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宵闇手中


―――かた……


「何か音がしたが」

「そうでありんすか。わっちにゃ、何も聞こえませんでしたがね」

「屋根の方かだったようだが」

「ならばネズミでありんしょ。今宵の旦那との艶事を覗き見に来たんでしょ。ほら旦那、手が」

「ああ……。ネズミならば仕方あるまい。ふふ。艶事が見たいと来たのなら見せつけてやらねばな」


 白く太った男の手が内腿を撫でる。それと合わせるように左頬を滑る指を芋虫のようだ、と雛菊は思った。

 桜が散った紅の着物の裾を割って伸びてくる男を、本能では拒もうとするのに理性が押しとどめる。

 もう、幾年もこの体で食べてきた。両親に売られ、汚い男どもに飼われ、拒んでも嫌がってもどうしようもないと諦めたのは何時だったか。痛い、痛い、と泣かないですむように体の中心を支配して、床の中で従順にすごすようになったのは何時だったか。人の情にも、心を動かすことがなくなったのは何時だったか。

 様々な諦めが心を駆け抜けたのに気付かないふりをして、雛菊は汚いと胸中で罵った男に笑みを向けた。



 灯りが雛菊の白い体を照らし、鮮やかな紅の乱れて散った着物と朱壁とに影を落とす。

 艶事が終わって、雛菊はしっとりと湿った寝具に横たわり目を伏せていた。

 どこからともなく漂う男と女の匂いを嗅ぎたくないのか、細い腕を鼻に押し当ててたまま静かに瞑想していた。隣からは薄い壁を通じて艶事の高い声が聞こえてくる。夜にも明るい花街は、祭りも無いのに暗く生々しい喧騒に賑わっていた。それが常であるとわかっていても、雛菊はいっそ耳の穴を塞いでしまいたいと望むほどにこの賑わいを嫌っていた。

 合わせて立てていた内腿のべたつく厭な感覚に耐えかねて雛菊は身を起こした。

 布団の下に備えていた手拭いを引きだし、内腿の白濁を削り取るようにして拭った。

「出ておいでな」

 雛菊が微かな声で呟いた。屋根の裏で陽炎のように掴めなかった曖昧な気配が確かに揺らぎ、天井の板がずれた。

 灯りを揺らしただけで音も無く降りてきた気配に、雛菊は喜びをこめた目を向けた。

 粒子の粗い宵闇に紛れる黒い忍び服を着た奇怪な男がいた。背丈はおそらく雛菊と変わらないであろう小柄な男だ。どこが奇怪か。微かな灯りで深く影を刻んだ白い狐の面をつけているのだ。吊りあがった狐の目尻の朱い化粧が白い面に映えて一層禍々しい妖しのようであった。

「狐様、今日の忍びは下手でありましたな。ネズミの足音が漏れてありんした」

 狐の面の男を狐様と愛称で呼ぶと、雛菊は驚く様子もなく口元を袖で隠す仕草で狐の男を笑った。ちょんと鳥が首を下げるように頷き、狐は雛菊を肯定した。

「ほんに、冷や冷やしやした。あの男、好色で下卑ているくせにネチッこくて……まるでわっちの嫌う蛇のよう」

 去った客の男のことを思い出し、雛菊は短い眉の根をぐっと寄せた。あの男は雛菊のことを度々買っていた。だらしない笑いを浮かべ、みだらに太ったあの男のことを雛菊は当然良く思ってはいなかったが、これも仕事の内と厭々ながらに頬笑みを浮かべて自身をごまかしていた。脳裏によぎった男の顔を振り払い、小鼻に力が入りそうになるのを寸前で押えて、雛菊は息を整えて改めてほほ笑みを浮かべた。

「狐様が見つかるようなへまをするとは思えませんが、もしもの事があればと、雛菊は……」

 潜むように話しかけていた雛菊がさらに声を潜めた。まだ遠いが、義姉妹の女と客の声がしたのだ。

 空気が沈むように緊張した室内。鋭く目を向けた戸の向こう。廊下を歩く、板が軋む二人分の足音が陰を含んだ笑い声と共にすっと通り過ぎて行った。

「……雛菊は何時も心配でありんす」

 睨むようにして戸に向けていた目を雛菊は伏せた。悲しげに横顔が闇に沈んでいる。

 狐の男は飛びずさった部屋の隅で、そんな雛菊の照らされた裸体を見つめていた。

 静寂の帳が落ちた空気の中、二人の息すら隣室の艶事の波紋に呑まれて消えて行く。

 雛菊は微かに感じる狐の男の視線に柄でもないとわかっていながら羞恥を感じていた。ちょっとだけ、身じろがせて、秘かに伏せた眼を潤ませ一人思案に深ていく。それは他でもない、雛菊が狐様と呼ぶ小柄な男についてだった。

 雛菊が狐の面の男と初めて視線を交わしたのは艶事の最中のことだった。雛菊を買った大柄の青年に抱かれながら天井の僅かに開いた隙を見つけた瞬間、夜の木陰よりもきめ細かい闇の輝きと瞳を合わせた。男が帰り、乱れた着物の裾を胸元に寄せたとき、灯りを一度揺らせるほどの風と共に狐の面の白が雛菊の前に降りて来たのだ。それから度々、雛菊が艶事を終えて籠の中へ戻る刹那程の時間の間だけ瞳を交わす仲になった。

 雛菊は初見にして、狐の面の男が闇の底に身を置く者だということ、深い業を背負っている者だということを見抜いていた。一言も零さず、いつも凪程の弱い一陣の風のみを残して去る小柄な男。そうわかったからなのか、女郎という深い業を宿した雛菊は言葉を交わしたことのない狐の面の男を恋うようになった。

 元来、情と性を弄ぶのが女郎の仕事である。雛菊も例にもれず、人の心の波には敏感であった。雛菊は、互いに本当の名も知らぬ、言葉すらも交わしたことのないこの狐の面の男が自分に情を寄せていることには気付いていた。雛菊は、自分と狐面の男の想いが通じ合っていることには気付いていたのだ。そして決して実を結ぶことが無いことも気付いていた。元より、何の繋がりもない二人であった。曖昧に繋がる糸が、枯れ木の細枝よりも脆いことも雛菊は知っていた。一方的に雛菊が囁くことで繋がる華奢な絆。その絆は、狐の男が一言でも雛菊に言葉を囁いた夜、途切れるのだと雛菊はそう確信していた。

 雛菊は暗く淡い思案から浮かび、籠の中へと戻るべく乱れて床に散った着物を身につけようと手を伸ばした。

「月は見えなかった、か」

 ふと、泡が弾けるほどの低い囁きが聞こえ、雛菊は伸ばした手を止めた。

 初めて聞く、狐の男の声だった。

 面の奥からくぐもって、空中に留まって溶けるように囁きは低く這った。

「これ以上なく、暗く冷たい夜の中に潜んでいた時、君の瞳と視線を交わしたのだ。私と同じように、深く思い業を背負った瞳だと知れた。その刹那、私はなにかを掬われた気がした」

 そこで迷うように男は言葉を切った。雛菊の、しゃくりあげた声が聞こえたからだったのか。

 雛菊はぐっと喉にこみ上げる衝動を飲み下すことが出来ずにしゃくりあげていた。着物に伸ばした手を胸の前で握りしめて、狐の男に背を向けて床に身を横たえていた。

 聞きたくなかった。狐の男の、声を聞いた夜が互いの終わりなのだ、と悟っていたから、雛菊はそれならば生涯男の声を聞かず、一人狐の面に向かって話しかけるだけでもいいと思っていた。だというのに、心中で叫び上げて「嗚呼」と唇が震えた。

「君に、掬われた」

 優しくためらうように、けれど冷たく引き離そうとする響きをもって狐の面が囁いた。

「君の瞳が映した感情は憐れみだったかもしれない、或いは同族に対する同情や嫌悪だったかもしれない。だが、君の瞳が、確かに自分を掬ってくれた」

「いいえ……。あの時、わっちは、狐様の瞳を見たとき、愛情を感じたのでありんすよ。狐様、あなたがわっちの瞳になにかを感じたのでしたら、それはきっと、」 

「……」

「―――わっちは、誰かを、もしくはわっち自身を、許したかったのでありんすよ……」

「雛菊」

 初めて囁かれた名に、雛菊は首を振った。

「いいえ、絹です。雛菊ではなく、絹、と……」


「―――再びがあるのならば、そう呼ぼう」


 灯りが激しく揺らぎ消えた。

 障子の向こうの通りの明かりがぼんやりと透けているだけ。あまりにも微かだった狐の男の気配の輪郭がすでに消えていることくらい、雛菊にはわかっていた。

 隣室の、艶事の声がやんでいる。引き裂かれるのでは、と錯覚するほどに痛む心を宿した思い体を起して、雛菊は着物に手を伸ばした。一つの愛が終わった。雛菊は、女郎の真実の愛など、実りなどしないことはわかっていたのだ。

キーワードに恋愛と記しましたが、恋愛っぽくはありませんよね?

狐の面の男と花魁のような女性が抱き合っている画を見て、ふっと書きたくなったものです。

ストーリーの構成もあったもんじゃない。

そう書くとふざけんな、と言われるかもしれませんがそれが通常運転です。ご了承を……。


はっちゃけてぶっちゃけた話しでしたが、読んでいただいた方、本当にありがとうございました!

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