第四話 弁丸の如く
信幸の出陣は、真田家臣・大戸真楽斎の守る手子丸城から援軍要請が届いたためである。この手子丸城が陥落すれば、一族衆である矢沢頼綱(昌幸の父・幸隆の弟)が守る沼田城へ北条軍が雪崩れ込む。火を見るより明らかであった。
沼田を占領されれば、敵の補給線が整ってしまう。そうなれば北条軍の上野・信濃への侵略を止める術は真田には無くなる。
真田家の命運は唯一出動できる真田一門、すなわち信幸に託されたのである。千にも満たない兵を伴っての、決死の出陣であった。
「止まれい!」
ブルル、っと信幸の愛馬が鳴き声を上げたのを皮切りに、全軍の動きが静止した。
「小休止だ。才蔵!近くへ」
スッ、と信幸の側に足軽の男が姿を現す。
「お呼びで」
「ここからは※斥候が必要だ。頼めるか」
「御意に」
才蔵は信幸の側近である。忍の心得もあり、諜報活動を得意とする優秀な男。
信幸の命を受けた才蔵は数名の配下を伴い、森の中へ駆けて行く。
信幸はその間に考えを巡らせる。
――もし、俺が着く前に手子丸城が陥落したならば…。
手子丸城の手兵は、報告では数百名に過ぎない。対して北条の手兵は……少なくとも一千。悪くすれば二千はいるだろう。
野戦ならば、死中に活を見いだせれば勝機は僅かにある。だが、既に北条軍が手子丸城に入場していたなら、攻城戦である。その経験は信幸には、無い。
真田の嫡男と言っても、ついこの前初陣を済ませたばかりの弱冠十七歳。倍以上の敵の守る城を落すなど、できるわけがない。仮に五千、いや一万の兵を預かったとしても、できる!とは絶対に言えはしない。
「小休止やめ!全軍進め!」
再び手綱を取る信幸。
一刻ほど歩いた。斥候の知らせは、未だ無い。
――どうした才蔵。敵はまだか。どうか、どうか落城の報だけは持ってきてくれるな!
さらに、一刻。斥候は……来た!
「若!才蔵にござります!」
「良く戻った。して、敵の動きは?」
信幸は報告を聞く際の緊張を才蔵に、ひいては軍全体に悟られないように、ゆっくりと余裕のある口調で才蔵に尋ねた。
「周囲に北条軍は、出張っておりませぬ」
「……」
手子丸城は、もう半刻で着く距離であった。しかし、敵の姿は無いと才蔵が言う。つまり……。
理解した瞬間、信幸の背筋がざわめいた。
「急ぐぞ!皆、駆けよ!」
兵の疲労を気にしている場合では無かった。早く、少しでも早く、手子丸城へ着かなくては!
「あ……」
丘から、手子生城が見えた。見た瞬間、信幸は脱力した。
――本丸から、煙が出ている。
落城は、明白であった。
「才蔵」
「はっ」
「落ち延びた味方兵をこちらへ導け。一人でも多く合流し次の手を打たねばならん」
「御意に」
本当は才蔵に聞きたかった。
――俺は今、どんな顔をしている?
弁丸なら、何と言うだろうか。
弟よ。兄は今、異様に貴様が恋しいぞ。
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敗残兵の合流は、一通り完了していた。
手子丸城の兵によると、城主の大戸真楽斎は自害したとのことだった。本来ならば援軍は、弔い合戦である!と士気の一つでも上がることが期待できるはずだった。
しかし、次なる報告を受け、真田兵八百余の士気は一挙に冷えた。
「北条軍は、約五千。少なくともわが軍の六倍の軍勢でござりまする」
信幸は多く見積もって二千だと踏んでいた。それがどうだ。
五千。五千だと?
「若。いかがなさいます」
「……」
「若!」
「うるさい!少し余地を寄越せ!」
ただでさえ、光明を探す思考が絶望で覆われているのに、才蔵が急かす。
八百で五千に勝つ?
それも、倍以上の兵が必要とされる攻城戦で?
――無理であろうが。
信幸は才蔵に見えない様な角度で、大きく、大きく溜息をついた。
「才蔵」
「はっ」
「先ほどの敗残兵。敵将は誰だと言っていた?」
「敵将は、多目周防守でございます」
「何?」
――聞き違いか?
「多目、周防だと?」
「はっ。確かに、申しておりました。敵将は多目周防守、副将に富永主膳にて」
信幸の瞳孔が開く。
――多目周防守元忠?
北条氏康の、一夜の夢物語。枕元で何度も伝え聞いた、あの河越夜戦で武名を上げた歴戦の軍師か?
俺が。この経験不足を言い訳に、お辞儀草の様に萎れた十七歳の小僧が。
そんな名将と、戦わねばならんのか。
戦えるのか。
戦わせて、いただけるのか。
名のある将と、戦って、英傑として死ねるのか!
「才蔵。全軍、半刻だけ小休止をとらせろ」
「は?」
「だが貴様は休ません。唐沢と共に守兵を森まで誘導せよ。それだけでよい」
「はっ……はっ!」
才蔵は指示の的確さから、信幸の復活を確信する。
その覇気のある声を聴く限り、才蔵には主が勝つ気であると思えた。
だが、信幸の頭の中は黒い決意に満ちていた。守るべき八百の兵を道連れに、死して名を後世に残す事のみに支配されていた。
そう、いつも自分が阿呆と罵っている、あの弁丸の如く。
※斥候……本隊より先行し、進行方向の現状を偵察・把握する役割




