「では、あなたと婚約を結ぶメリットを教えてください」
「僕が、ほかの女性と親しくしたくらいでまた泣いているのか?鬱陶しい」
……まあ。
なんということでしょう。
目の前の男性は、ずいぶんと変わったことをおっしゃいますね。
「ですが、ローレンス様。私は、あなたの婚約者ですのよ?」
「だから、結婚するのは君だと言っているじゃないか」
「……それは、そうですが」
「だったら、何も問題ないだろう?僕は侯爵家の次男なんだ。多少、ほかの女性と親しくしたところで、目くじらを立てないでくれよ」
男性は、そう言って肩をすくめられた。
「それに、君は昔から僕のことが好きじゃないか。何を今さら心配しているんだい?」
「……はい」
お嬢様は、俯いてしまわれた。
男性は、それで話が終わったと思われたのでしょう。
「では、僕は失礼するよ。今日は友人たちとの約束があるからね」
そう言い残し、部屋を出て行ってしまわれた。
残されたお嬢様は、しばらく動かなかった。
そして。
「……エナメル」
「はい。お嬢様」
「……お茶を、お願いできるかしら」
「かしこまりました」
私は静かに一礼し、お茶の支度を始めた。
お嬢様のお好きな茶葉を選び、温めた茶器へ注ぐ。
いつもより、少しだけ香りの穏やかなものにいたしましょう。
……ふう。
今回も、なかなか難しいお仕事になりそうでございますね。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
私の名はエナメル。
長年、各地のお屋敷でメイドをしております。
実は私、エルフ族でして大変長命なのでございます。
人の一生をはるかに超える時間を私はメイドとして生きて参りました。
現在は、アーデル伯爵家のご令嬢、リリアルネ様にお仕えしております。
リリアルネ様は、伯爵家の一人娘。
将来は、アーデル伯爵家を継ぐことが決まっていらっしゃいます。
穏やかなお人柄で、使用人たちにも分け隔てなく接してくださる、大変お優しいお嬢様でございます。
そして、そんなお嬢様には、幼い頃からの婚約者がいらっしゃいました。
グランツ侯爵家の次男、ローレンス様。
いずれリリアルネ様と結婚し、アーデル伯爵家へ婿入りすることになっている男性です。
侯爵家と伯爵家。
両家にとって、悪くない縁談だったのでしょう。
しかも、リリアルネ様は幼い頃からローレンス様を慕っていらっしゃったそうです。
……ただ。
困ったことに、ローレンス様は、婚約者でありながら、ほかの女性との交際を繰り返していらっしゃるのです。
私がお仕えするようになってからも、すでに何度か、そのことでお嬢様が涙を流される姿を拝見しております。
そのたびに、お嬢様はおっしゃるのです。
「でも、あの人のことが好きなの」
……そうでございますか。
恋愛というものは、なかなか難しいものでございますね。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
私がお仕えするようになって、三か月ほど経った頃のことでございます。
リリアルネ様は、今日もお忙しくしていらっしゃいました。
朝から領地の商人たちとの面会。
昼には、伯爵家が支援している孤児院の運営報告。
午後には、侯爵家で近く開かれる茶会の準備について、何通もの手紙をお書きになっていました。
私は、お嬢様のお茶をお淹れしながら、その様子を拝見しておりました。
「お嬢様。本日のお仕事は、まだお済みではないのでございますか?」
「ええ。ローレンス様のところで、来週、大切なお客様をお招きする茶会があるの」
「そうでございましたか」
「ローレンス様、ああいう準備は苦手だから。私が少し、お手伝いしているのよ」
「……まあ」
私は、お嬢様のお手元にある書類へ目を向けた。
招待客の名簿。
お客様の好み。
席順の確認。
以前、両家の間で少々行き違いがあった貴族への配慮。
どうやら、お嬢様は相当な範囲まで準備をなさっているようですね。
「ところで、お嬢様。これは、すべてお嬢様がお考えになったのでございますか?」
「ええ。でも、実際に準備するのは侯爵家の使用人たちよ。私は、少し相談に乗っているだけなの」
……なるほど。
確かに、実際に茶会を整えるのは侯爵家の使用人たちなのでしょう。
ですが、誰を招待するか、誰と誰を近くに座らせるか、どなたに特別な配慮が必要なのか。
そういったことを、事前に調整するのも大切なお仕事です。
私は長年メイドをしてまいりましたから、その大変さはよく分かります。
「お嬢様は、ローレンス様のお仕事も、ずいぶんとお手伝いなさっているのですね」
「そうかしら?」
「はい」
「でも、私が好きでしていることだから」
リリアルネ様は、嬉しそうに微笑まれた。
「将来、夫婦になるのでしょう?だったら、今から支え合っていきたいの」
……まあ。
そうでございましたか。
それでしたら、私も、できる限りのお手伝いをいたしましょう。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それからしばらくして。
私は、お嬢様から少し変わったお願いを受けました。
「エナメル。私が普段しているお仕事を、もう少し整理したいの。手伝ってもらえるかしら?」
「ええ。もちろんでございます」
「最近、いろいろなことを頼まれるようになって、少し混乱しているのよ」
……なるほど。
確かに、お嬢様のお仕事は増える一方でございます。
私は、普段の予定表や、これまでにやり取りした手紙を確認し、お嬢様が担当していらっしゃる仕事を整理することにいたしました。
伯爵家の領地に関するお仕事。
社交に関するお仕事。
慈善事業。
そして、ローレンス様や侯爵家に関係するお仕事。
一つ一つ確認していると、思った以上の量になってしまいました。
「……まあ」
「どうしたの、エナメル?」
「お嬢様。こちらをご覧くださいませ」
私は、整理した帳面をお嬢様へお渡しした。
「これは……?」
「お嬢様が、これまでになさってきたお仕事でございます」
リリアルネ様は、帳面を開かれた。
そして、目を丸くされた。
「……こんなに?」
「はい」
「でも、私、そんなに大変なことをしていたつもりは……」
「お嬢様にとっては、どれも大切な方々のためになさった、当たり前のことだったのでしょうね」
私は微笑んだ。
「ですが、当たり前のことだからといって、手間や苦労がなくなるわけではございません」
お嬢様は、黙って帳面を見つめていらっしゃった。
その中には、ローレンス様のために行った仕事も、数多く記されております。
侯爵家の茶会に関する調整。
ローレンス様が担当することになった商談の事前準備。
親族間で意見が食い違った際の仲介。
そのほかにも、細かな仕事がいくつもございました。
「……私、あの人のために、こんなにいろいろなことをしていたのね」
「そうでございますね」
「でも、あの人が困っていたから、放っておけなかったの」
「はい」
「……好きだったから」
そうおっしゃって、お嬢様は少し寂しそうに笑われた。
私はしばらく考えてから、一つお尋ねした。
「では、お嬢様。ローレンス様は、お嬢様のために、どのようなことをしてくださったのでしょう?」
「……え?」
「今後のお仕事を整理するためにも、両家で分担していらっしゃることを確認しておきたいのでございます」
「あの人が、私のために……」
リリアルネ様は、しばらく考えていらっしゃった。
「エナメルの言いたいこと、わかるわよ。ローレンス様が私にしてくださったことは、ないわ」
お嬢様はポツリとそうつぶやいた。
「……昔は、優しかったの」
「私が泣いていると、いつも慰めてくれたの」
お嬢様は、懐かしそうに微笑まれた。
「子供の頃、私が大切にしていた髪飾りをなくしてしまったことがあったの。あの人、一緒に暗くなるまで探してくれたのよ」
「まあ」
「私、本当に嬉しかった。それから、ずっと好きだったの」
……なるほど。
そういうことがあったから、今のローレンス様の振る舞いにも耐えていらっしゃるのですね。
「だから、お父様から婚約のお話をいただいたときも、私からお願いしたの。ローレンス様と結婚したいって」
「お嬢様ご自身が、お選びになったのでございますか?」
「ええ」
リリアルネ様は、静かにうなずかれた。
「私が選んだ人なの。だから……」
そこで、言葉が途切れた。
しばらくして、お嬢様は俯かれた。
「だから、私が我慢しなくちゃいけないと思っていたのかもしれないわ」
……そうでございましたか。
私は、お嬢様のお茶を新しくお淹れした。
「お嬢様」
「なあに?」
「一度お選びになったからといって、生涯、そのお考えを変えてはならないということはございませんよ」
「……エナメル?」
「もちろん、今もローレンス様をお慕いなのでしたら、そのお気持ちを大切になさってくださいませ」
私は、お茶を差し出した。
「ですが、お嬢様ご自身のお気持ちも、同じくらい大切になさっていただきたいのです」
リリアルネ様は、何もおっしゃらなかった。
ただ、しばらくの間、お茶の表面を見つめていらっしゃいました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから、数日後。
私は、お嬢様のお供として、グランツ侯爵家を訪れておりました。
近く開かれる商談会について、最終的な確認をするためでございます。
ところが。
「ローレンス様。その方は?」
お嬢様のお声が、少し震えていた。
ローレンス様の隣には、若いご令嬢がいらっしゃった。
最近、ローレンス様が親しくなさっている女性です。
どうやら、その方を、今回の商談会にも招待なさるおつもりだったようですね。
しかも、ローレンス様のお隣の席へ。
「何か問題でもあるのかい?」
「ですが、そこは、本来でしたら……」
「君の席だったと言いたいのか?」
「……はい」
「だったら、別の席に座ればいいじゃないか」
……まあ。
私は、お嬢様のお顔を拝見した。
とても悲しそうでございます。
「ローレンス様。私は、あなたの婚約者です」
「分かっているよ」
「では、どうして……」
「まったく。君はいつもそうだな」
ローレンス様が、うんざりしたようにため息をつかれた。
「僕がほかの女性と親しくすることが、そんなに気に入らないのかい?」
「……気になります」
「だから、結婚するのは君だと言っているじゃないか」
ローレンス様は、隣にいた女性を見て、笑われた。
「僕は君の家に婿入りするんだぞ?それで十分だろう」
お嬢様は、何もおっしゃらなかった。
そして、しばらくして。
「……そうですか」
小さく、そう呟かれた。
私は、そのお声を聞きながら、少し気になることがございました。
ローレンス様は、以前から、何度も婿入りについてお話しになります。
それも、まるでご自分が大きな恩恵を与えているかのように。
……どうしてなのでしょうね。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その理由を、私は思いがけないところで知ることになりました。
ある日、侯爵家の使用人たちと、社交行事の準備について打ち合わせをしていたときのことです。
隣のお部屋から、若い男性たちの笑い声が聞こえてまいりました。
どうやら、ローレンス様と、そのご友人方のようですね。
「いやあ、ローレンス。お前はいいよな!」
「何がだ?」
「将来は裕福な伯爵家に婿入りだろう?苦労しなくても贅沢な暮らしを享受できるじゃないか!」
「……ふん」
「しかも、あの令嬢はお前にべた惚れなんだって。うらやましい。だけど、結婚したら束縛されるんじゃないか」
「ははは!」
ご友人たちの笑い声が響いた。
けれど、ローレンス様だけは笑っていらっしゃらないようでした。
「……僕は、侯爵家の次男だぞ」
「分かっているって!」
「別に、あの女に養ってもらうわけじゃない」
「まあ、そうかもな」
「むしろ、僕の方が選んでやったんだ。あいつは昔から僕に夢中なんだからな」
「おお、言うじゃないか!」
再び笑い声が上がった。
……なるほど。
どうやら、そういうことでございましたか。
ローレンス様は、ご自分が婿入りする立場であることを、あまり快く思っていらっしゃらないようですね。
侯爵家の長男は、いずれ侯爵家を継ぐ。
けれど、次男であるローレンス様には、独立した領地も爵位もございません。
そのため、アーデル伯爵家への婿入りは、将来の生活を考えるうえでも、ありがたいお話のはずなのです。
ですが、ご本人は、そうは考えていらっしゃらないのでしょう。
……人の心とは、なかなか難しいものでございますね。
もっとも。
だからといって、お嬢様を傷つけてよい理由にはなりませんけれど。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そして、ついに、その日がやってまいりました。
「エナメル。お父様に、お話ししたいことがあるの」
「はい。何でございましょう?」
お嬢様は、私をまっすぐに見つめられた。
「……ローレンス様との婚約を、解消したいの」
まあ。
私は静かに一礼した。
「承知いたしました。旦那様へお伝えいたします」
リリアルネ様は、少しだけ目を伏せられた。
「私、ずっとあの人のことが好きだったの」
「はい」
「子供の頃から、あの人と結婚することが夢だったわ」
「そうでございましたか」
「でも……」
お嬢様の目から、一粒の涙がこぼれた。
「……もう、疲れてしまったの」
私は、しばらく黙ってお嬢様のお話を聞いておりました。
そして。
「お嬢様」
「なあに?」
「これまで、本当によく頑張ってこられましたね」
その一言で、お嬢様は泣き出されてしまいました。
私は、いつものようにお茶をお淹れし、泣きやまれるまで、そばでお待ちしたのでございます。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
アーデル伯爵は、お嬢様から婚約解消の希望を聞かれると、深くうなずかれました。
「……そうか。ようやく決心したのだな」
「お父様……」
「実は、以前から気になっていたのだ。ローレンス殿の振る舞いには、少々問題があると思っていた」
旦那様は、娘の顔を見つめられた。
「何度か婚約の見直しを提案したこともあっただろう?」
「……はい」
「だが、そのたびに、お前は婚約を続けたいと言っていた」
「……申し訳ございません」
「謝る必要はない」
旦那様は、静かに首を振られた。
「私も、侯爵家との関係を考え、しばらく様子を見ていた。だが、お前がこれ以上傷つくのであれば、話は別だ」
そして、力強くおっしゃった。
「婚約解消の交渉は、私に任せなさい」
「お父様!」
こうして、両家の間で婚約解消の話し合いが始まったのでございます。
もちろん、貴族同士の婚約でございます。
本人同士が別れると言っただけで、すべてが終わるわけではございません。
これまで交わされてきた約束の整理や、両家の関係についても話し合う必要があります。
ただ、今回の件については、グランツ侯爵家も事情を把握なさっていたようです。
ローレンス様が婚約者以外の女性と親しくしていたことも、今回が初めてではございません。
そのため、侯爵家の旦那様は正式に謝罪なさり、両家の合意によって婚約は解消されました。
もっとも。
一人だけ、納得なさっていない方がいらっしゃったようですが。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
これは、後日、侯爵家の方から伺ったお話でございます。
「何だと!?婚約解消だと!?」
ローレンス様は、ご自分の父君から話を聞き、大変驚かれたそうです。
「そんな馬鹿な!リリアルネが、僕との婚約を解消するはずがない!」
「だが、先方から正式に申し入れがあったのだ」
「何かの間違いでしょう!」
「間違いではない」
侯爵様は、厳しい表情でおっしゃった。
「お前が、何度も婚約者を傷つけたからだ」
「ですが、父上!」
「お前には、あれほど相手の家を尊重するように言っておいたはずだ!」
「僕は侯爵家の人間です!伯爵家へ婿入りしてやるというのに!」
「……お前は、何を勘違いしているのだ?」
侯爵様は、大きくため息をつかれた。
「お前が伯爵家へ婿入りすることは、こちらにとっても大きな利益があったのだぞ」
「……え?」
「お前は次男だ。侯爵家を継ぐのは兄だぞ。将来、どのように身を立てるつもりだったのだ?」
ローレンス様は、言葉を失われたそうです。
「そんな」
「今回の縁談は、お前にとってもありがたいものだったのだ。それを自分で壊したのだぞ」
……まあ。
これは、なかなか厳しいお話でございますね。
ただ、侯爵様がおっしゃることも、もっともだと思います。
婚約というものは、双方にとって意味があるからこそ結ばれるものです。
一方だけが、相手に恩恵を与えているわけではございません。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
さて、婚約が解消されてから、数か月が経ちました。
お嬢様は、少しずつ元気を取り戻していらっしゃいました。
もちろん、長年慕っていた婚約者との別れです。
最初の頃は、ふとした拍子に寂しそうなお顔をなさることもございました。
ですが、最近では笑顔を拝見する機会も増えてまいりました。
そして、以前よりも、領地のお仕事に熱心に取り組んでいらっしゃるようです。
その中で、ある男性とお会いする機会が増えました。
フォルド子爵家の次男、セドリック様。
この方は、商人たちの輸送や、街道の整備に関係するお仕事をなさっている男性でございます。
以前から、アーデル伯爵家の領地ともお付き合いがあったそうです。
現在、お嬢様は領地で生産される果実や農産物を、より多くの町へ届けるための仕組みを考えていらっしゃいました。
ところが、輸送に使う橋の補修が必要になり、商人たちとの調整が難航していたのです。
その際、セドリック様が協力を申し出てくださいました。
「この道が使えない間は、南側の街道を利用する方法があります」
「ですが、そちらは通行に余分な費用がかかるのでは?」
「ええ。そこで、いくつかの商会と交渉してみました。荷物をまとめて運ぶのであれば、費用を抑えられそうです」
「まあ。それなら、助かります!」
お嬢様は、嬉しそうに微笑まれた。
セドリック様も、穏やかに笑われた。
「ただし、まだ解決していない問題もあります。そこは、これから一緒に考えていただけますか?」
「ええ。もちろんです!」
……ふふ。
どうやら、お二人はお仕事の相性がよろしいようですね。
私は、そんなお二人のために、お茶をお淹れすることにいたしました。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとうございます」
セドリック様は、私にも丁寧に頭を下げてくださった。
そして、茶器を手に取られると、
「ああ。これは、おいしいですね」
と微笑まれた。
「ありがとうございます」
「リリアルネ様のお屋敷のお茶は、いつも楽しみなのです」
……まあ。
それは、嬉しゅうございますね。
私は、静かに一礼した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それからも、セドリック様は何度かお屋敷を訪ねてこられました。
最初は、領地のお仕事についてのご相談ばかりでございました。
ところが、少しずつ、お仕事以外のお話も増えてきたようです。
お好きな食べ物。
幼い頃のお話。
これまで訪れた町のこと。
時には、お二人で楽しそうに笑っていらっしゃることもございました。
……ふふ。
これは、もしかすると。
私は、そんなことを考えておりました。
そして、ある日のことです。
「リリアルネ様。少し、お話ししたいことがあります」
セドリック様が、真剣な表情でおっしゃった。
「はい。何でしょう?」
「実は……」
少し言いよどんでから、セドリック様は深く頭を下げられた。
「私と、婚約していただけませんか?」
「……え?」
リリアルネ様は、驚いていらっしゃった。
無理もございません。
まさか、お仕事の相談をなさっていた方から、突然そのようなお話が出るとは思っていらっしゃらなかったのでしょう。
「セドリック様……本気でおっしゃっていますの?」
「はい」
「ですが、私は……」
「以前の婚約のことは存じております」
セドリック様は、静かにおっしゃった。
「もちろん、今すぐお返事をいただこうとは思っておりません」
「……そうですか」
「ですが、私はあなたと一緒に生きていきたいと考えています」
リリアルネ様は、しばらく黙っていらっしゃった。
そして。
「……一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「ええ。もちろんです」
お嬢様は、セドリック様をまっすぐに見つめられた。
「では、あなたと婚約を結ぶメリットを教えてください」
……まあ。
これは、また。
ずいぶんと率直なご質問でございますね。
私は、お茶をお淹れする手を止めかけました。
ところが、セドリック様は怒るどころか、少し考えてからうなずかれたのです。
「そうですね。では、まず家同士の利益からお話ししましょう」
「……はい」
「私の実家は、南部の街道に関係する商人たちと長年付き合いがあります。もちろん、私の一存で商会を動かせるわけではありませんが、交渉の窓口としてはお役に立てるでしょう」
「なるほど」
「また、私は家督を継ぐ立場ではありません。ですから、あなたの家へ婿入りすることにも、問題はありません」
「そうですか」
「それに、私はこれまで輸送や商業の調整を仕事にしてきました。あなたが伯爵家を継いだあとも、領地の物流や商人との交渉で、お手伝いできることがあると思います」
セドリック様は、そこで少し笑われた。
「もっとも、私にも利益はあります」
「と、おっしゃいますと?」
「伯爵家へ婿入りできれば、私自身の立場も安定しますし、これまでより大きな仕事を任せていただけるかもしれません」
「ずいぶんと正直でいらっしゃるのね」
「隠しても仕方ありませんから」
セドリック様は、少し照れたように笑われた。
「ですが、ここまで申し上げたのは、家同士の話です」
「では、ほかにも?」
「はい」
セドリック様は、お嬢様をまっすぐに見つめられた。
「私は、あなたを愛しています」
「っ!」
お嬢様のお顔が、見る見る赤くなっていきました。
「以前から、あなたが領地の人々のために努力していらっしゃることを、知っておりました」
「……はい」
「困っている人がいれば、何とか助けようとなさる。けれど、ご自分だけですべてを解決しようとせず、周囲の人の力も借りることができる」
セドリック様は、穏やかに微笑まれた。
「私は、そんなあなたを尊敬しています」
「セドリック様」
「そして、できることなら、これからもあなたのそばにいたいのです」
お嬢様は、何もおっしゃらなかった。
セドリック様は続けられた。
「もちろん、あなたが伯爵家を継ぐのであれば、私はその夫として支える立場になるでしょう」
「そのことに、不満はございませんの?」
「なぜですか?」
「私の方が、家の当主になるのですわよ?」
セドリック様は、少し不思議そうに首をかしげられた。
「あなたが優秀であることと、私自身の価値は、別の話ではありませんか?」
「……え?」
「あなたには、あなたにしかできないことがあります。私には、私にできることがある」
セドリック様は、優しく微笑まれた。
「お互いに得意なことを引き受け、困ったときには相談する。そういう夫婦になれたら、素敵だと思うのです」
……まあ。
なんと。
私は、思わず微笑んでしまいました。
「ただ、一つだけ、お願いしたいことがあります」
「……何でしょう?」
「あなたが困ったとき、私にも頼ってください」
セドリック様は、少しだけ真剣なお顔になられた。
「私ばかりが、あなたに助けていただくのではなく、私もあなたを支えたいのです」
リリアルネ様は、しばらくセドリック様を見つめていらっしゃった。
そして、ゆっくりとうなずかれた。
「……ありがとうございます」
お嬢様のお顔には、少しだけ涙が浮かんでおりました。
「お返事は、もう少しお待ちいただけますか?」
「ええ。もちろんです」
セドリック様は、穏やかに微笑まれた。
「あなたが納得できるまで、お待ちしております」
……ふふ。
どうやら、こちらのお話は、よい方向へ進みそうでございますね。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
さて。
その頃、ローレンス様は、なかなか大変な状況になっていらっしゃったようです。
婚約が解消されたことで、これまで予定されていた伯爵家への婿入りは白紙となりました。
侯爵家は、もちろん、それだけで困窮するような家ではございません。
ですが、ローレンス様個人の将来については、話が別です。
ご自分の領地も爵位もない次男として、これから何をするのか。
改めて考えなければならなくなったのです。
しかも、以前はリリアルネ様が個人的にお手伝いしていたお仕事も、当然ながら、今後は引き受けてもらえません。
侯爵家の使用人たちは、きちんと仕事をしていらっしゃいます。
ですが、お嬢様が独自に調整していた商人との関係や、貴族同士の細かな仲介まで、すぐに代わりを用意できるわけではございません。
そのため、ローレンス様が担当していたお仕事にも、少しずつ影響が出てきたのだそうです。
「……おかしい」
ある日、ローレンス様は、そう呟かれたとか。
「以前は、こんなに面倒なことはなかったはずだ」
ですが、以前と今とでは、一つ大きな違いがあります。
以前は、リリアルネ様が、ローレンス様のために影から支えて来れられた。
今は、そうではない。
ただ、それだけのことなのです。
……もっとも。
どうやらローレンス様は、まだそのことにお気づきではなかったようですね。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
そして、ある日のこと。
リリアルネ様と私は、王都の商業地区へ出かけておりました。
領地で生産される品物の取引について、商人たちとお話しするためでございます。
お嬢様は、最近ではすっかり元気を取り戻されました。
「エナメル。今日の商談が終わったら、少しお菓子を買って帰りましょうか」
「まあ。それはよろしゅうございますね」
「あなたにも、いつもお世話になっているもの。何か好きなものを選んでちょうだい」
「ありがとうございます」
……ふふ。
お嬢様は、本当にお優しい方でございますね。
そんなことをお話ししながら、通りを歩いていたときのことです。
「リリアルネ!!」
突然、大きな声が響いた。
振り返ると、そこにはローレンス様がいらっしゃいました。
……まあ。
これはまた、ずいぶんと久しぶりでございますね。
「ローレンス様……」
お嬢様が、少し驚いたように立ち止まられた。
ローレンス様は、息を切らせながら、こちらへ歩み寄ってこられた。
「ようやく見つけたぞ!」
「……私に、何かご用でしょうか?」
「何かご用、だと!?」
ローレンス様は、信じられないといった表情を浮かべられた。
「君は、僕との婚約を解消したじゃないか!」
「……はい」
「どうして、そんなことをしたんだ!?」
リリアルネ様は、しばらく黙っていらっしゃった。
そして。
「以前にも、お伝えしたはずです」
静かな口調で、
「私は、あなたがほかの女性と親しくなさることが、とてもつらかったと」
「だから、あれは遊びだと……!」
「ええ。何度もそうおっしゃっていましたね」
「だったら……!」
「ですが、私は、それに耐えられなくなりました。だからあなたを愛せなくなったのです」
お嬢様は、はっきりとおっしゃった。
「それだけのことです」
……まあ。
お嬢様。
ずいぶんと、しっかりなさいましたね。
私は、少し嬉しくなってしまいました。
ところが、ローレンス様は、納得なさらなかったようです。
「ふざけるな!」
その声に、通りを歩いていた人々が振り返った。
「君は、僕のことがずっと好きだったじゃないか!」
「……はい。以前は」
「以前は?くっ!もう、意地を張らないでくれ。最近、執務も思うようにいかないんだ。前のように僕を支えてくれ」
「……私を必要としてくださるのは、執務のためなのですか?」
ローレンス様は、言葉に詰まられた。
けれど、すぐに声を荒らげられた。
「そ、そんなわけないだろう!!それに、僕は君の家へ婿入りしてあげるつもりだったんだぞ!?」
してあげる。
その言葉に、お嬢様はピクっとされましたが、冷静でした。
「はい」
「君だって、それを望んでいたはずだ!」
「……ええ」
「だったら、もう一度婚約すればいいじゃないか!」
……まあ。
どうやら、まだ現実が呑み込めていないご様子です。
私は、静かにお嬢様のお顔を拝見した。
お嬢様は、驚いていらっしゃった。
ですが、以前のように泣いてはいらっしゃいません。
「……ローレンス様」
「何だ!」
「私は、もうあなたと婚約するつもりはありません」
その言葉を聞いて激昂したローレンス様は、突然、お嬢様の手首をつかまれた。
「そんなこと!許さないぞ!君は僕のものだ!!」
「痛っ!」
……あら。
これは、いけませんね。
私は、静かに一歩前へ出た。
「失礼いたします、ローレンス様」
「何だ!使用人は引っ込んでいろ!」
「ですが、お嬢様が痛がっていらっしゃいますので」
私は、ローレンス様の手首へ、そっと指を添えた。
長年、身体の動きや魔力の流れを読むことに慣れていましたので、相手がどこへ力を込めようとしているのか、分かるのです。
ローレンス様は、お嬢様の腕を強く引こうとしていらっしゃいました。
ならば、その力の向きを、ほんの少し変えて差し上げれば……
ローレンス様の手首に軽く触れ、肘の向きをわずかにずらした。
「……うわっ!?」
ローレンス様の手が、するりとお嬢様から離れた。
男性は、勢い余って一歩前へよろめかれた。
「な、何をした!?」
「別に何も。ただ、お嬢様のお手から離していただいただけでございます」
私は、静かに一礼した。
「どうぞ、お話をお続けくださいませ」
……ふふ。
これくらいでしたら、お怪我をさせる心配もございませんね。
ローレンス様は私を警戒なさったのか、それ以上、力ずくで迫ってくることはありませんでした。
私は、お嬢様の隣へ戻った。
すると、リリアルネ様が小さな声でおっしゃった。
「……ありがとう、エナメル」
「いいえ。これもメイドのお仕事でございますので」
お嬢様は、少しだけ微笑まれた。
そして、改めてローレンス様へ向き直られた。
「ローレンス様」
「何だ!?」
「あなたは、もう一度、私と婚約したいとおっしゃいましたね?」
「……ああ」
ローレンス様は、少しだけ表情を和らげられた。
どうやら、お嬢様のお気持ちが変わったと思われたのでしょう。
「そうだよ。僕たちは、昔から一緒だったじゃないか」
「……ええ」
「だったら、今さらほかの男と結婚する必要なんてないじゃないか!」
……まあ。
どうして、そこでほかの男性のお話が出てくるのでしょうね。
もしかすると、セドリック様のことを、どこかでお聞きになったのかもしれません。
「今からでも遅くない。もう一度、婚約しよう!今度は君を大切にする!!」
……まあ。
今度は大切にする、とおっしゃいましたが、お嬢様を愛しているとは、一言もおっしゃいませんでしたね。
それよりも、ご自分の執務や婿入りのお話ばかり。
……困った方でございますね。
お嬢様は、しばらくローレンス様を見つめていらっしゃった。
そして、静かに微笑まれた。
「……そうですか」
「そうだ!君だって、その方がいいだろう?」
「……一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「何だい?もちろん、何でも聞いてくれ!」
ローレンス様は、余裕を取り戻されたように笑われた。
きっと、以前のお嬢様であれば、これで話は終わっていたのでしょう。
幼い頃から好きだった男性。
自分から望んで婚約した相手。
何度傷つけられても、いつか昔のような優しい方へ戻ってくださると信じていた。
……ですが。
今のお嬢様は、もう違います。
私は、お嬢様がこれまでになさってきたことを知っております。
ご自分の家のために。
領地の人々のために。
そして、大好きだった婚約者のために。
誰にも気づかれないような、小さなお仕事まで、ずっと続けてこられたのです。
そして今、お嬢様は、かつて愛した男性に対しても、ご自分の意思で未来を選ぼうとなさっているのです。
私は、静かにお嬢様の隣へ控えた。
リリアルネ様はニッコリ笑って、
「では、あなたと婚約を結ぶメリットを教えてください」




