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《完結》どうぞ、私のことはお気になさらず  作者: ヴァンドール


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14/22

14話

 数日後、アムール商会の別館では、アリーシャ、リチャード、そしてクラーク卿とロビンソン伯爵が集まっていた。

 新たな慈善計画の資金運用について話し合うための、正式な話し合いだった。


 しかし、部屋に漂う空気には、どこか微かな緊張があった。

 誰も口にはしないものの、すでに社交界で囁かれている噂が、四人の間に見えない影を落としていた。


「本当に、夫人がこれほど熱心に取り組まれるとは思いませんでしたな」


 ロビンソン伯爵が穏やかに言う。しかし、その目の奥には、どこか探るような気配があった。


「ありがとうございます。ですが、私ひとりの力では到底ここまでは参りませんでした。リチャードさんの尽力あってのことです」


 アリーシャは微笑んで答えた。

 その言葉にリチャードが軽く頷くと、伯爵の視線が一瞬だけ二人の間を行き来した。


「お二人は、随分と息が合っておられるようだ」


 その言葉に場の空気がわずかに凍る。

 クラーク卿が、すぐに空気を和らげるように笑いを添えた。


「まあまあ、伯爵。息が合うのは良いことですよ。事業というのは、理念と実務の両輪が噛み合ってこそ動くものです」


 そして彼は、アリーシャに向けて意味深な微笑を見せた。


「それにしても、貴女のような方が、この街のためにここまで動かれるとは。ウィルフォード侯爵も、鼻が高いでしょうな」


 アリーシャは一瞬だけ息を呑んだ。

 しかしすぐに、優雅な笑みを向けた。


「どうでしょう? あの方は、私のすることにあまり興味を示しません。でも、それでいいのです。私には私のすべきことがありますから」


 その言葉に、リチャードがちらりと彼女を見た。

 彼の中にあるのは尊敬か、あるいはそれ以上のものか、アリーシャ自身にも分からなかった。


 ふと、ロビンソン伯爵が小さな咳払いをした。


「それにしても、奥様。世間というのは恐ろしいものです。貴女ほどの方でも、何かと噂を立てられる。お心を煩わせてはおりませんかな?」


(また、話を戻したいのね)


 アリーシャはカップを持つ手を止めた。

 室内の空気が、張りつめる。


「ええ、耳にはしております。ですが、私は恥じることなど何もしておりません。《財団》のために動くことが、たとえどう言われようとも正しいと信じています」


 その言葉に、クラーク卿が真剣な眼差しで頷いた。


「立派なお考えだ。私は貴女の誠実さを信じる。どうか、何があっても信念を曲げないでいただきたい」


 アリーシャは微かに微笑んだ。

 その笑みの奥には、わずかな疲れと、それでも崩れぬ彼女なりの強さがあった。


 だがその時、会議室の外で、扉の影からひとりの人物がその様子を見つめていた。

 

 ウィルフォード侯爵。


 噂を確かめるために足を運んだ彼は、扉の向こうのアリーシャをただ見つめていた。

 そして、自分の心が静かに軋む音を聞いた。

 彼は女性に対し、今までこんな感情を持ったことなどなかった。


ーーーー


 その夜、アリーシャが屋敷に戻ると、玄関の灯はすでに落とされていた。

 静まり返った廊下に、時計の針の音だけが響いている。


 部屋に入ると、暖炉の前に人影があった。

 振り返ったその姿に、アリーシャは息をのむ。


「旦那様?」


 ウィルフォード侯爵は、背を向けたまま低く言った。


「今日、アムール商会に行っていたそうだな」


「はい、財団の件で、クラーク卿とロビンソン伯爵もご一緒でした」


「そうか……」


 短い返答。

 その声に怒りはない。ただ、どこか疲れたように聞こえた。

 アリーシャはその背中を見つめ、静かに近づく。


「噂のこと、耳にされたのですね」


 侯爵はわずかに肩を震わせた。

 それでも振り返らずに、暖炉の炎を見つめたままだった。


「噂、か。いや、ただ君があの男と並んでいるのを見ただけだ」


 アリーシャの胸の奥に、微かな痛みが走る。

 彼が見たと言ったその声に、怒りではなく、どうしようもない悲しみが感じられた。


「誤解ですわ。私たちは」


 と言いかけると


「わかっている」


 彼はその言葉を遮った。

 そして、ようやくゆっくりと振り向いた。


 その瞳には、かつて女性たちを虜にしていた強さも傲慢さもなかった。

 ただ、一人の男の、疲れ切った姿だけがあった。


「わかっている。君がそういう人間でないことも。けれど……君が彼といる時の顔を見て、私はもう、君を縛る資格がないと思った」


 アリーシャは言葉を失う。

 

「旦那様……」


「私は、君に酷いことばかりしてきた。自分の都合で妻を選び、心を置き去りにした。今になってようやく、何を失ったのかがわかった」


 彼は悲しげに笑った。

 その笑みは、悔いと優しさの入り混じったものだった。


「アリーシャ。君を自由にしてやりたい。婚姻を無効にしようと思う」


 部屋の中に、時計の音が再び響く。

 アリーシャは唇を震わせながら、ようやく言葉を紡いだ。


「そんな……お気持ちは嬉しいけれど、私は……」


「いいんだ。もう、誰かを恨むほど若くはない。

 ただ、あの時の君の笑顔を思い出してしまってな。あれをもう一度見るには、私は、邪魔な存在なんだろう」


 アリーシャは静かに首を振った。

 涙は出なかった。ただ、胸の奥で何かが、確かに崩れていった。


 侯爵は最後に一歩、彼女に近づき、低く囁くように言った。


「どうか幸せに。本当なら夫である私が、君を幸せにすべきだったのに、取り返しの出来ない過ちを何度も繰り返してしまった。済まなかった」


 そう告げて、背を向ける。

 扉の向こうで足音が遠ざかる音がした。


 アリーシャはその場に立ち尽くし、ただ炎を見つめた。

 

(最初は今までの生活を失わないための行動だった……いつからだろう、私が変わってしまったのは)




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