郎吉が呑んだくれの博奕うちで、お駒さんの稼ぎを巻き上げていたっけ」
女房はそう言ってから、「昨夜は」と続けた。
「お駒さん以外の人の気配がしていたがね。隣人の寝息が筒抜けに聞こえる安普請だから息を殺しても夜の気配まで分かるのさ」と言うと、女房は勢い良くケラケラと笑った。
「お駒が門前仲町の料理茶屋を出たのが五ツ半過ぎだから、この加賀町に帰るまで女の足取りでは小半時、辿り着いたのは四ツで木戸が閉まる間際だったはずだが」
嘉吉は冷静な顔つきで、刻限を確かめるように聞いた。
「ああ、そうそう。夜回りの金棒引きが通った直後だから四ツ過ぎだ。ドスンと土壁に体を打ち据える音がして長屋が揺れたよ。こっちの間仕切りに体当たりしたら垂木の骨組みに薄板を貼りつけただけの壁が壊れて、仕切りごとウチへ倒れ込んだだろうけど」
女房は安普請の敷居を見上げて自嘲気味な笑みを浮かべた。
「三味線の胴が破れていたが、掃除する前から三味線が箱から出してあったのか」
嘉吉は枕屏風の陰に胴の破れた三味線が箱の上に置いてあったのを不審に思った。
「どういうわけだか、三味線の猫皮が裂かれていたンだよね。お駒の商売道具だから次郎吉はいくら暴れても三味線までは壊さなかったンだよ。よほど三味線に恨みでもある者の仕業なのかね」
女房はそう言って「これで勘弁して欲しい」と眉尻を下げた。
「言い争う誰かの声を聞いたというのではないンだな」と、嘉吉は重ねて聞いた。
「たとえ夫婦喧嘩をしても、大声で罵り合わないのが長屋住まいの決まりだ。外で浮世の憂さを貯め込んで帰ってきて、その上隣近所の憂さまで誰も聞きたかないンだよ」
大工の女房は十ばかり年下の嘉吉に世間の御宣託を垂れた。
つまり大工の女房の話では夫婦喧嘩の挙句の凶行かと思うが確かな証拠は何もないということだ。そこまで仔細には語っていないが、女房の目顔はそう言っていた。
「うむ、そうか。それで次郎吉は家へ一度は帰って来たのか」
最後の問い掛けだ、というように嘉吉は片足を後ろに引いて立ち止まった。
「ああ、昼前に帰って来たので、お駒が亡くなったことと遺体は鞘番所で改められて蛤町の実家へ帰ったと教えてやったが、ウンともスンとも言わずにまた何処かへ行っちまったよ、飛んだ薄情者さ。奇天烈斎の弟子だったかどうだか知らないが、碌にカラクリ人形の一つとして作らずに飲む打つ買うの三拍子そろった遊び人だよ」
そう返答すると「もう良いだろう」と独りで頷いて、女房はさっさと障子を閉じた。
家では幼い子供たちが派手に兄弟喧嘩を始めていた。
三人連なって三尺路地から河岸道へ出ると、先頭の嘉吉が立ち止まって振り返った。
「マツ、聞いての通り次郎吉から話を聞かないわけにはいかねえ。八幡宮裏の賭場を探ってみてくれ、次郎吉がいねえかと。所在が掴めたら門前仲町の自身番に引っ張っておいてくれ。一緒に暮らしていた女が無残なことになって知らぬ顔では世間が許さねえだろうぜ。懐に匕首を呑んでいるだろうから用心しろよ。おいらは海辺大工町の奇天烈斎の家へ行って聞き込んでみるぜ。お春は家へ帰ってろ」
嘉吉がそう命じると、五郎松はやおら元気を出して小走りに河岸道を下って行った。
「兄さんは奇天烈斎の所へ次郎吉の聞き込みに行くのでしょう」
と、お春は探りを入れた。
「御用に小娘が嘴を挟むンじゃねえと言っただろう」
嘉吉はたちまち怒りを露わにして鶏を追い払うように両手を広げた。
年が離れているため嘉吉とお春が幼いころから喧嘩をした覚えはそれほどない。ことに大人になってからは嘉吉が忙しく町廻りに出掛けるため、喧嘩をする機会すらなかった。一向に帰ろうとしないお春に業を煮やして、嘉吉は「勝手にしろ」と言い捨てて一人で歩き出した。
加賀町から海辺大工町へは油堀を渡って北へ二町ばかり行き、更に深川を東西に走る仙台堀を渡って寺の連なる寺町を抜けて小名木川の辺まで行かなければならない。かれこれ五町ばかりの道のりだ。雪駄を履いている嘉吉はすたすたと歩くが、後をついて行くお春は草履でなく下駄を履いてきたため足が次第に疲れてきた。
嘉吉は後ろをお春がついてきているのを知っていたが無視した。殺されたお駒がお春の幼馴染の姉だと知っていた。そして門前仲町を縄張りとする嘉吉は粋な黒羽織の辰巳芸者と並んで門前仲通りを行くお駒と何度も道で顔を合わせて知っていた。勝気そうで身持ちの良さそうな印象を抱いていたが、次郎吉と暮らしていたとは女というものは思案の外だと首を振った。
海辺大工町は小名木川南岸に細長く貼りついたような町だ。かつては船大工が多く住んでいたというが、埋め立てにより海岸線が南の江戸湾へ遠のき船大工も潮が引くように江戸湾の磯へと越していった。今では陸の大工や建具師たちが多く暮らす町になっていた。
奇天烈斎の家は二間大工長屋の一角にあった。高名なカラクリ師の割には粗末な住まいだった。
「邪魔するぜ、誰かいないか」と、吉蔵が訪うと、
「今は忙しい。後にしてくンな」と若々しい声で返事があった。
奇天烈斎は父親の嘉平とおっつかっつの齢のはずだから家の主人ではなさそうだ。
「御用の筋だ、奇天烈斎は居るか」と、嘉吉は声を張り上げた。
「御用なら最初からそう言えば良いが、邪魔するというから邪魔だと返答したまでだ」
そう言って玄関土間に現れたのは木屑塗れの縞の目も解らないほど着古した着物に襷掛けした三十男だった。
「師匠は所用で上方へ御他行中だ。からくり人形を使った芝居は大坂の発祥だ。おいらは留守を預かる弟子の頓珍斎だが、」
と、痩せた角ばった顔の男は名乗った。
「ここではカラクリ人形を作っているのか」と、嘉吉は奥を覗き込むようにして聞いた。
「作るだけではない、修理もする。いまはさる大名家から預かった茶坊主人形を直しているところだ」
詰まらなさそうにそう言って、頓珍斎は表に立つお春に目を遣って大きく見開いた。
お春は剣呑な眼差しに思わず視線を避けるように嘉吉の背に隠れた。頓珍斎の目顔は「観音様のような女だ」と言っているように見えた。嘉吉は頓珍斎の間抜け面に軽く舌打ちしてから「奇天烈斎の弟子だった次郎吉についてだが、」と声を掛けた。
「次郎吉だと、ああ、二年半ばかり前に破門になったカラリン斎のことか」
と、頓珍斎はこたえて「それで、」と先を促すように頷いた。
「たとえば、次郎吉に家の外から戸の内側に心張棒を支う芸当は出来るだろうか」
と、お春が耳を疑うような問いを嘉吉は頓珍斎に聞いた。
「カラクリといったって人様のやることだ。タネも仕掛けもなければ何もできはしないが、その程度の芸当なら仕掛けさえ作れれば簡単なことよ」
嘉吉に返答しつつも、頓珍斎の視線はお春に釘づけだった。
「だから、次郎吉にそうした芸当が出来るほどの修行を積んだのかと、」
と、嘉吉は重ねて聞いた。
「どんな仕掛けをすれば良いかは次郎吉の工夫次第だが、五年もここで修業したンだ、カラクリの工夫をする知恵は一通り身に付いてるはずだ。ただあの野郎はカラクリをイカサマ博奕に使って師匠の怒りを買ったのさ。手先は人一倍器用なやつだったぜ」
そう言いながら頓珍斎はお春の手にしたネコヤナギの小枝を嘉吉の肩越しに見た。
「元々カラクリは糸で引っ張って動かす『からくる』から転じてできた言葉だといわれている。つまり糸操り人形がカラクリの元祖で、紐を使った仕掛けが本骨頂だ。長屋の板壁の心張棒を支う敷居の辺りに節穴の穴が開けられ、心張棒の端にも紐が通る穴が開いているかを確かめてみることだ。そのネコヤナギの小枝は素人がささがきに削ったのだろうが、たとえ抜いた節を節穴へ戻す際にば削りかすをカマシているはずだ、確かめてみな」
と、嘉吉にとっては名前さながらに頓珍漢な説明を巻くし立てた。
一通りの説明ではなかなか腑に落ちなかったが、詳しく問い直してやっと得心できた。つまり頓珍斎の話はこうだ。心張棒を外から操ることが出来れば良いだけで、そのためには棒の端に穴があけてあることと、棒を支う戸の上辺の位置に棒を引き上げる紐の通る穴が開いていることが肝要だという。そういわれれば安普請の長屋の板壁に節穴が開いていても不思議ではない。心張棒に壁に吊るしておく穴が開けられているのは良くあることだ。そうしたことはまたお駒の家へ行って確かめれば良いだけのことだった。
「なるほど、それほど難しいカラクリって分けじゃねえのか」と、嘉吉は呟いた。
するとそれを聞き咎めたかのように、
「それを言っちゃ身も蓋もないぜ。どんな手妻だって種や仕掛けを知れば「ナアンダ」と気抜けするほどのものだろうよ」と、頓珍斎は大袈裟に落胆して見せた。
確かに、拍車喝采を浴びているカラクリ人形も動く理屈を明かせば気抜けするほどのものなのかもしれない。しかし、それを最初に思いつくがどうかが師匠と呼ばれるほどの一角のカラクリ師になれるかどうかの境目なのだろう。
「詰まらねえことを言ってしまった、勘弁してくれ。この際だから聞いておくが、次郎吉の腕前はカラクリ師としてどの程度のものだったのかい」
と、嘉吉は執拗に頓珍斎に食い下がった。
「次郎吉は五年も年季を積んだ割にはカラクリの思いつきは凡庸だったぜ。素人に毛の生えた程度といった按配だろう。だが心張棒を支うほどのことなら、次郎吉でなくて素人にでもできることだぜ。ただ、そのネコヤナギを削ったのが次郎吉ではないことだけは確かだ。ここに弟子入りすれば仕掛け作りの細工を朝から晩までやらされる。奇天烈斎の弟子として辛抱が出来るか否かは最初の三年で、次郎吉は木片を削って歯車や心棒などの仕掛けを作る細工師の段階は終えていた。細工物の肝心要は芯軸を外さないで削ることさ。そのネコヤナギの削り方は手に取るまでもなく一目で判るが、まるで芯を外している。とてもカラクリ師の修行を五年もやっていた者の細工じゃないってことさ」
素気無くそう言って、頓珍斎は「もう良いだろう」と小さな吐息を漏らした。
奥から休止した作業の再開を待つ弟子たちのざわめきが聞こえてきた。これ以上手間を取っては迷惑というものだ。嘉吉は引き上げる潮時と見て、
「次郎吉の実家はこの近くか」と、最後の問い掛けだというように嘉吉は踵を返す姿勢を取ったまま聞いた。
「ああ、油堀北側河岸に貼りついた材木町の西河岸筋にある刻み小路だ」
とだけこたえると、頓珍斎は奥へ入っていった。
嘉吉は衝撃を覚えた。「なんだって」と言うなり言葉を失った。
お駒と暮らしていた加賀町とは目と鼻の先に次郎吉の生まれ育った実家があったことになる。つまり加賀町の界隈の人たちにとって次郎吉は見知らぬ余所者ではなかったのだ。おそらく佐賀町の米蔵屋敷で働いていた佐平店の差配も次郎吉のことは知っていたのではないだろうか。
嘉吉は自分で自分に頷きながら、海辺大工町へやって来た道を引き返す格好で材木町へ向かった。お春は前を行く嘉吉の後を小走りに追った。
材木町はその名の通り材木を扱って生計を立てる人たちが多く住んでいる。木場の材木商から請負って諸国の山々を巡って石高で買い付ける山師や製材した材木を江戸市中の材木屋へ卸す仲買や柱や木組みなどの刻みを請け負う刻み大工などが暮らしていた。そうした町に生まれ育った男がカラクリ人形師に弟子入りしたのも的外れなことではなかったはずだ。木の香に包まれ細工を施す刻み大工とカラクリ師とは大して変わらないだろう。
材木町へ行くと嘉吉は自身番で次郎吉の家のありかを聞いた。六十年配の町役は身を乗り出すでもなく「家はあるが、次郎吉の身寄りの者は誰もいないよ」と素っ気なく言った。
「文政年間から三代続いた棟梁の家柄だったが、次郎吉の父親が西国の某藩邸の普請を請け負ってしくじったのがケチのつきはじめで、あっという間に身代を失って家族は夜逃げした。次郎吉が大工見習をやめて、カラクリ屋へ弟子入りする半月ほど前のことだ」
頬骨の高い、眼窩の窪んだ翳りがちな顔をさらに暗くして、町役は首を二三度振った。
嘉吉は驚いたように町役を見詰めた。
「次郎吉に二親はいないのか」
「いるにはいるようだが、谷中の親戚に身を寄せた父親は体を壊し床に臥せっていると聞いている。次郎吉の兄もいたが三つの齢に流行り病で亡くなっているし、家を再興する任は次郎吉の肩にかかっているのだがな、博奕にうつつを抜かしていたンじゃ見込みはねえ」
そう言って、町役は肩と肩の間に鶴のように細い首を埋めた。
武家屋敷の普請を請け負うのは大した儲けにならない代わりに何かと困難がつきまとう。藩邸は藩主妻子の暮らす屋敷としての役目だけでなく、屋敷そのものに諸藩の体面と格付けに関わる意義すら負わされていた。その普請となると材料の吟味だけでなく意匠を凝らした造りでなければならず、大工としては晴れの舞台であると同時に危険な罠でもあった。武家といかに付き合うかは江戸町人が最も心を砕くところだった。
「武家屋敷の普請でしくじって家族は夜逃げしたのか」
と、嘉吉も力なく呟いた。
しかしお春は嘉吉に「それでどうするのさ、次郎吉の家へ行ってみないのかい」と自身番の外から問うた。振り返った嘉吉にお春の顔は家が没落して家族が散り散りになったことと、お駒の殺害との間にどんな関係があるというのか、と糺しているようだった。
「家へ行ったところで、何にもなりはしないさ。普請を請け負った西国の某藩と悶着を起こして代金が貰えず、木場の材木商に抵当のカタとして家屋敷を取られたが、何処をどうなったか得体の知れない連中が入り込んで、今では界隈の香具師の元締めが住んでいるようだと小耳に挟んでいるがね。さて、どうなることやら」
と、町役に代わって自身番一の古株の書役がこたえた。
「この界隈の香具師の元締めだと」と、嘉吉が眉間に皺を寄せた。
「入り込んでいるってことは沽券の名義人はまだ変わっていないということなのか」
詰問するというのではないが、嘉吉は書役の言葉の意味を糺した。
「元締めが次郎吉に博奕のカネを融通したとかいって家に入り込んでいるが、沽券は材木商木曾屋が持っていなさる。木曾屋の旦那は三代に亙る取引の縁から滞った材木代金の穴埋めに家を売り払うことをせず持っているということでさ。ゆくゆくは跡取りの次郎吉に渡すつもりのようだが、当の本人が博奕三昧では覚束ないだろうよ」
独り言を呟くように、書役は言った。
嘉吉は自身番を出ると足を門前仲町へ向けた。五郎松に命じてから一刻余りが経っている。余程の不手際がない限り、既に次郎吉を自身番に引っ張っているはずだ。
春の日差しも大きく傾き、昼下がりから夕暮れへと時が移っていた。八丁堀の旦那もそろそろ町廻りから引き上げる途次に門前仲町の自身番に顔を見せる頃だった。
「おいらは御用の筋で門前仲町の自身番へ行くぜ。お前は家へ帰ってろ」
嘉吉は後ろを振り返って怒ったように言った。
「いやなこった。わっちは誰がお駒さんを殺したのか、下手人を幼馴染に代わって突き止めなければならないのさ」
お春は勝気そうな眼差しに力を込めて嘉吉を睨み返した。
「御用は小娘のお前が首を突っ込んではならねえ。そうしたことも料簡できないのか」
そう言い捨てると、嘉吉は後ろを見向きもせずに河岸道をさっさと歩きだした。
お春は立ち止まっていたが、嘉吉の後ろ姿が街角の曲りに消える前に歩き始めた。
材木町から門前仲町へ行くには油堀沿いに河岸道を東へとり平野町で橋を渡って黒江町へ入り山本町裾継の一間もある高い板塀沿いに門前仲町へ向かうことになる。そうした道筋を思い浮かべてお春は加賀町へ足を向けた。女として岡場所を囲む板塀の周りの路地を歩くのは嫌だった。まだ宵の口には間があって遊客に冷やかされることはないにしろ、とにかく岡場所の一角に近づくのさえ嫌だった。
かといって油堀を豊海橋で渡って加賀町へ回るのもぞっとしない。掘割を挟んだ加賀町の向かいが伊沢町で、お春の家のある松村町とは隣町だ。この界隈を歩いていて家の者にでも見つかると「年頃の娘が一人で町を歩き回って、」と頭から叱られそうだった。
とにかくお春は加賀町の河岸から緑橋を渡って伊沢町へ入り、そのまま松村町の家の前を通った。幸いにも誰からも声を掛けられなかったが、ほっとして冬中橋を渡って黒江町へ入った途端に表店の中から「おい、お春じゃねえか」と呼びかける声がした。聞き覚えのある父親の声にはっとして荒物屋の中を覗くと、奥の帳場格子の中で店の隠居甚右衛門を相手に父親が将棋を指していた。
「店番が将棋を指していたンじゃ、店先の箒を持ち逃げされても分からないだろうよ」
と、お春は軽口を叩いた。
「馬鹿野郎、目は将棋盤を睨んでいても、耳は路地の足音をしっかりと聞いてら。それが証拠にお前だとすぐに分かっただろうぜ」
そう言って嘉平はニヤリと笑ってから、
「ところでお駒の一件はどうなった。嘉吉は何か新しい手掛かりでも得たかい」
と、お春が嘉吉の後をついて廻っていることを知っているかのように聞いた。
自分のことはすべてお見透しかと、お春は浅く溜息をついた。所詮元岡っ引の詮索から逃れられないと覚悟を決めて、お春は店土間の三和土に足を入れた。
転んだことを端折ってネコヤナギの小枝を拾ったことから隣の大工の女房から聞いたあらましからカラクリ師の家へ行ったこと、更には材木町の自身番で聞き込んだ次郎吉の生家の没落までを掻い摘んで話した。余計な口も利かずじっと聞き入っていた嘉平はお春の話が終わると、
「頓珍斎は一目見るなり次郎吉が削ったものじゃねえと、そう言ったンだな」と聞いた。
「カラクリ師の修業は木工細工からだと。そのために木を削って歯車を作ったり細かい軸受を作ったりするが、木を削るときはなにはともあれ芯を外してはならないと」
そう言って、お春は手にしていたネコヤナギの小枝を父親に見せた。
「ふむ、それに躓いてお春は河岸道に転んだのか」と呟きながら、嘉平は目を近づけた。
「えっ、わっちが転んだのを見てたのかい」
――まさか、と思いつつお春は聞いた。
「儂は千里眼じゃねえ。ただ鼻緒を挿げ替えてるってことは転んだってことさ」
そう応えて、嘉平は考え込んだ。
「それで、元岡っ引は誰が下手人だと思うのさ」
お春は考え込んだ嘉平を揶揄するように八丁堀の旦那の声色で聞いた。
「そうだな、誰なのかな。お前が転んだのは藪七の『的屋』の前なんだな。そうすると次郎吉は船に乗って賭場と家とを往復したって寸法か」
と呟くと、またしても考え込んだ。
「だから次郎吉が下手人でなければ往復する必要はないじゃないか」
と言ってから、お春は「あっ」と声を上げた。
「的屋は元香具師の藪七の店だ。いつもきれいに掃除の行き届いている店先にネコヤナギの小枝が転がっていて変だな、とあの時にフト思ったのさ」
と息せき切ったように話してから「どうして」と考え込んだ。
「昼下がりに佐賀町へ行くと、角の煮売屋の店番のお婆さんが「お駒の件は自害でケリがついたのか」って聞いてきたンだ。店の客の誰かがそうだと話したってことだろうか」
お春は思案深そうに腕を組んだ。
「年頃の娘が岡っ引の真似をするンじゃない。十七にもなって色気も何もありゃしねえや」
嘉平は軽い舌打ちに続いて、首を振ってお春を睨んだ。
「何言ってンだい。一人の女の無念を晴らすには男も女もないンだよ」
ポンポンと言って、お春は嘉平の顔を覗き込んだ。
「老い耄れてるが年季の入った杵柄だ、元岡っ引は誰が下手人だと思っているのさ」
懇願するようなお春の口吻に、嘉平は相好を崩した。
「儂は十手を返上したから岡っ引じゃねえが、お春のいう昔取った杵柄からいえばお駒の部屋を水で洗い流し拭き掃除までやらかした野郎が怪しいぜ」
「それじゃ、佐平店の差配が下手人かい」と、お春は挑発するように問い掛けた。
しかし嘉平は挑発に乗らず、「フン」と鼻先で笑った。
「馬鹿野郎、差配は踊らされたクチだ。近くに口先三寸でバカな差配を踊らせた野郎がいるってことよ」
それだけ言うと嘉平は興味を失ったかのように将棋盤に視線を落とした。
お春は父親が何を言ったのか、ネコヤナギの小枝を手にしばらく思案していたが、ハタと手を打った。なるほどそうなのか。それですべてがストンと腑に落ちた。すると今度は嘉吉が自身番で八丁堀の旦那に何を話しているか不安になった。
「そうしたことが分かっているのなら、門前仲町の自身番にいる倅に教えないで良いのかい。今頃嘉吉は八丁堀の旦那に探索の仔細を聞かれていると思うンだけどね」
嘉平の態度にじれったそうにお春は身を捩ったが、嘉平は二度と視線を上げなかった。
「嘉吉は岡っ引として能無しじゃないが、お春がそこまで心配するのなら、門前仲町へご注進に行ったら良いだろうぜ。だがくれぐれも御用の筋に土瓶口を挟むなよ」
と、嘉平は自陣に入り込んだ成金を見詰めたまま静かに言った。
土瓶口とは「横についている」ことから、横から余計な口を挟むなという意味だ。
「ああ、ちょいとだけ様子を窺いに行ってくらあ」と、お春は砕けた物言いで返事をした。
お春が駒下駄を鳴らして路地を小走りに行くと、嘉平はやおら顔を上げた。
「甚右衛門さん、この勝負はお預けだ。儂は急な用事を思い出した」
そう言うと、二畳ほどの狭い帳場の端までにじり行き雪駄に足を下した。
「父親にとってはいつまで経っても倅は子供だからね、親分と呼ばれる十手持ちになっても気になるのは仕方ないやね」
清兵衛は歯のない口でもごもごと言ってから、嘉平に向かってニヤッと笑った。
門前仲町の自身番では土間に据えられた次郎吉が不貞腐れていた。
「おいらが何をやったってンだ。色のお駒は殺されたが、おいらが殺ったンじゃねえ。この世の中でカネ蔓を殺すバカがどこにいるってンだ」
不摂生な暮らしと寝不足からか、次郎吉の顔は二十代の半ばとは思えないほど顔色が悪く頬が削げ目が落ち窪んでいた。
「八幡裏の賭場に出入りしているお前の博奕仲間から聞いたところによると、昨夜四ツ前から一刻余り、賭場から外へ出ていたというじゃねえか。その刻限に何処へいたのか身の証を立てる者はいねえのか」
次郎吉の傍に立つ嘉吉が見下ろして聞いた。
「だからお前の下っ引に話したはずだぜ。おいらが何かと厄介になっている元締の権十郎さんが呼んでいなさるというから洲崎の磯島楼の前まで行ったンだよ」
顔を捩じ上げ首に血筋を浮かべて、次郎吉は吐き捨てた。
「残念だが、賭場にいた連中でお前に権十郎の言伝を伝えたという者を誰も知らねえし、お前が洲崎に出掛けていたという証を申し立てる者もいねえときている」
嘉吉は重ねて次郎吉に怒声を浴びせた。
すると次郎吉は自棄になったかのように目の前の高橋佐内に「八丁堀の乾分にはこんな節穴の岡っ引しかいねえのか、町奉行所同心が聞いて呆れるぜ」と毒づいた。
それまで田舎芝居でも見物するかのように、上り框に腰を下ろしたままおっとりとして聞いていた高橋佐内は八丁堀定廻同心の立場を貶されては黙っているわけにはいかない、とばかりに背筋を伸ばし肩で息をするかのようにて丹田臍下に力を込めた。
「黙れ、お前の日頃の所業はお見通しだぜ。御上に不埒な言辞を弄すると承知しねえぞ」と、高橋佐内は大声で叱り飛ばした。
嘉平に十手を授けた先代は隠居して、佐内が二十七にしてやっと見習から本所改役になってまだ三年ばかりしかたっていない。元気な父親を持ったがために見習から昇進が遅れ、同期の同心と比べれば随分と老けている。しかしそのため自然と威厳も備わり、吟味する威圧感は十年来の同心にひけを取らなかった。
「岡っ引嘉吉によりあらましお前の調べはついている。順序が後先になったが、鞘番所へ送る前にお駒殺しについて佐賀町の長屋でこれから検証する」
大声でそう言うなり、高橋佐内は手先に向かって顎をしゃくった。
すると二人の手先が土間に畏まっている次郎吉に飛びつき、後ろ小手に縛り上げた。次郎吉は「何をするんだ」と叫んで暴れようとしたが、たちまち関節技を決められ手先によって三和土に捻じ伏せられた。
高橋佐内が自身番の腰高油障子を引き開けると、山のように集っていた野次馬がさっと後ずさって道を開けた。お春が門前仲町に辿り着いたのはその時だった。
縛られて引き立てられる次郎吉を目にして「遅かった」と臍を噛んだ。高橋佐内の後に手先二人に取り縄を引き立てられて次郎吉が続き、その後ろに嘉吉と五郎松が続き、町内の番太郎や鳶衆が後ろを固めていた。
「兄さん、ちょいと」と、お春は蒼褪めた顔をして嘉吉を手招きした。
しかし嘉吉は野次馬の中から手を振るお春を無視して歩き去った。どうしたものかと思案したが、先に加賀町へ行くしかないと思い定めるとすぐ後ろの裏路地へ入った。
八丁堀同心は隊列を従えているため幅一尺や三尺の裏路地を進むわけにはいかない。少しばかり遠回りになってもせめて六尺、一間幅の道を行かなければならないため河岸道を取り大回りになる。
お春は嘉吉たちよりも先に加賀町へ行き、八丁堀同心が次郎吉を下手人として鞘番所へ送り込むまでに「次郎吉が下手人ではない」と、まずは嘉吉に教えるつもりだ。間違っても次郎吉を下手人として一旦は鞘番所へ送ってから解き放ちにする事態にでもなれば、高橋佐内の失態は免れない。それはつまり岡っ引嘉吉のしくじりでもあった。
小走りに路地を駆けながらも、お春は頭の中に深川絵図を広げて門前仲町から加賀町へ行く近道をとった。高橋佐内たちが次郎吉を引っ立てていたため、加賀町へ着くのにそれほど急ぎ足で歩くわけにもいかずかなりの時を費やしているようだ。そのためお春が路地から出て河岸道から油堀西横川越しに伊沢町を眺めてまだ一行の姿すら見えなかった。
的屋の軒先に差し掛かると、店に客があるのか男たちの低い話し声が聞こえた。
「門前仲町の自身番へ次郎吉が引っ張られて、八町堀に問い詰められていましたぜ。殺しの手口を検証するために、間もなくお駒の家へ引き立てられて来ますぜ」
と、男は小声で家の主人に報せていた。
お春は話し相手が藪七だと即座に分かったが、そんなことよりもあれほど急いで裏路地の近道を拾って来たつもりが、既に的屋に自身番の様子を報せる者がいることに驚いた。
自身番の中の遣り取りは腰高油障子一枚で表の野次馬たちに筒抜けなのに今更ながら気づかされた。すると嘉吉と棚橋佐内が厳しく次郎吉を取り調べていたのも、お春が案じることではないのかも知れないと微かな安堵が心を過った。
「おう、お春じゃないか」と声がして、嘉平が三尺路地から姿を現した。
「嘉平こそ長屋で何してたのさ。荒物屋で将棋を指していたンじゃなかったのかい」
怒ったようにお春は声を掛けたが、河岸道で父娘が言い争うまでもなく高橋佐内を先頭に捕縄で引き立てられた次郎吉たちが掘割を隔てた伊沢町の河岸道に姿を現した。
「儂が睨んだ通りにやって来たな」嘉平は得心したかのように呟いた。
「なに言ってンのさ。次郎吉は下手人じゃないって、嘉平は言ったじゃないか」
お春は詰るように問い詰めたが、嘉平は加賀町へ緑橋を渡って来る高橋佐内を出迎えるように小走り歩み寄った。高橋佐内は河岸道に足を踏み込んだまま立ち止まると、嘉平の顔を見詰めて「うむ」と頷いた。高橋佐内の父親の代から八丁堀の組屋敷に出入りしていた嘉平とはそれだけで心が通じ合った。
「旦那、お久しゅうございます。お駒殺しを陰で糸を引いているのは香具師の元締権十郎かと。材木町へ配下の者を差し向けて身柄を取り押さえた方がよろしいかと」
と、高橋佐内に耳打ちした。
高橋佐内は黙ったまま手先の一人の小太郎に目顔で合図して、何事もなかったかのように河岸道を長屋へと歩き始めた。ただ合図された手先は番太郎と五、六人の鳶衆を連れて油堀に架かる豊海橋へと向かった。
町方同心は手先を二人従えるのが決まりだった。手先とは代々同心の家の一角で同心とともに寝起きする家来のことだ。武士ではないが同心と共に町奉行所へ出入りするためいつも羽織を着用していた。高橋佐内の手先の一人の名は小太郎だが決して小柄な人物ではない。高橋佐内と同じ年恰好の三十前後で上背は高橋佐内より一二寸ばかり高い五尺と六寸ほどか。男の平均が五尺一寸ほどだから、むしろ大太郎と呼ぶにふさわしい。
高橋佐内は捕方と同行してはどうかと目顔で聞いたが、嘉平は頭をほんの少し振ってここにいる、と目顔で答えた。万が一にも藪七やその仲間が逃げ出さないように、嘉平は的屋から二十間ばかり離れた橋袂に立ち止まったまま河岸道を見張ることにした。
高橋佐内が橋袂に立ち止ったのはほんのわずかな間だった。次郎八たちと捕方を振り返ると、橋袂から離れて直ちに歩き始めた。小太郎たちが別れても町方同心高橋佐内を先頭に総勢七人ばかりの一行だ。目立たないわけがなく捕方の一行が加賀町の河岸道を次郎吉を引き立てて進むと、たちまち物見高い野次馬が何処からともなく集まってきた。片側町の表店を的屋の前まで来ると嘉吉は一人だけ捕方の一行から離れた。
「おう藪七、イの一番にお駒の許へ駆けつけたお前から今朝のことを詳しく知りたい。ちょいと長屋のお駒の家まで来てくれないか。八丁堀の旦那も次郎吉も揃っているぜ」
嘉吉は長屋へ向かう捕方を見送りながら、店先から声を張り上げた。
「やはり、下手人は次郎吉ですかい」と店土間から声がして、藪七が軒下に姿を現した。
「それはお白州の吟味で明らかになるこった。ただお前はお駒がどのようにして死んでいたか、今朝見た通りを教えてくれれば良いだけだ」
そう言うと、嘉吉は店土間にいた二十歳に満たない男にも来るように手招きした。
既に高橋佐内や次郎吉たちは長屋へ三尺路地を入り、遠巻きに野次馬が集まっていた。怪訝そうな顔をしている藪七と若い男の肩を押すようにして、嘉吉たちも三尺路地を入った。するとたちまち野次馬が三尺路地の入り口に集まって犇めき合った。
嘉吉たちの後に続いて三尺路地へ入り損ねたお春は野次馬たちに塞がれた格好となり「通しておくれ」と黄色い声を張り上げなければならなかった。
やっとの思いで長屋の六尺路地へ入ると、お駒の家の入り小口はものものしく鳶衆が取り囲んでいた。それを遠巻きに長屋の者たちが見詰め、息を潜めていた。
時折、家の中から叱責するかのような若々しい高橋佐内の声が聞こえた。
「この壁のヘコミは駒の肩が当たった痕だろう。お駒のおろくを改めた医師によるとおろくのあばら骨が数本折れていたそうだ。首には扼殺とは異なる首を絞めた痕跡が認められたぞ。それは恰も相撲ののど輪のようなもので、下顎の付け根の骨が砕けていたとの由だ。それをなしうるには相当な上背のある者だ、とな」
そう言って問い詰めている相手は藪七なのか。
かつて富ヶ岡八幡宮の奉納相撲で三役を張っていたほどの男だ。齢は取っていても女をのど輪で吊るし上げ、壁に体当たりして気絶させるのは朝飯前だろう。
「つっかえ棒が腰高障子に支してあったのですがね」と、差配が言い訳がましく申し立てたが、「そんなことは、」と、嘉吉が直ちに否定した。
「カラクリ師でなくても解ける仕掛けだ。あの節穴から紐を通して、その紐を心張棒の端の穴にも通して操ったのさ。ただ抜いた節穴を埋め戻すのに薄い木片を必要とした。それも生木の木片だ。それでネコヤナギを削って作ったのさ。そのネコヤナギの枝がお前の店先に落ちていたぜ。お前は次郎吉がカラクリ奇天烈斎の許で修業を積んだことから、次郎吉に罪を被せようとささがけに削ったネコヤナギをそれとらしく船崎場の上り小口に落としていたのだろうが、奇天烈斎の弟子の頓珍斎にネコヤナギを見せたところ、カラクリ師の修業を中途で辞めた次郎吉でもそんなに下手に削らないと言下にいったぜ」
嘉吉の言い聞かせるような説明に、藪七は次第に顔を紅潮させながら板の間に畏まって聞いていたが、ついに我慢ならないという眼差しで「どうして俺がそんなことを仕組む必要があるンだ」と大声を上げた。
八丁堀同心の前で不満を口にした藪七に、その場にいた者は一様に驚いたように顔を見合わせた。一瞬静まり返ったが、高橋佐内のカラカラと笑う声だけがお駒の部屋に響いた。
「そんなことは知らねえよ。お白州で取り調べるだけさ」
そう言いながら、高橋佐内は板の間に畏まる藪七の傍に寄って腰を屈めた。
「係わりのないことだと言い張るつもりだろうが、言い逃れの出来ない不手際をお前は三つばかりしでかしているぜ」
藪七の団扇のように大きい耳元に顔を寄せ、高橋佐内は囁くように言った。
「一つはお駒の一件が自害で片づけられそうになって慌てたことだ。お駒は次郎吉によって殺されたことにならないと、この事件を仕組んだ意味がなくなるってことで焦った。二つ目はお駒の三味線が壊れていたことだ。お駒にとっても次郎吉にとっても三味線は大切な商売道具と稼ぎのタネだ。そして最後にお駒の家になぜかお前がイの一番に駆けつけて部屋を土足で汚して回り、次に大慌てに掃除をしたってことだ。それもご丁寧に板の間に水を流して血を舐めたように拭き取ったことだ」
高橋佐内がそう問い詰めると、藪七は「三味線や掃除のことは、」と口を挟んだ。
「俺の与り知らぬことだ。掃除は差配が店子に命じてさせたことだぜ」
藪七は敵討ちでも果たしたかのように安堵の色を浮かべた。
「いやいや藪さん、それは違うよ」と、土間に佇んでいる差配が声を上げた。
「儂が騒動に気付いてきたときには、板の間は既に水浸しだったンだよ。お駒さんの周りも水浸しで、雑巾掛けするしかなかったンだ」
差配は泣き出しそうなほど眉尻を下げて高橋佐内を見上げた。
差配の言うことが本当だとしたら、藪七は何かを隠そうとしたことになる。「ああ、そうだったのか」と高橋佐内の胸に一つの考えが去来した。
「お駒を殺した当座は早く逃げることと心張棒の仕掛けを作ることに気が行って、自分の大きな血染めの足跡が板の間にやたらと残されているのに気付かなかった。しかし眠れない夜を過ごすうちに足跡が気になりだし、朝早くお駒の家に行って心張棒が支ってあることを長屋の者に知らせるために大声で腰高油障子の桟を叩き、隣の大工に心張棒が支ってあることを確かめさせてから蹴破った。家の中へ入ってみると、そこら中に自分の大草鞋のような足跡がべたべたと残っているのに気付いた。ただ大工はむせ返る血の臭いと血の海に沈んでいるお駒に仰天して、大きな足跡がそこら中にあることまでは気づかなかったようだ。藪七は懸命に草履の泥で消そうとしたが、半ば乾いた血糊は消せるものでもなく、どうにも窮して水甕の水を柄杓で板の間にばら撒いたって寸法だ」
高橋佐内はそう言って、藪七を見下ろした。
「しかし旦那、誰も大きな足跡を見た者はいねえンでさ」と、藪七が高橋佐内を揶揄した。
なるほど若い頃から香具師として苦労した者のことだけはある。八丁堀を前にしても腹が据わっているな、と高橋佐内は感心して頷いた。
「その通りだろうぜ。大きな足跡は寝とぼけた大工がしかと見る前に水をぶちまけて消しちまったからな。しかし問題は支ってあった心張棒よ。上の敷居近くの節穴から紐を操るにはそれ相応の上背が必要だ。六尺近いお前なら難なく出来るが、五尺そこそこの次郎吉なら踏み台がなければできない相談だぜ。その踏み台は何処にあるンだ」
と高橋佐内が問い詰めると、さすがの藪七も顔を蒼くした。
「今度の事件は自害で一件落着では意味のないことだ。どうでもお駒殺しの下手人として次郎吉に獄門台に上がってもらわなければ権十郎に顔が立たねえ、そうだろう」と、高橋佐内は畳み掛けるように藪七に向かって声を張った。
「お駒殺しを次郎吉の仕業に見せかけて、次郎吉を獄門台送りにするようにとお前に持ちかけたのは顔役の権十郎だ。材木町の家屋敷を乗っ取るには次郎吉に死んでもらわなけりゃならねえ、と権十郎に命じられたはずだぜ。そこで折角カラクリ師の仕業に仕組んだつもりが、自害でケリがつきそうになって慌てて自分が削ったネコヤナギの小枝を誰かに見つかるようにと店の前の河岸道に投げ捨てたのさ」
やや強引な推測だったかと高橋佐内は藪七の顔を見たが、藪七はますます顔を蒼くして口を堅く結んだ。
「香具師の仁義として、元締の命ならばどんな無理難題にも応えなければならねえからな」
そう言いさして、高橋佐内は腰を伸ばした。
亀のように依怙地なった藪七から自白を得るのを諦めて、高橋佐内は藪七の傍で小さくなっている若者に「そうじゃねえのか」と聞いた。
おそらくこの若者も香具師だ。門前仲町の屋台を場所割で元締から分けてもらって、なんとか屋台商売で口を糊塗している香具師仲間の一人だろう。
「誰の差金か知らねえが、お前は藪七に門前仲町の自身番の様子を報せていたようだ。内報者も権十郎ともども裁きを受けなけりゃならねえ」
中腰に屈み込みながらそう言うと、膝に添えられていた若者の右手を取って逆手に捩じ上げた。
「おう、藪七とこやつに縄を打て」
そう言うと鳶衆がすぐに動いたが、藪七に飛び掛かった二人の鳶衆は怪力で投げ飛ばされた。藪七は意外なほど身軽に立つと、相撲の立会の要領で大股に板の間から三尺土間を飛び越し、腰高油障子を体当たりで破り出た。
六尺路地にいた長屋の者たちは悲鳴を上げて後退り、お春が前に押し出される格好になった。藪七は何かを思い出すかのように一瞬立ち止まってお春の顔を見て口の端に笑みを浮かべ、熊手のような両手を広げてお春の首へ差し出してきた。その刹那、飛鳥のように家から影が躍り出た。
「往生際の悪い奴だぜ」とべらんめえ口調が藪七の背に浴びせられるや、夕日に白刃が一閃した。抜き打ちに振り下ろした白刃は藪七の首根を峰打ちに捉え、藪七はお春の首に掴み掛かろうと両手を伸ばした姿勢のまま腰砕けのようにくたくたとその場に崩れた。
「お春、大丈夫か」と嘉吉の声がして、お駒の家から飛び出てきた。
「わっちは大丈夫だよ。それよりこれを八丁堀の旦那に」
そう言うと、お春は帯に差していたネコヤナギの小枝を差し出した。
嘉吉から小枝を受け取ると、高橋佐内はしげしげと見ていたが、
「おう次郎吉、この小枝を見てみろ」
お春の手から受け取った小枝を、高橋佐内は家から縄付きで出てきた次郎吉に見せた。
次郎吉は高橋佐内の掌の小枝を見るなり「旦那、カラクリ師は目を瞑っていても芯を外さないように削るものでさ。そうしないと茶汲み坊主でも途中から何処かへ行ってしまいます」と、意外なほど律儀な口吻で答えた。
「お駒殺しの下手人にお前を仕立てようと、藪七がやった小細工だ。ケチなカラクリを用いて内側から心張棒を支って一見したところ自害だが、探索に慣れた者の目ならすぐに見抜けるほどの仕掛けを施しておいた。しかし今朝お駒のおろくを改めたおいらが「自害かも知れぬ」と長屋で漏らしたため、藪七は慌ててさきがけ削りに削った小枝を堀割の船着場から河岸道へ上がった辺りに転がしておいたのだ。それを拾い上げたのが嘉吉の妹お春だったのさ。どうやら、藪七は策を弄し過ぎたようだぜ」
そう言ってから、高橋佐内は次郎吉を見詰めた。
「うむ、一目で素人が削ったものだと見抜くとは大したものだ。しかし、お前も無罪放免とはいかねえ。言うまでもないが博奕はご法度だ。博奕に手を出せば江戸十里四方所払か石川島寄場送りだ。お前は自分の人生の芯は削り損ねたようだが、今からでも遅くはない。罪を償った暁には心を入れ替えてきっちりと芯が通るように修行をやり直すこった」
そう言うと、捕縄を持つ手先に向かって顎をしゃくった。
鳶衆が藪七や次郎吉たちを引き立てると、嘉吉を目顔で呼んだ。
「嘉吉、ちょいと材木町へ行ってみよう。捕方として小太郎に五人ばかり付けたから間違いはねえと思うが、権十郎も元はれっきとした直参旗本の三男坊だ。乱暴狼藉が祟って二十歳を前に勘当されたようだから、やっとうの腕は確かなものだと思わなければならねえだろうぜ。小太郎も手先といっても八丁堀の道場でおいらの相手をして育ったため、剣術はかなりの腕たが、少しばかり気にかかる」
嘉吉にそう言うと顔を上げて「この三人を鞘番所に繋いでおけ」と手先に命じた。
嘉吉の返答を待つまでもなく、高橋佐内は長屋の出入り口へ向かって歩き出した。八丁堀同心然とした黒紋付き着流しに巻き羽織の高橋佐内が三尺路地へ入ると、野次馬たちはさっと道を開けた。両側を焼杉の板壁に囲まれた三尺路地を抜けると、既に赤みを帯び始めた夕日が長々と影を曳いている河岸道に出た。向かった二十間ばかり先の橋袂に嘉平が一人の若者の腕を関節技に決めて捻じ伏せていた。
「嘉平、その男はどうしたい」
十間も先から、高橋佐内は声を張り上げた。
「権十郎の許へ加賀町の顛末をご注進に走ろうとしていたから、こうして取り押さえたって訳でして。旦那、どうしたものですかね」
と、嘉平は間の抜けたような問いを投げ掛けた。
「問われるまでもねえや、縛り上げて鞘番所へ繋いで置け」
そう言うなり、高橋佐内は後ろを振り返って「おい誰か嘉平に手の貸せる野郎はいねえか」と、捕方の助勢に集まった界隈の鳶衆に声をかけた。
さっそく六尺棒を持った二人が嘉平の許へ駆けて行った。そして嘉平が指図するまでもなく男を後ろ高小手に縛り上げた。
実は岡っ引には何の権限もなかった。下手人を縛り上げることも捕縛の権限もなかった。八丁堀同心の指図があってはじめて下手人を縛り上げることができるのだ。だから嘉平は男を捻じ伏せたまま、高橋佐内が来るまで待っていたのだ。
高橋佐内は嘉吉と権十郎の屋敷へ行くが嘉平にどうするかと尋ねた。すると嘉平は「倅に跡目を譲って隠居した身ですぜ」と返答した。いつまでも父親がでしゃばり出ていては嘉吉に肩身の狭い思いをさせることになる。嘉平は捕縛した男たちを鳶衆とともに鞘番所へ引き立てことにした。
高橋佐内と嘉吉は加賀町から対岸の堀川町に架かる豊海橋で油堀を渡った。堀川町の河岸道に立つと、材木町は深川を東西に流れる油堀と並行する仙台堀とを繋ぐ油堀左川の対岸に見えた。権十郎が居座っている屋敷が何処にあるかは野次馬の人だかりから、十数間の左川を挟んですぐに分かった。
「どうやら派手に騒いでいるようだぜ」
そう言うと、高橋佐内は小走りに左川に架かる元木橋を駆けあがった。
息せき切って嘉吉もそれに続いたが、橋の頂まで来ると玄関に集まっていた野次馬たちが河岸道に大きく後ずさりした。どうやら屋敷内の騒動は収まった様子だ。
小走りに高橋佐内と嘉吉が駆けつけると既に権十郎をお縄にした後だった。さすが棟梁の家だっただけあって敷地百坪ほどの土地に意匠を凝らした寄棟の平屋が立っていた。その河岸道に面した西向きの玄関から縄を打たれた権十郎が引き立てられて出てきた。酒に酔っているのか腰の定まらない歩き方をしていた。
「首尾よくお縄にしたか」と、高橋佐内が太鼓橋となっている元木橋の頂から声を掛けた。
「あっ、高橋様。二三人の乾分が家の窓から飛び出て逃げましたが、権十郎と一緒になって酒を呑んでいた野郎たち総勢五人ばかりを」
と、小太郎は権十郎の取り縄の端を引き立てながら返答した。
「なんだ、権十郎たちは昼間から酔っているのか」
高橋佐内は河岸道の野次馬たちを牽制するかのように大声を出した。
なにしろ権十郎は本所深川一帯の香具師の元締だ。屋敷の乾分だけでも十人は下らないし、権十郎の許に草鞋を脱いだ「一宿一飯の恩義」を受けている香具師の数は百人を下らない。喧嘩っ早いだけでなく命知らずの上に無法者も何人かいるはずだ。権十郎を捕縛した捕方の人数の少なさから、妙な功名心を起こして元締の身を奪い返そうとする者がいないとも限らなかった。
ここは八丁堀同心と界隈の岡っ引が駆けつけたことを野次馬たちに周知させた方が良いと声を張り上げたのだが、その推察が当たったのか野次馬たちは顔尾を見合わせて更に後ずさり、高橋佐内と嘉吉に道を開けた。
小太郎は町人髷こそ乱れているものの、手傷を負った様子はなかった。鳶衆の何人かは揉みあった際に殴られたのか、顔に痣を作っている者もいた。
高橋佐内が先頭に立ち、そのすぐ後ろに嘉吉が権十郎の捕縄を持って続き、小太郎は最後尾の備えに回った。そうした陣容で黒江町にある鞘番所へと向かった。長い春の陽も既に大きく傾き、河岸道に長く影を落としている。
「おい権十郎、上々の首尾に早くも祝いの盃を交わしていたのか」
と、前を向いたまま高橋佐内が権十郎に聞いた。
「藪七がしくじったのか、それとも誰かの讒訴でもあったのか」
と、権十郎は呂律の廻らない舌で聞いた。
「どちらでもねえ。何事もお天道様が御見通しだってことよ」
高橋佐内はそう言って「お前も年貢の納め時だな」と付け加えた。
高橋佐内の言葉に権十郎は「年貢の納め時だと、ベラボウメ。納める年貢があったためしもない者がどうやって年貢を納めるンだ。教えてくれよ、八丁堀」と声を張り上げた。
「みっともねえぜ。不惑を過ぎた野郎が、何を血迷っていやがる。乾分たちを使って次郎吉を下手人に仕立て御上の手で消させる算段をするなぞ、外道の所業だぜ」
前を向いたまま、高橋佐内はそう言って奥歯を嚙み締めた。
自分の利のために人を虐め人を痛め人を殺す野郎は許せない。ましてや自分の手を汚すことなく、人をして悪行を働くとは。それが御法度に背く所業なら八丁堀同心として断じて見逃すわけにはいかない。高橋佐内はふつふつと腹の底から煮え滾る怒りを感じた。
「ああ、俺は外道だとも。しかし、勘当になって家を追い出された直参旗本の倅が世間並みに身を立てるってのは、一町先の的を弓矢で射抜くよりも難しいことだぜ。困難を承知でのし上がるってことは、無理をすれば道理が引っ込むってことだ」
と言うと、権十郎は泣き笑いのような引き攣った笑い声を上げた。
その自嘲気味の笑い声は自分に聞かせるものだと分かっていたが、高橋佐内は黙ったまま夕暮れの河岸道に自分の陰に寄り添う、長く伸びた権十郎の影を鋭い眼差しで見下した。
「よう、八丁堀。三十俵二人扶持の御家人とはいえ親の家督を首尾よく継いだお主には分かるまい。知行地六百石直参旗本の三男に生まれた俺の苦労なンぞは」
高橋佐内の沈黙に、勢いづいたかのように権十郎は言い募った。
突然立ち止まると、高橋佐内は何も言わず後ろへ振り返りざまに権十郎の頬桁に拳を食らわした。ゴツッと鈍い音がして権十郎はよろよろとよろめき「なにしやがる」と、口の端から血を流して目を剥いた。
「口を慎まないか。お前は直参旗本の倅でも何でもないただの権十郎だ、大口を叩くンじゃねえ。人の立場を勝手に羨み、おのれの身の不幸をめめしく恨むとは何事だ。お前のケチな料簡の辻褄合わせに殺されたお駒のことを思え、お前の独りよがりの策謀に加担したがために獄門台に上がる羽目になった藪七の無念を思いやがれ」
そう言うともう一発、高橋佐内は権十郎の顎桁に拳を見舞った。
終