第一章 一雄、帰郷
明治38年(1905年)、9月。
日露戦争から帰還した私は実家のある札幌へ戻った。
やけに風が冷たく感じる。今まで蒸し暑い朝鮮半島に居たからだろうか。
どこへ向かう訳でもなく、どうする訳でもなく、近所をフラついた。
日露戦争への出征(出陣)命令が下り、家を出ようとした朝、母に厳しい口調で言われた。
『あなたには武士であった父上の血が流れているのです。飯沼家の長男としての誇りを持ち戦いに挑みなさい。おめおめと生きて戻ることは許しませんよ』
これが40年足らずも前なら自害を選んでいるところだが、そんなのは時代 錯誤だ。かと言って、家にも帰れない。
私は途方に暮れていた。
辺りがすっかり暗くなる。外套(がいとう/コート)姿の人たちが道を行き交う。
その中の1人、中年男性が陽気な笑顔と声で手を振ってきた。
「一雄、久しぶりだな」
普通に仕事帰りの父親に見つかったのだ。
父の名は、貞雄
今年、52歳になったはず。私は父が28の時の息子だ。
父は地元札幌の郵便局に勤める電信技師だ。
若い頃の戦争で負った傷のため声がはっきりと出なかった。その辺の件は、よくわからない。
父が喋りたがらないのだ。
私は父に促されて家に戻った。待っていた母が険しい顔つきで私を見つめた。
「一雄、出征する朝、私があなたに何と言ったか覚えていますか?」
言葉が出なかった。
代わりに父が穏やかな声で言った。
「自分が腹を痛めて産んだ子供が生きていたのに、レンは嬉しくないのか?」
「そういう問題ではありません。出征するということは、国のために命をなげうつということです」
「おまえは、戦争で死んでもらうために一雄を産んだのか?」
「何を言っているのですかあなたは…」
父と母の口論に疲れ、もう何がどうでも良くなっていた。
「では私が今ここで自刃(じじん/自害)すれば、母さんは満足ですか?」
すると、父の平手が私の頬に飛んだ。
驚いた。穏やかだった父が豹変した。
「自刃は許さない。絶対に許さない」
その日の晩、私は高熱に浮かされた。激しい嘔吐と下痢が続いた。
今ごろ戦争の疲れが出たのか、現地の水が合わなかったのか、理由は定かではない。
母が夜通しで看病をしてくれた。戦争で死んでこいと言った母が私の体調を心配した。
それから3日後の夜、体調が良くなり体が軽くなるのを感じた。
仕事から戻った父が私の寝ている部屋に顔を出した。
「具合はどうだ?」
「はい。だいぶ良くなりました。先ほど湯飯(茶漬け)を頂きました」
「もっと栄養のある物を食べろ」
「いいえ、私の好物ですから」
そして父は、まじまじと私の顔を見つめた。
「おまえは若い頃の俺にそっくりだな」
「は?」
「良く言えば、人の言うことを聞く素直な子。悪く言えば、自分の意思がない」
父は、切ない笑みを浮かべた。
「どういう運命なんだろうな。おまえは俺と同じ道を歩んでいる。だから心配なんだ」
父の言わんとすることが理解できなかった。
すると父は自分の喉元を擦った。そこには、くっきりとした傷跡が見える。
「聞きたいか?」
聞きたいというより父が話したがったので頷いた。
「私がまだ15歳の時に会津で内戦が起きた。会津藩は16歳と17歳の少年たちで結成した部隊『白虎隊』を戦場へ送り込んだ。私はその『白虎隊』の生き残りなんだよ」
そして父の長い話しが始まった。
「慶応4年/明治元年(1868年)
幕府・会津藩・桑名藩(三重県北中部)を主力とした軍勢は、倒幕勢力を鎮圧させるために京都へ向かった。
同年 旧暦1月3日(1月27日)、夕方
京都の鳥羽・伏見にて、新政府軍(薩摩・長州)と旧幕府軍(会津藩・奥羽越列藩同盟)の戦いが開始した。
それが戊辰戦争の始まり。
同年3月
会津藩 征伐に派遣された長州藩士の世良修蔵の斬首をきっかけに、会津を主戦場とした「会津戦争」が始まった。
会津藩は若松城(鶴ヶ城/会津若松の城)を死守するために、主力部隊の朱雀隊で若松へと続く街道を防備した。
しかし新政府軍に対しては劣勢で、本来は予備兵であった「白虎隊」の投入が決定した。