短期決戦
数日前から全てのマスコミが厳重な警戒を呼びかけていた。
気象台が発表する今年の「その日」がいつになるかの予想は、もう数ヶ月前から続けられている。スーパーを始め様々な店舗の「その日」のためのコーナーには関連商品がうず高く詰まれ、詰まれる端から飛ぶように売れていった。保存の効く食料。飲料水。酸素ボンベ。目張り用のテープ。フィルター各種。乾電池。家電製品を扱う店では更に品揃えは幅広い。空気清浄機。乾燥機。自家用発電機や燃料まで扱う店もあった。
「その日」の朝、ある種の興奮と共に俺は目覚めた。当直室のカーテンを開け、今日が「その日」であることを確認する。
空はどんよりとした黄色をして、朝日をどろりとくすませていた。強い風に窓の脇の木が身を捩るように揺れている。
電話が鳴った。
「おはよう。始まったわね」
緊張気味の妻の声。
「ああ。お前は家から出るなよ。ちゃんとテープは貼ったな」
「ええ、もちろんよ。換気口も全部閉じたし、食料も水も十日分は用意したわ」
「わかった。頑張れよ」
「あなたこそ気をつけてね。無理しちゃ駄目よ」
「わかってるって。じゃあな」
不安を滲ませる妻の声を振り切るように電話を切り、身支度を済ませると事務室に向かう。
「おはようございます。始まりましたね」
「ああ。今年は平年よりも多いそうだ。十分気をつけてくれ」
初老の室長の激励を背に、ゲートルームへ向かう。
分厚い気密服を着、ボンベを背負う。ヘルメットを被って空気モレがないかを確認したら準備はOKだ。
「行くぜ」
「はいよっ」
相方とは長い付き合いだ。これだけで通じる。
二人並んで扉とエアカーテンで何重にもガードされたゲートを出る。
外は起きたときよりも更に黄色く霞んでいた。心なしか朝よりも暗くなったように感じる。
「酷いもんだな」
呟くと、マイク越しに相方の声がした。
「まったくだ」
肩を竦めた相方と特別仕様の作業車に乗り込む。俺達の仕事は逃げ遅れた人や何か都合で密閉し損ねた家がないかを確認して回ることだ。
街はしんとしていた。当たり前だ。今日気密服なしに外を歩き回ることは死を意味する。
ほとんどの企業が今日は休みになっている。社員の命を直接脅かすことはどんな企業でも避けたいだろう。発電所や浄水場、また病院など操業を停止することの出来ない職場は全て職員が「その日」が終わるまで泊り込みで働く。
もちろん学校も休み、公共交通も停止し、道路に人影はない。ホームレスも今日ばかりは公共施設に全て収容された。
動くものとてない街を俺たちは車で回る。
数年前までは見かけた野良猫も、今はもういなくなった。飼い主のいる猫は皆どこかに収容され、いない猫は既に淘汰されてしまったのだろう。
街を一回りし、俺たちは事務所へ戻った。
まずゲートの前で強力なエアーを浴びる。次に最初のゲートをくぐったところで一人ずつシャワーで流される。更にもう一度エアーを浴びて初めて、俺たちは気密服を脱ぐことが出来るのだ。
事務室へ帰ると室長が暗い顔をしていた。
「お疲れさん。どうだった」
「特に異常はありません。毎年のことですから、みんなもうこの状態に慣れたようですね」
敢えて明るく言ってみたが、室長の表情は暗いままだった。
「今年は大変だぞ」
「どうしたんですか」
「最新の気象台の発表で、今年は雨が遅れるようだと言っていた」
「えっっ。どのくらい?」
「さあな。とりあえず七日間は期待できないらしい」
「七日も‥‥」
実際には晴天は七日で終わらなかった。日増しに電話から聞こえる妻の声が不安そうになっていく。
「うちは二週間分用意していたけれど、お義母さんは十日分しか買っておかなかったんですって」
「それでどうしているんだ」
「三日目くらいから食べる量を減らしているからまだ大丈夫だそうだけど‥‥」
「そうか‥‥」
「うちもなるべく節約はしているけれど‥‥。いつになったら雨は降るのかしら」
「さあな。もうそろそろ降ってくれないとな‥‥」
「あなたの方も大変なことになっているんじゃないの」
「まぁ、そこそこ、な」
実態はそこそこなんてものじゃなかったが、妻を不安がらせても仕方がない。
「気を付けてね」
「ああ、あとちょっとの辛抱だからな」
電話を切ると俺はまた気密服を着て外へ出た。
空はどろりと濁り、辺り一面に積もった黄色い埃を風が舞い立てている。どこか整然としていた最初の日に比べて、街はすっかり暗く汚れて見えた。さらに街のあちこちを救急車や警察の車が走り回っている。食料が尽きて助けを求めてさまよい出て倒れた奴だの、隣家に押し入ろうとした奴だのが手を焼かせているのだ。
この日、俺と相棒は咳とくしゃみと鼻水と涙でぐしゃぐしゃになった人間を何人も拾って収容した。とりあえずまだ身体を動かせる状態のうちに専門の施設に届けたから、死ぬ奴はいないだろう。
とにかく早く雨が降ってくれないことには。
俺は恨めしく空を見上げた。
雨が降ったのは十三日目だった。
朝方からどんより垂れ込めた重たそうな雲を、誰もが期待を込めて見上げていた。
そして待望の水滴が、車のフロントグラスに丸い輪を描いた。積もりきった埃が黄色い筋を描く。雨は見る見る勢いを増し、車の屋根に力強い音を響かせた。
「やっと‥‥」
溜め息のように相方が囁いた。
「ああ」
俺も囁くように答えた。あまりに待ちすぎて大声が出せなかった。
すぐ隣の家のドアが勢いよく開き、人間が転がり出してきた。両手を高く上げて、雨を受けている。地面では、埃が黄色い小川となって流れ始めていた。
事務所に帰り着いたのは、ワイパーの寄せる水が薄汚い黄色から澄んだ透明になった頃だった。降りしきる雨の中、室長が笑顔で軒下に立って迎えてくれた。
車から降りるなり俺はヘルメットを取り、軒下で気密服を脱ぐと妻に電話をした。
「これから帰るからな」
こうして今年の「花粉の日」は終わりを告げたのだった。
2003年に別ハンドルで別サイトに掲載したものの転載です。
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私は酷い花粉症で、毎年「これが1週間くらいの短期決戦なら、有給取って家に籠るのに」と思っています。
恨みを込めて(笑)そのまま小説にしました。