4話
舞踏会当日。
私は本宅へ行き、カンナに湯浴みを手伝ってもらったあと、一緒に離れへ戻った。
すると、彼女は手ぐすねを引き、笑みを浮かべた。
「さあ、奥様。こちらにお座りください」
そう言って、椅子を指した。
そして、いたずらっぽく目を細めている。
「今日こそは、あの黒縁眼鏡を外してのお出かけですからね」
私は少し苦笑してしまった。
「カンナ、ほどほどにしてちょうだいね」
そう念を押して椅子に腰を下ろした。
それからたっぷりと時間をかけて化粧を施され、髪は柔らかくハーフアップにまとめられた。
鏡に映った自分を見て、思わず息を呑む。そこにいたのは、まるで別人のような女性だった。
「我ながら完璧な出来です」
カンナは満足げに腕を組んでいる。
「それにしましても、まさか奥様がここまでお綺麗だったなんて……」
彼女は感嘆の声を漏らした。
私は少し照れながらお礼を言った。
「カンナ、ありがとう。お洒落って、こんなにも楽しいものなのね」
「奥様、これからはもっと楽しんでくださいね」
彼女は嬉しそうに言ったあと、ふいに悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「でも、奥様。このお姿は、旦那様には絶対にお見せにならないでくださいね」
そう言ってにっこりとした。
支度を終え、カンナが手配してくれた御者に馬車を出してもらい、私はアムール商会へ向かった。
店の前に着くと、リチャードさんがすでに外で待っておられた。
「すみません、お待たせしてしまいましたか?」
声をかけると、彼は一瞬、言葉を失い、驚きの表情を浮かべた。
「い、いえ……今、表に出たところです。お気になさらず」
そう言いながらも、まるで幻でも見たような顔をしている。
「本当にアリーシャ様ですか? あっ、失礼、ついお名前で呼んでしまいました」
「いいえ、そのままで結構です」
そう答えると、彼は少し微笑んでくれた。
「眼鏡の奥にある瞳を見て、美しい方だとは思っていましたが、まさかここまでとは」
彼は感嘆の声を漏らした。
その言葉に、私は頬が熱くなるのを感じた。
そして馬車に乗り込み、子爵邸へ向かう。
到着して外に降りると、リチャードさんが手を差し伸べ、エスコートしてくださった。
玄関から見える会場は、子爵邸とは思えないほどの華やかさだった。
大理石の床が光を反射し、窓の外には手入れの行き届いた庭園が広がっている。
会場の中には、すでに多くの紳士淑女が集まり、和やかに談笑していた。
そしてそんな中、私たちが会場に入ると、その場の空気が変わった。
数多くの視線が私たちに注がれていた。
「まあ、あのご令嬢は誰かしら?」
「確か、あの紳士はアムール商会の会長では?」
そんなささやきが広がっていくのが聞こえた。
ほどなくして、主催者である子爵家のご当主が挨拶に来られた。
「本日はお越しいただきありがとうございます。これはこれは、なんとお美しいご令嬢をお連れで」
リチャードさんは微笑んで応じた。
「こちらこそお招きありがとうございます。彼女は私の取引先のご令嬢です」
軽い会話を交わしながら和やかに過ごしていた。
暫くしてから彼は私を気遣ってくれた。
「アリーシャ様、飲み物を持ってまいります。どうぞこちらでお待ちください」
そう言って席を外した。
私はふと視線を窓辺へ向けた。そして息を呑む。
そこには、居るはずのない旦那様が、一人のご夫人をエスコートしていた。
笑みを浮かべ、まるで恋人のように寄り添っている。
(確かあの方、イースター男爵夫人では?)
思わず記憶を辿る。
そう、間違いない。つい先日、旦那様に頼まれて一緒に葬儀に参列したあの時の方だ。
そういえば、旦那様のお相手は皆、年上の方ばかり。
もしかして旦那様は、年上の女性にしか興味がないのかもしれない。
だとしたら、私のことなど最初から眼中にない。
ならば、変装してまで気を遣う必要なんてないのよね。
そんなことを考えていると、ちょうどリチャードさんが飲み物を持って戻ってきた。
私はそっと視線で旦那様の方を示すと、彼も気づいたらしく、わずかに目を見開いた。
「大丈夫です」
彼は私の耳元で静かに囁いた。
「今日の貴女が《奥様》であるとは、誰も気づきません。堂々としていらしてください」
しかしその時、旦那様がこちらに気づき、夫人を伴って近づいてきてしまった。
「これは、アムール商会の会長殿。先日は妻がお世話になった」
そう言ってから、私に目を向け、にこやかにしている。
「こちらは奥様ですかな? いや、実にお美しい方ですな」
「いえ、こちらは取引先のご令嬢でございます」
リチャードさんがすかさず応じた。
「そうでしたか、これは失礼。あまりにお似合いだったもので」
そのやり取りの間、私は一言も発さず、ただ静かに微笑んでいた。
心臓は早鐘のように鳴っていたが、表情だけは崩さないようにした。
旦那様が去ったあと、私は小さく息を吐いた。
「心臓が止まるかと思いました」
そう呟くと、リチャードさんはいたずらっぽく微笑んだ。
「言ったでしょう? 誰も気づきませんよ」
ニヤリと笑い、何故か得意げな様子だった。
その後は、何事もなかったように舞踏会が続いた。
久しぶりにダンスの輪に加わり、最初こそ少し戸惑ったが、すぐに身体が覚えていた感覚を取り戻した。
音楽に合わせてステップを踏むうちに、胸の奥に懐かしい喜びが蘇る。
『ああ、継母が来る前はこうして楽しんでいた頃もあったわ』と。
私は、いつの間にか、心から楽しんでいた。
誰の妻でもない、私だけの自由な時間。
舞踏会の終わり、リチャードさんは優しい眼差しを向けてくれた。
「今日は本当に素敵な夜でした。アリーシャ様が楽しそうで、私も嬉しいです」
(なんだか胸の奥がとても温かく感じるわ)
その後、彼は隣国の流行菓子の話などをしながら、私との会話を盛り上げてくれた。
こうして、長い夜は静かに過ぎていった。
だけど私の心には、今までにない確かな余韻が残っていた。
そう、《自由》という名の余韻が。




