第三話 信幸、死地へ
天正十年七月。結局のところ、昌幸の出した決断は北条家への臣従であった。
北条家は佐竹家、里見家と戦争中でありながら、小田原の国力未だ凄まじく。武田遺領の争奪戦に名乗りを上げたのである。その屈強さを評価しての服従であった。
自分と考えは違うものの、父は一先ず妥当な決断を下した。そう信幸は考えていた。
しかし驚くべきことに、昌幸はその年のうちに徳川家康と内応してしまった。北条に明け渡したはずの沼田城を、兵が薄くなった隙を見て勢力を結集し、力ずくで奪還。半年も経たないうちに北条を裏切ったのである。
「不義理だと?」
信幸は昌幸と対面していた。
「真田の武名は地に落ち申した」
「若すぎる言葉だぞ。信幸」
昌幸は顔をしかめた。
「お前の策を採用したのだ。不満があるとは甚だ疑問じゃ」
「まだ北条に臣従して幾月も経っておらぬではないですか。それをいきなり徳川になど。家臣も混乱しておりまする」
「だから、だ」
「何と?」
信幸は父の腹づもりも、大分理解できるようになったと自負していた。しかし何と甘い、何と過剰な自信だったのかと、心の中で天を仰いでいた。
「年も変わらぬうちに寝返れば、民はどう考えようや?」
「転々と主を変える不忠者と」
「否だ。はなから徳川の間者として動いておった。そのように流言すればよい」
「では、時を稼ぐために?」
「そうだ。真に信ずるに値するは誰か。先の戦で優劣も決したであろう。徳川家臣となれば、そう易々と攻め込めまい。家康に大義名分を与えてしまうからだ」
「……」
信幸には返す言葉が無かった。北条家と徳川家は先の天正壬午の乱で激突し、徳川の勝利に終わっている。その和睦が成立したばかりなのだ。
「不忠。不義理。そのようなものに囚われておるせいで絶好機を逃す。そのような将は古今東西、腐るほどおったのだ」
「それが武士ではございませぬか!」
座していた弁丸が叫ぶ。
「家が潰れても、同じことが言えてか?」
「本望にござりましょう!」
「阿呆!」
信幸よりもさらに若く幼い言葉であった。昌幸と信幸は、同時に弁丸に鉄拳を浴びせた。
「痛っ……。されど、武士道とは……」
「犬猫にでも食わせよ!」
物分りの悪い息子達に匙を投げ、昌幸は居室へ行ってしまった。
「されど父上こそ、武田への義理を貫いた最後の勇将ではござりませぬか……」
「だが武田は無くなってしまったぞ」
「むむぅ……」
「父上は、上杉を快く思っていないようであるしな」
上杉家は同盟を結んだ武田勝頼をとうとう助けることは無かった。その上杉景勝が『義将』として天下に名高いことが、昌幸、そして信幸には我慢がならなかった。
「存続こそ第一の使命。武名は二の次だ。強引である事は間違いないが、父上が正しい。心得よ」
「はぁ……」
「そんな顔をするなら、槍の鍛錬でもしていろ!」
信幸は納得のいかない様子の弁丸を引きずって、庭へ放り出した。
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天正壬午の乱で敗れたとはいえ、関東以西においても北条家の支配力は未だ強力であった。
必然的に、真田家と北条家は戦争に突入する。
徳川の助力はわずか数百。羽柴秀吉包囲網に焦点を合わせている家康にとって、信濃は取るに足らない問題であった。
「抜かったわ」
昌幸が舌打ちをする。
「徳川家康。あの狸も信ずるべきではなかった」
「山形昌景殿の赤備えを吸収したからといって、真田までの面倒を見る気はさらさら無かったようですね」
「信幸。貴様の失態だぞ」
徳川への内応を昌幸が決意したのは、信幸が強く推したためでもあった。
「承知しております」
「事ここに至っては、誰が信用できるどうか。分かっておろうな」
「無論、一族衆のみ」
明らかな劣勢にあっては、どんなに有能な家臣であっても裏切り、逃亡の可能性がある。多くの家の滅亡を見て来た昌幸は、信幸にそれらの心構えを説いていた。
「北条は既に沼田領に侵入済みであるぞ」
「支城を死守すべきかと」
「文字通りの『死』守だぞ。叔父御(矢沢頼綱)は沼田から動けぬ。誰が行く」
「無論、源三郎が行きまする」
昌幸は否定しない。一族衆で出陣可能なのは、嫡男の信幸しかいないのだ。流れるような出兵の決定であった。
「某も行きまする!」
「阿呆が!」
昌幸が投げた扇子が当たる前に、信幸の鉄拳で弁丸は倒れ込んだ。しかし弁丸は畳に打ち付けられながらも即座に顔をあげ、懇願を続ける。
「そ、某は元服も未だならず!初陣もならずでは、真田の次男坊として立つ瀬がありませぬ!兄上、是非御供を!」
「兄は死にに行くと申しているのだ!黙ってここにおれい!」
「何卒、某にも武功を!某は兄上の側で!」
「阿呆!」
「ぐっ……」
泣きじゃくる弁丸の言葉は、半分は本心。半分は嘘である。
武功など、いつでも良いのだ。兄の最後の戦場では、一緒にいたいと夢見て来た。
生きる時は、二人で。死ぬ時も、二人。
兄は武家の嫡子、自分も次男坊なのだ。そんなことが許されないことは、わかっていた。
――わかってはいたが……!
「急げ。信幸」
「弁丸、さらばじゃ!悲報を聴いた時から、貴様がこの家の嫡男であるぞ!」
「兄上ぇぇぇ!」
膝をついて畳を見つめる弁丸を置き去りに、信幸は死地へ向かっていった。
北条の軍師が待ち構える、手子生城に向けて。




