寝床
同じ白いシーツを二枚、洗濯機に入れた。洗濯槽はほとんど埋まる。
仕事がなくなったので、この部屋も引き払う。来週までに出ていく約束で、引っ越しは今日の午後。シーツはこのダブルベッドに合わせて買ったものだから、ベッドといっしょに置いていく。
洗濯機の表示は、残り五十分だ。
***
この部屋に住む前は、京都の小さなアパレル会社にいた。社内のパソコンまわりと仕事の仕組みを、一人で任されていた。そこそこ大きな会社からの転職だった。社長は四十代で、代々西陣の織物を扱ってきた家の会社を、父親から継いでいる。
入ったころ、伝票は手書きで、取引先との注文はFAXでやりとりしていた。仕事の手順は、事務の四人の頭の中にしかない。やり方を聞いて、パソコンで入力できるようにした。注文も取引先とパソコンでやりとりするように替えて、FAXは一台を残して片付けた。月末に四人が残業してやっていた集計は、いらなくなった。
説明に行くと、社長は画面をのぞきこんで言った。
「うちは昔から、穴のあいた紙で織機を動かしてたんや。紋紙いうてな。コンピュータみたいなもんや」
指で紙に穴をあける手つきをして、笑った。紋紙は、西陣織の柄を織機に伝える穴あきの厚紙だ。
事務の四人のうち三人は、そのころから口をきいてくれなくなった。電話は取り次いでもらえなくなり、共有の予定表からは名前が消されていた。松井さんだけは加わらなかったが、止めもしなかった。
「あんたが来たせいで」
新しい入力画面の前で、いちばん古くからいる人がそう言った。続きはなかった。
入って一年ほどで、辞めたいと社長に伝えた。
***
社長は理由を聞かなかった。かわりに食事に誘われた。店は上七軒という花街にあって、社長の家が昔から使っているという。
「次は、もう決まってるんか」
猪口を置いて、社長が尋ねた。まだです、と答えた。
「辞める理由には、人のこともあるやろ。社員やのうて、外から手伝うてもらう形でどうやろ。なんかあったときに相談させてもらえたらありがたいんやけどな」
それから、結婚の予定はあるのか、付き合っている人はいるのか、と聞かれた。どちらもないと答えた。恋愛は向いていないみたいです、と付け足して笑った。
「そうか。それやったら」
少し間を置いて、話を続けた。
言葉は遠回しだったが、中身ははっきりしていた。いまの給料より少し多い額を、毎月お手当として出す。投資用に買ってあるマンションに住んでいい。社長もときどきそこに泊まる。いないときは、好きにしていい。
その場では返事をしなかった。上七軒から帰るバスの中で、断る理由を探した。これは自分のすることではないと思った。辞めた会社の社長に面倒を見てもらうのも、気が進まない。
だけど、貯金は半年ほどでなくなる。実家には帰りたくない。新しい職場で人間関係を作る煩わしさを思うと、いますぐに働く気にはなれない。社長はこれまで、一度も声を荒げたことがなかった。社長と話す日には化粧に時間をかけていた。いないときは好きにしていい、という一言も頭に残っていた。
三日後、社長に電話をかけた。翌月付けで、辞めた会社と業務委託の契約を結んだ。契約書の業務の欄には、社内システムに関するコンサルティング、とあった。
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それまで使っていたベッドは、引っ越す前に粗大ごみに出した。
投資用のはずの部屋には、小花柄のカーテンが掛かっていた。寝室には大きなベッドがあって、シーツまで敷いてあった。洗ってはあるようだったが、気持ちが悪かった。それを剥がしてごみ袋に入れ、口を固く縛ってから、シーツを買いに出た。
入居して三日目の夜に、社長が初めて泊まった。寝室のスイッチは、ドアから離れたカーテンの陰にある。社長は探しもせずに手を伸ばして、明かりを消した。
***
最初の数か月、社長は週に一度か二度泊まっていった。二人とも朝は遅かった。温泉に連れていってくれたこともある。シーツは週末にまとめて洗う。社長が帰ったあとも替えずに、次の週末まで同じシーツで寝た。
夏が近づくころから、社長は泊まらなくなった。忙しくなった、と言っていた。来るのは週に一度、夜になった。帰る前にはシャワーを浴びていく。いる時間は三時間になり、しばらくして一時間半、そのうち四十分になった。
社長が帰ると、シーツを剥がすようになった。まだ湿っているのを丸めて、洗濯機まで運ぶ。ラブホテルで部屋を片付ける人も、同じことをしているのだろう。
最初は恋愛のつもりでいた。社長に奥さんがいることは、会社にいたころから知っている。婚外の、という前置きはつく。毎月のお金も、好きな人からの気持ちとして受け取っていた。
でも、社長がいる時間は減っていく。お手当の額は、最初から変わっていない。時給に直してみると、会社にいたころの何十倍にもなった。四十分のうち、話をしている時間はほとんどない。これでは娼婦と変わらないのではないか、と思った。
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ある晩、帰り際に靴を履きながら、社長が言った。
「そういえば、会社のシステムの調子が悪いみたいなんや。いっぺん見てくれへんか」
契約書に書いてある仕事を、そのとき初めて頼まれた。
翌日、会社のシステムを開いた。辞めたときのIDとパスワードで、そのまま入れた。
伝票が何件も、事務の三人の確認待ちのまま止まっていた。私が辞めた二か月ほどあとに、三人揃って辞めていた。事務は松井さん一人になっていて、毎晩十一時過ぎまで入力をしていた。
会計のデータには、取引先として私の名前があった。複合機のリース会社や電話回線の会社と並んで、毎月同じ額が外注費として出ている。辞めた三人の給料を合わせた額と比べてみた。その半分ほどが、私への外注費になっている。残りの半分は、社長の報酬に上乗せされていた。
確認する人の欄にあった三人の名前を、松井さんに置き換えた。
次に社長が来た晩、直しておきました、とだけ伝えた。
「おおきに。助かったわ」
ネクタイをゆるめながら言った。ほかのことは聞かれなかった。
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亮とは、そのころ、友人の結婚式の二次会で知り合った。
上七軒の店では、付き合っている人はいないと答えている。嘘ではなかった。亮に食事に誘われたとき、少し迷った。社長に知られたら、部屋もお手当もなくなるかもしれない。でも、社長はいないときは好きにしていいと言っていた。ほかに男を作るなとは言わなかった。いいとも言わなかったけど。お手当に見合う「仕事」はしている。社長には奥さんがいる。考えた末に、行くと返事をした。亮とのことを何と呼ぶかは、考えないことにした。
亮と会うようになってからは、どちらかが来る前にシーツを替えた。どの夜も同じに見えるよう、同じ白いシーツをもう一枚買い足した。角を三角に折り込むシーツの掛け方も、動画を見て覚えた。
初めて来た日、亮は中を見回して、いいところに住んでるな、と言った。そうでしょ、とだけ答えた。亮を泊められない日には、仕事の都合だと言った。
「いつもシーツ、パリッとしてるな」
ベッドに寝転がって、亮が言ったことがある。自分が来るから替えていると思っているようだった。
一度、社長がシーツの端を指でつまんだ。
「もうちょっとええ綿にしたらどうや。これ、目が粗いわ」
生地を触り慣れた人の手つきだった。そのシーツは洗いすぎて、角の縫い目がほつれかけていた。ほつれのことは何も言わず、綿の産地の話を少しした。
***
紅葉の季節の土曜日に、亮と出かけた。社長は週末を家族と過ごすので、土曜日はたいてい空いている。蹴上の駅で降りて、インクラインの線路跡から南禅寺を回り、岡崎まで歩いた。
美術館は、企画展の会期末で、入口の外まで列ができていた。二十分ほど並んでから、あきらめて列を抜けた。歩いてすぐの動物園の前のカフェで休んだ。
亮はコーヒーを飲みながら、スマートフォンで動物園のことを調べていた。
「ゴリラがいるって。近畿ではここだけらしい」
店を出て、そのまま入園券を買った。
ゴリラの運動場には、太い柱が何本も立ち、ロープが渡してあった。柱の根元で、一頭が何かを食べていた。亮はまたスマートフォンを見ていた。
「野生のゴリラは、毎晩、木の枝で寝床を作るって書いてある。朝そのまま置いていって、夜また別の場所で作る」
「毎晩?」
「毎晩。引っ越しばっかりだな」
亮が笑ったので、つられて笑った。
***
年明けのある晩、社長は「仕事」のあとで帰らなかった。
「お腹空いてへんか。久しぶりに外で食べよか。ちょっと話もあるし」
シャツのボタンを留めながら、そう言った。
何の話かは、聞く前から見当がついた。この二か月、お手当の振り込みが遅れている。先月の分は、期日の十日後に入った。話を先にされていたら、今夜の「仕事」は断っていた。
社長と、駅の近くの安い中華料理屋に入った。カウンターだけの店で、上七軒の店とは値段の桁が一つ違う。
「着物のほうがな、あかんようになってしもて。うちの商売は、昔からこういうもんなんや」
ビールのグラスを見たまま言った。
話は三つだった。マンションは手放す。来月の半ばまでに出てほしい。お手当は今月で終わりにさせてほしい。
「君やったら、すぐ次の仕事見つかるやろ。知り合い、紹介しよか」
働き口のことなのか、次の相手のことなのか、聞き返さなかった。
店を出ると、社長はタクシーを止めた。私は歩いて帰った。
***
亮には、この部屋で話した。その日も、来る前にシーツは替えた。
「仕事がなくなったから、ここを出ないといけない」
亮はベッドの端に腰かけていた。
「仕事の関係で、ここに住んでたのか」
私はうなずいた。亮はあたりを見回した。カーテンを見て、それからベッドを見た。
「泊まれない日は、仕事の都合、だったよな」
「うん」
「仕事って、そういう仕事か」
亮は手のひらで、シーツの表をなでた。
「いつもパリッとしてたの、俺が来るからじゃなかったのか」
私は答えなかった。亮は、はは、と短く笑った。
「動物園のゴリラみたいだな。囲われてさ、寝床だけ毎晩作り直して」
軽い声だった。言ってから、亮はしばらく自分の手元のシーツを見ていた。冗談の形にしてくれたのだと思う。そうかもね、と小さく笑った。
ここを出るなら、次はどこに住むのかという話になる。亮がそれを尋ねるのを待っていた。亮の家には、一度も行ったことがない。一人暮らしをしていると聞いている。
亮は何も尋ねなかった。うちに来れば、とも言わなかった。
誘われても、行ったかどうかは分からない。だけど、やっぱり言ってほしかった。
その夜、亮は泊まらずに帰った。
***
洗濯機が止まった。二枚をベランダに干した。晴れていて風もあるので、引っ越し業者が来る二時までには乾く。
亮からは、あの晩から連絡がない。こちらからもしていない。
乾いたシーツを一枚、ベッドに掛けた。角は三角に折り込んだ。もう一枚は畳んで、クローゼットの棚に置いた。
会社が本当に苦しいのかは、システムを開けば分かるけど、確かめなかった。まあ、長く続く話じゃなかった、と思うことにした。
業者が来た。ベッドは、部屋に残す。
外から鍵をかけ、部屋番号のついたポストに入れた。




