第七話 軍師の才覚―周防と信幸―
黒備え・多目周防守元忠。
河越夜戦で北条氏康の命を救い、武田信玄の関東侵略を幾度も防いだ軍師。
そして信幸の祖父……『攻め弾正』真田幸隆とも、何度もやりあっている。幸隆の神算鬼謀、伏兵に次ぐ伏兵、策に次ぐ策に彼は苦難しながらも、それらを食い止めて来た。
好敵手であった。
「あの時は私も若かった。思えば懐かしい……」
「周防様?」
「独言だ、気にするな。兵の準備は如何に?」
「兵二千、整いましてござりまする」
周防はニヤリと笑う。
――いざ参らん。いくぞ、『孫弾正』!
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信幸の配下武将・唐沢玄蕃は斥候に出ている才蔵と合流する。
「首尾は」
「裏門の守りは誰もおりませぬ」
「ご苦労。見届けたらば、若に伝令を頼む」
「承りましてございます」
玄蕃は深く大きく深呼吸をする。
――もし、もしもこれが誘いで、裏門の先に伏兵がいたならば。
五十人である。もし伏兵がいれば軽く十倍はいると予想できる。
即ち黄泉への旅立ちである。
「方々、よいか。不審な挙動は決して見せてはならぬ。憶することはこの玄蕃が許さん!」
「……」
玄蕃と五十の兵は裏門から城内へ入り込む。玄蕃本人が驚くほど、すんなりと事は進んだ。勝鬨を聴いて動揺し、逃げる事しか頭にない兵が北側には充満していた。そのためか、玄蕃達を不審に思っている余裕が無いらしい。少数精鋭で攻め入った事が幸いした。
――仮に、精鋭の数が倍の百であったなら……。
奥へと進む玄蕃は、信幸に次世代を担う将才を見出した。
「ん、何だ?」
「切り捨て御免!」
玄蕃による第一斬が放たれる。
「な、何を!味方の乱心か!?」
「裏切りじゃあ!味方に裏切り者が出たぞぉぉ!」
こうして城に残った二千の北条兵が、ものの見事に撹乱され始めた。
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信幸は裏門の援護のため大手門に兵を集め、北条軍の注意を引き付けていた。
「伝令!」
「ご苦労。水を持て!」
信幸は才蔵の放った伝令に、報告よりも先に水を与えた。もし時が時ならばこの判断が命取りとなりかねないが、信幸はこの行動によって味方に余裕と安心を植え付ける事を選んだ。
――恐らくこの気配りが、戦を分けるのだ。
先ほどの玄蕃とのやりとりで、信幸の中に一つの信念が生まれつつあった。
「若殿、かたじけのう御座ります」
「構うな。首尾は如何に」
「唐沢殿の部隊は裏口から紛れ込みましてございます。結果は追って」
「よし!皆の者!先陣が手柄を立てた!」
「おおっ!」
伝令は驚いた。疲労の無い五百の兵がいつの間にか臨戦態勢を整えていたのだ。
まるでかつて見た真田昌幸か、真田幸隆の様であった。これが、次世代の当主・真田信幸か!
「すまぬが、お前は手勢を三十ほど引き連れて才蔵の元へ戻ってくれ。突入の命令を伝えよ」
「は、はっ!」
「それと……」
「承知!然らば参りまする!」
「よし。やれることは全て済んだ。皆の者!落城は目前ぞ!」
「オオオォォッ!!」
「開門すれば城内は手柄の山、遅れるな!」
「応!」
伝令を見送り、わずか五百の本隊の士気が最高潮に達した、その時である。
「ん?若、何か聴こえませぬか?」
「何を申す、我々の鬨の声では……」
鬨の声ではなかった。これは、地鳴り?まさか、この気勢の乗った時分に天災か?誰もがそう思った。
そうであったなら、どれだけ良かったか。そうであれと、何度目を疑ったか。
「馬鹿な……ありえぬ!」
信幸は戦慄した。先程あそこまで蹴散らして四散させた富永主膳の軍が……。
――見事に結集した状態で真後ろに迫っているだと!?
「若、若殿!これは!?」
「……」
信幸の頭脳がみるみるうちに熱を帯びてゆく。
――怪奇現象か?あれほど見事に四散した一軍が、もう一度統率を立て直してここに集まれるわけが……。
夢現の信幸に、さらに追い打ちをかける一手が放たれる。
「若殿、大手門が開き申した!」
「何!?玄蕃に才蔵、やってくれたか!?」
「い、いえ!あれは……!」
見えた旗印。それは三つ鱗……関東に覇を唱えた、北条氏の栄光を象徴する家紋であった。
「何故……」
思考を投げ打って死兵となる。将たる信幸が一兵士と化すまで、事態は切迫してしまった。
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信幸の真正面に出現したのは、多目周防守率いる二千の城兵であった。
全ては、この男の思惑通りに進んだのである。
「残念であったな『孫弾正』。弾正幸隆ならば、主膳の逃散の仕方で策だと気づいたやも知れぬが」
貴様には、それほどの才覚は備わっていなかった。周防の笑みはそう告げていたが、信幸はそれを認識できる精神状態では無かった。
「黒備え……、あれが北条軍師、多目周防……?」
周防はすぅ、っと右手を上昇させ、勢いよく振り下ろす。
「かかれい!」
「オオオッ!」
後ろには富永主膳の五百。前には多目周防の二千。500対2500。数の差もさることながら……。
――陣形が不利すぎる!!
前方の周防軍に対しては信幸が指揮を執れるが、後方の主膳の軍に対しては、完全に指揮系統が遮断されている。人の目は一方向しか見る事が出来ない。
「ぬぅぅぅッ!!」
それでも後方の兵は死に者狂いで踏ん張っている。元々少数で臨むことは覚悟の上、挟み撃ちでどうせ逃散はできないという開き直り。それが彼らの槍に力を与えた。
が、五倍の数差はそれだけでは覆せない。さらに前方の黒備えは、洗練された波状攻撃を繰り返して来るではないか。
「二軍は引け!三軍、かかれ!」
まるで、上杉の車懸りのようであった。武田軍を蹴散らした川中島のトラウマを抉る周防の指揮は完璧である。見る見るうちに、信幸軍の頭数が減っていく。五百の兵は、あっという間に四百まで規模を縮めてしまった。
同士討ちを避けるために鉄砲は使っていない。にも関わらず、北条兵は安全に真田の兵力を壊していく。
「若殿ぉぉぉ!」
「耐えろ!堪えるのだぁッ!」
信幸はもはや、指揮官では無かった。一兵卒と共に騒いでいるだけの死兵の一人……。
――何と、何と恥ずべき姿!
だが、信幸は一つ、たった一つの光明を信じていた。例え部下に、敵将に嘲られようと、ここ一番は生き残る。そしてその瞬間を待つ。
「若殿!信幸様ぁっ!」
「堪えろ!やつらが来るまではぁっ!!」
「違いまする、ご覧あれ!門が、再び開きまするぞ!」
「お……」
主膳も、そして周防も驚愕した。指示していない開門。そしてその方向から、弾丸が放たれた。
――チュンッ。
射抜いた。真田ではなく、北条の一兵を。
その門に建てられた旗は……『紺青の六文銭』であった。
周防はその一瞬で状況を把握したが、彼の長い経験上もこんなことは起こったことが無いため、すぐには行動に移せなかった。そして北条の指揮に間が生じたその瞬間。
「全軍、門に向かって駆けよ!」
対照的に信幸が蘇る。予め作戦を聞いていた真田兵は、誰一人迷うことなく門へと駆けだした。
そして十秒遅れて周防が。更に十秒遅れて主膳が追い始める。しかし。
――チュンッ。チュンッ。
「ぐあっ!」
城から放たれる鉄砲隊の射撃が周防軍の足を止める。
抜かった。周防は全てを悟る。指示が裏門まで通っていなかった事。そして少数の筈の信幸軍が誰一人、鉄砲を持っていなかった事。信幸は裏門への援軍に、鉄砲を全て預けたのだ。
窮地に陥った場合に備えて、占領した手子生城からすぐに、援護射撃を行える様に。
その周防のほぼ真横を、退却軍の中核を担っている信幸が駆け抜ける。
二人はそよ風の様にすれ違っていく。不思議にも周防は、そして信幸もその風を心地よく感じた。
――幸隆の孫、真田……信幸!
――あれが周防……多目元忠!
そして二人は我に返る。
「止まるな!門まで到達せよ!」
「逃がすな!車懸りを解け!」
しかし完全に車懸りを模した陣形が災いした。円形であるため、これを解除しなければ前の軍が邪魔になって弓を射ることができない。数の差が活かせないのだ。
「前軍だけでよい!弓を持っている者は放て!ありったけ放たぬかぁ!」
状況を鑑みるに、既に城兵は逃げ出している。ここで入城されれば、あの小僧に完璧に奪還される!
その思いが周防を必死にさせた。しかし、すぐには兵に意識を伝えられない。
北条の兵に必死さが伝わらない。
「放て!放てぇ!」
少数で闇雲に射られる弓は、それでも真田兵の数を減らしていく。後方の兵は次々に命を落としていく。
「門は目の前ぞ!臓が破裂しても駆けよ!」
倒れ、死にゆく仲間を、それでも見捨てるのが将の務め。何としても生き延びるのが将の務め!
ついに信幸軍三百は門へ到達した。才蔵・唐沢玄蕃の百の兵と合流、計四百名で城を占拠した。
対する北条軍は二千。まだ城門を閉じさせなければ挽回は可能な数であった。
「まだだ!城門を閉じさせるな!」
「させるな、鉄砲隊!」
才蔵の指揮する鉄砲隊が再び、北条の兵を止める。
「閉門!手の空いている者は城壁から弓を射よ!」
周防軍が真田の遠距離攻撃に何も出来ないまま、城門は閉まって行く。
「真田……信幸ィィィッ!」
叫ぶ周防に、容赦なく弓矢が降り注ぐ。
「ぐあッ」
「周防様!」
北条兵は次々と傷を負い、こと切れていく。攻城戦に逆戻りした北条軍の指揮は、駄々さがりであった。
富永主膳も愕然としていた。自軍からは逃げる者が相次ぐうえ、城からは砲門まで用意され、こちらを向いている。鉄砲の用意が戦況を覆した。しかもこちらの攻城用具は城の中にあるのだ。
「まだ、まだ、この手子丸城を陥落してから一日しか経っていないのだぞ!?」
「周防様!撤退を!」
「報告を致せ!残り二千の城兵はどこへ行ったのだ!?」
「撤退願います!」
伝令までもが、敗北を受け入れ、逃げる事しか頭に無くなっている。一度混乱が生じれば、例え数で勝っていても忽ち烏合の衆となり得る。
これが、籠城の恐ろしさか。
まだ年端もゆかぬ真田の嫡男はそれを分かっていて利用したのだ。周防はついに、敗北を悟った。
「撤退せよ!全軍撤退!」
周防は肩から血を流しながら、騎馬に乗って去って行く。
この痛みを決して忘れないことを、後方の若僧に誓いながら。
「退却だ……!退却するぞ!」
「勝った、我らが勝った!」
「勝鬨だ、勝鬨をあげるぞぉ!」
――鋭、鋭、応!鋭、鋭、応!
周防の姿を見届け、ようやく信幸は腰を下ろした。いや、落としたと言っていい。それほどまでに、心身に疲労が回ったのだ。
「若!大事御座りませぬか!?」
才蔵と玄蕃が駆け寄る。
「お前らの、おかげで、助かった、礼を、言う、さいぞ、げんば……」
「だ、誰ぞ!信幸様に水を持て!」
全力疾走によって息を切らしながらも、まずは労いの言葉を。これこそが信幸の才覚であった。
こうして総勢八百の真田兵に、歴戦の北条軍五千が敗れたのであった。




