13話
アムール商会の別館は、街の中心から少し離れた、静かな並木通りにあった。
本館の豪華さとは対照的に、そこは質素でありながらも、どこか品の漂う建物だった。
外壁に絡む蔦が先ほどから降り出した雨に濡れ、淡く光って見えた。
私は玄関前で一呼吸置き、扉を叩いた。
迎えに出たのは、以前にも顔を見た執事だった。
「リチャード様は奥の応接間でお待ちです。どうぞこちらへ」
廊下を進むと、ほのかな柔らかい香りが漂ってきた。
扉が静かに開かれると、すぐにリチャードさんが立ち上がった。
「お越しくださったのですね、侯爵夫人」
彼の声は、穏やかで柔らかかった。
けれど、その眼差しの奥には、鋭い光が宿っている。
「突然お招きしてしまい、申し訳ありません。どうしても、直接お話ししたかったのです」
「構いません。私も少し気になっていました。あの《財団》という言葉が」
その一言に、リチャードさんの唇がわずかに笑みの形を取った。
「侯爵夫人には、やはり見抜かれてしまいましたね」
「いいえ。見抜いたというほどではありません。ただ、あの夜の貴方の目が、とても真剣だったから」
その瞬間、彼の視線がかすかに揺れた。
けれど、すぐに姿勢を正し、机上の書類を指し示す。
「この《財団》は、戦災や貧困で行き場を失った者たちに、新たな働き口を与える仕組みです。
施しではなく、彼らが誇りを持って生きられる社会にしたい。
しかし、それを形にするには資金と影響力が必要です。侯爵家ほどの名があれば、道は開ける」
「つまり私は、ウィルフォード侯爵夫人として、その名を貸すことを求められているのですね?」
「はい。ただ、それだけではありません。私は、貴女の考えを知りたいのです。
《侯爵夫人》ではなく、《アリーシャ様》として、どう感じているのか」
部屋の空気がふっと変わった。
(危険だわ。この人は、理想を語る顔の裏で、私の《心》にも触れようとしている)
私は一瞬、視線を落とし、静かに息を整えた。
胸の奥のざわめきが、次第に鎮まっていく。
「リチャードさん。私、本当は主人の火遊びを止めるために社交界で影響力を持とうと考えました。そうすることで、屋敷の使用人たちや私自身の生活を守れると思ったのです」
「それで、本来の姿を侯爵様にお見せになったのですね」
「いいえ、それは違います。実は……」
私は、先日の出来事、火遊びの相手がご主人に疑われ、その誤解を解くために本来の姿で対峙した一件を話した。
「そうでしたか。そんなことがあったのですね」
「その結果、リチャードさんが旦那様に謝罪するはめになったことを、お詫びします」
そう言って、私は深く頭を下げた。
「頭を上げてください。あの件は気にしておりません」
「ありがとうございます。ただ、初めはそのような理由だったのですが、今は違います。
もし私を必要としてくれ、それが多くの人の助けになるのなら、ぜひ協力したいと思っています。それに、社交界で注目を集められれば、結果として旦那様の火遊びも止められるかもしれません」
「確かに、そうなれば侯爵様に近づく女性たちも、貴女を敵には回したくないでしょうからね」
リチャードさんはそう言って微笑んだ。
「ということは、先ほどの《財団》の件に協力してくださると考えてよろしいのですか?」
リチャードさんの声がわずかに震えた。
その眼差しには、抑えきれない感情の揺らぎが宿っていた。
「アリーシャ様……」
名を呼ばれ、胸の奥が小さく震えた。
恋と呼ぶにはまだ早すぎる、だけど否定できない想いだった。
私は微笑みを保ちながら、そっと視線を落とした。
「リチャードさん。私はその《財団》に協力します。ただし、一つ条件があります」
「条件?」
「私を《夫人》ではなく、《共同の創設者》として扱うこと。それができないのなら、私は動きません」
リチャードさんの瞳が見開かれ、やがてゆっくりと笑みに変わった。
それは、わずかな情が混じる穏やかな笑みに感じられた。
「わかりました。貴女を《共同の創設者》として名を連ねましょう。アリーシャ様」
その声には、優しさと決意が入り混じっていた。
私は答えなかった。
それでも、知らぬ間に口元が緩んでいた。
「リチャードさん。実は、その《財団》の構想に関して、私には手助けをしてくれそうな方がおりますの」
「手助けを?」
私はうなずき、リチャードさんに説明をした。
最初に慈善事業に興味を持った経緯と、もちろん、旦那様への牽制の意味もあってのことですが、と話して、その過程で慈善事業に熱心なロビンソン伯爵に近づいたこと、さらにその夜の舞踏会で財務大臣補佐のクラーク卿にダンスへ誘われ、その折に協力を取りつけた経緯も、全て話した。
「なるほど……その夜、私も会場におりましたが、貴女はそのために動いていたのですね」
リチャードさんは感心したように言った。
「では今度、ぜひお二人を引き合わせていただきたい」
「勿論です」
こうして、私たちは次の段階へと進んでいった。




