第九話 弁丸の旅立ち
「上杉へ?」
「そうだ。頼康と共に越後へ行け」
「人質、という事でござりまするか?」
「そうだ」
天正十三年。真田昌幸は沼田を真田領と認めない主君・徳川家康に対し反感を抱き、家康を見限ったうえで上杉景勝との同盟に踏み切ろうとしていた。
北条を沼田から退けた真田家は徳川に助力を求める。しかし頼みの徳川が北条と和睦を結んでしまい、なんとその和睦条件に真田領である沼田を引き渡せ、と北条側が要求してきたのである。
昌幸は怒った。自家が命懸けで切り取った領地を、和睦のダシに使われたのだから無理もない事である。
『徳川の家臣になった覚えは無い。何故そのような要求を勝手に飲んだのか!』
そう言って昌幸は立ち退き要求を突っぱねてしまったのである。
確かに北条にしてみれば旧領沼田を回復すれば目的は果たしたと言えるし、徳川にしてみれば譜代家臣の領土を削るより、北条を裏切った真田の領地を取り上げる方が都合がよいだろう。
昌幸はその見え透いた魂胆が許せない。小国と自分達を侮り、低く見ているこの両家にだけは、煮え湯をぶっかけてやらないと気が済まないのだ。旧武田家臣の意地があった。
その第一手が上杉との同盟である。だが……。
「父上、お待ちください」
「おのれ源三郎、まだ言いよるか!」
ここ数日、信幸と昌幸の間で議論が重ねられていた。家康を裏切る事は、真田にとっての不利益も大きい。信幸はそれを懸念する。
「今徳川と事を構えるのはお止めください。東に北条、南に徳川と万の軍をそれぞれ抱えれば、滅亡は必定となりまする」
「羽柴がいる」
「我らは臣従の意を示しておりませぬ。その様な状況で、秀吉が我らの様な小国まで気に掛けると御思いか?」
「だから上杉に動いてもらうのではないか」
「我らが滅んだとて、上杉は痛くもかゆくもありませぬ。勝頼様と同じ過ちを犯すおつもりか!」
「源三郎、貴様!」
勝頼は上杉の援軍が来なかったために、わざわざ同盟を破棄した北条からも攻撃を受け、ついには織田信忠の甲斐侵入を許してしまった。
だが、昌幸は過去の遺恨など意に介さない。それが足枷になる事を知っているのだ。一方の信幸は、そう言った事もまた大切だという考えを持つ。
両者の意見は衝突を続ける。
「義だの何だのは謙信公の代まででございます。父上もわかっているでしょうに」
「なら、黙って家康に泣き寝入りしろというのか!沼田は叔父上(矢沢頼綱)が戦で切り取った我らの領土。北条に譲るわけにはいかん!」
「待てば代替地を用意すると文があったではございませぬか。父上は意地で真田家を潰すおつもりか!」
「阿呆、あんな約束は何時でも反故にされるのだ!お前は強国に怯えているだけじゃ!数の差など知略によってどうとでもなることは、お前も手子丸城で学んでおろう!徳川など恐るるに足らん」
「父上!」
双方の言い分に利があるため、議論は平行線を辿った。
結局、昌幸は譲らなかった。上杉との同盟を締結させ、未だ元服もしていない弁丸を、矢沢頼綱の息子・頼康と共に人質に出す事を決定した。
これにより、徳川家康との同盟は完全に決裂。真田家は東南に敵を抱えることとなってしまった。
昌幸も信幸も、間違っているわけでは無い。それは信幸自身も理解していた。信幸は引き摺らず、まずは利益と不利益を整理した。
利益は、武門の意地を貫ける事。誇りを守れる事。
不利益は……滅亡の可能性が高まった事。
「……ふぅ」
信幸は、偉大な父と心中する覚悟を決めた。
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「上杉に心を預けるなよ」
信幸は弁丸に向かって言う。
「人質とて立派な役目。これを機に私が上杉と誼を通じるのも良いと思いまするが」
「確かに、お前……」
「なにか?」
「いや、何でもない」
『お前ほどの人材が手に入れば上杉も真田と良い関係を築こうとするやも』、と信幸は言いそうになったが、弁丸がその気になっても困るので口を紡いだ。
「とにかくだ。お前はそう長く上杉に居つくことにはならぬ」
「それは?」
「父上は必ずや上杉を裏切ることになるからだ」
「必ずでござりまするか」
「必ずだ」
信幸には確信があった。恐らく、徳川との主従関係の中で起こった問題は、上杉との間でも必ず起こるだろう。そうなった時、あの親父殿は客観的に物事を捉えながらも、やはり不利益に抗おうとするだろう。
「で、あるならば」
弁丸は、兄から少しでも助言が欲しかった。一族衆の頼康がついて来るとはいえ、大好きな兄がいない日々がこれから始まるのである。
少しでも、寂しさを紛らわせたかった。
「次はどこに頼ると?」
「さぁな。恥を忍んでもう一度北条、徳川につくか、それとも……」
「それとも?」
「今を煌めく羽柴秀吉か」
あり得る話であった。
長久手では家康に局所戦で敗れたものの、その財力と動員数は徳川を圧倒していると聞く。もし羽柴と結べれば――もとい臣従できれば、北陸には前田家もいる。当面の窮地は脱することができるだろう。
昌幸がその事を考えていない筈はなかった。
「その時は、某は」
「命は無かろう」
「……」
「もしも、の話だ。だが肝に銘じておけ」
「承知」
必要以上に脅し過ぎたか、と若干信幸は思った。だが、義に厚い弁丸の事だ。何も言わなければ馬鹿正直に上杉に骨を埋める覚悟で赴いてしまうに違いなかった。
いざという時、越後から脱出できる準備はしておかなければ、本当に殺される事であろう。
「兄上」
「なんだ。俺はそろそろ岩櫃へ帰る。お前も準備を済ませねばなるまい」
「某の帰ってくる先は、きっとこの真田でござる」
「何?」
人質となれば、この砥石に帰ってくることは難しくなる。だが、弁丸の目に絶望は無かった。
「どこに行こうと、某の仕えるべき主は日ノ本にただ一人のみでございますから」
「……」
「例え三途の川へ行こうと、最終的にはその主の元へ帰りまする」
「……そうか。達者でな」
「兄上も」
信幸はそっけない返事をした後、素早く愛馬に跨ってその場を後にした。
――あの親父殿に、そこまでの忠義を尽くさせて良いものか……。
弁丸の言う主とは、言うまでもなく昌幸のことだろうと信幸は思った。確かに四面楚歌であった真田家が今の今迄生き残る事が出来ているのは、ひとえに昌幸の智謀があってこそである。
信幸にしても、父の事は尊敬しているし、どうあっても家を残すというあの姿勢は信幸自身の行動理念にも組み込まれている。
だが自分はともかく、あの弁丸にとって相応しい主君であるかどうか、と言われれば分からない。武名を逸る性格は父譲りだが、弁丸に汚れ仕事は似合わない。
真田昌幸の重臣となれば、策謀に加担することは避けられない。それは、この兄の仕事であって、弟にはさせてやりたくはない。
信幸は思う。弟には、英傑であって貰わねば困るのだと。弁丸にはその才がある。恐らく父も、それをわかっているはず。それでも、国の事情には逆らえない。
――そうか。
信幸は昌幸の意図が一つ、分かった気がした。弁丸はこの真田にいない方が、幸福なのかも知れないと。
弁丸の言う『主』……それが誰を指しているのか、この時の信幸は気づくことが出来なかった。
満点の星空を行く流星の様に、二人の兄弟愛がすれ違った。




