16話
街の木々はすでに葉を落としていた。
私はまだロビンソン伯爵とクラーク卿への返事も出来ずに先延ばしにしていた。
そんな時リチャードさんから先触れがあり、私は彼の元へと急いだ。
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アムール商会の別館。その一室の窓辺に、リチャードは立っていた。
机の上には、いくつもの封書と、乱雑に置かれた様々な契約書。
それら、紙の束が、今の彼の状況を物語っていた。
アリーシャが訪れたとき、彼は微笑もうとした。けれど、失敗した。失敗したその微笑みには影があった。
「来てくださったのですね」
「ええ、財団の件でお話があると伺いました」
彼は椅子に座るよう、促した。そして、椅子を引く手は、わずかに震えていた。
「アリーシャ。私は貴女を危険に晒してしまった」
「危険?」
「財団の活動が、政界と商会の一部から反発を受けています。
[侯爵夫人を利用して私腹を肥やしている]
という噂が流されているのです。
資金の一部が凍結され、支援者も離れ始めた。
もうこれ以上、貴女を巻き込むわけにはいかない」
アリーシャは息を呑んだ。
しかしその瞳には、恐れよりも、悲しみが滲んでいた。
「噂など、真実ではありません。私たちがやって来たことは……」
「今となっては全てが理想です」
彼は静かに言葉を重ねた。
「ですが、理想だけでは、人は救えない。私にはまだ、力が足りなかった」
沈黙が続いた。
外では風が窓を叩いていた。
リチャードはゆっくりと立ち上がり、アリーシャの方を見た。
その瞳には、深い決意が感じられた。
「アリーシャ。貴女を解き放たせてください」
「……どういう意味ですか?」
「私はもう、貴女の隣にいて何もしてやれない。
財団も、貴女の人生も、私の力では守れないのです。だからせめて、自由でいてほしい。誰にも縛られないアリーシャとして。」
アリーシャは俯いた。
「そんなふうに言わないで。貴方がいたから、私はここまで来れた。理想があったからこそ頑張れたのです」
「そう言ってくれるのは嬉しい。だけど、これは私の終わりです」
彼は机の引き出しから一通の書状を取り出した。そこには、財団のすべての権限をアリーシャに委ねる旨が記されていた。
「これからは、貴女がこの理想を貫いてください。私は、少し遠くでそれを見守ります」
アリーシャの瞳が潤んだ。
しかし涙は落ちない。落としてはいけない、と本能が告げていた。
「リチャードさん。貴方がいなければ、この財団は生まれませんでした」
「いいえ。芽はもともと貴女の中にあった。私は、それを見つけただけです」
そう言って、彼は手を差し出した。
彼女も静かにその手を取る。
指先は冷たく、だけど確かに温もりが残っていた。
「ありがとう、アリーシャ。
貴女と過ごした時間は、私の人生で最も誇らしい日々でした」
彼の手がゆっくりと離れる。
その瞬間、アリーシャの胸の奥で何かが静かに砕けた。
彼女は小さく微笑んだ。
「さようならは言いません。だって、貴方の理想は、これからも私と共にありますもの」
リチャードは一瞬、目を閉じ、それから穏やかに頷いた。
外では雨が降り始めていた。
灰色の空の下、アリーシャは傘もささずに歩き出す。その後ろ姿をリチャードは黙って見送ることしかできなかった。
追いかけて傘を差し出すことさえ……許されないような気がした。
アリーシャの頬に冷たい雫が落ちたとき、それが雨なのか、涙なのかは、その時の彼女には分からなかった。




