花を咲かせるだけと馬鹿にされていたけれど、実は希少な魔法でした
花を咲かせるだけの魔法。
それがリシェルに許されたすべてだった。
王宮の舞踏会場は金と銀の装飾に彩られ、シャンデリアの灯りが隅々まで降り注いでいた。華やかな笑い声と音楽が空間を満たし、そこかしこで貴族たちが自らの魔法を誇示し合う。
氷の彫刻を一瞬で作り上げる者、果実を宝石に変える者、空中に火の玉を踊らせる者——誰もが自分の才能を競うように披露し、人々の視線は絶えずそうした魔法へ向かっている。
それらから離れた壁際に立ち、リシェル・ソリエットは窓の外の夜空を見上げていた。この広い会場で、月の優しい輝きだけが寄り添ってくれるようだった。
まさか舞踏会に顔を出すことになるなんてと、リシェルは静かに息を吐く。
これまで、こうした集まりには体調不良という建前で欠席を貫いてきた。王家からの招待だったという一点だけが、今のリシェルをここに置いている。
ふと、リシェルは窓辺の花瓶に目を留めた。煌びやかな舞踏会場の喧騒から逃れるように、小さな蕾が他の花々の影に身を潜めている。その姿が妙に自分と重なって見えた。
リシェルは思わず近づき、そっと手を伸ばす。
「あなたも、ここにいるのが辛いの?」
囁くような声は自分のためでもあった。指先から流れる魔力はいつもより穏やかで、それでも確かに蕾は応えて、ゆっくりと花弁を開いていく。
淡い青紫の色が光を受けて輝き、花瓶の中で小さな存在感を放ちはじめる。
少なくとも蕾は咲けば装飾として価値を持つが、花を咲かせるだけの自分は、どこにも居場所がない。
実用魔法に長けた名門ソリエット家に生まれながら、リシェルだけが異質だった。花を咲かせるだけの魔法。戦闘にも生活にも役立たない魔法。
周囲の視線はリシェルを素通りし、華やかな力を持つ者たちへと注がれている。誰もが価値あるものを求め、無用なものには目もくれない——ここグレンダリア王国の暗黙の掟だった。
「……誰からも必要とされていないのに、どうしてこんなところにいるのかしら、私」
まるで問いかけるように吐き出した言葉だったが、答える者などいるはずもない。
——そう思っていた。
「いいえ、誰にも必要とされていないのに咲く花ほど美しいものはありません」
驚いて声のほうへ顔を向けたリシェルの目に映ったのは、銀の瞳の、青年。
霧の奥に差す月光のように静かで、それでいて、胸の奥に火を灯すような光を湛えていた。
その眼差しはまるで心の奥底に触れてくるようで——リシェルは思わず、呼吸を忘れそうになる。
「……お知り合いだったでしょうか?」
リシェルは自分の声がわずかに掠れていることに気付いた。月明かりのような瞳に見つめられたままでは、気を抜くことなどできない。
「いえ、まだ。ですから、これから知りたいと思って、お声掛けしました」
無礼にならない程度に、リシェルは青年の顔を探るように見た。
社交界に知り合いは少ないが、こんなに神秘的な銀の瞳、一度見たら忘れるはずがない。
その身を包む服は黒一色だというのに、彼の存在感はこの場の誰よりも鮮やかだった。
視線を引き付け、空気を変える。まるで異国の月が紛れ込んだような、不思議な気配。
「あなたのお名前を伺っても?」
「失礼、私はフェルディア・カルヴァンティス。メルヴェリアより参りました。魔導師の端くれです」
メルヴェリア。東の魔道大国。
その中枢に籍を置く魔導士がこのグレンダリア王国の舞踏会に現れるなど、そうあることではない。
礼装の仕立て、所作、会話の間合い——すべてがわずかに違っている。それは無作法ではなく、ただ、異質だった。
だからこそ、彼の言葉にも、瞳の奥にも、目を逸らせない何かがある。
「……私の魔法など、取るに足らないものです。魔導士様がわざわざご覧になるような価値があるとは思えません」
自分でそう言葉にするたびに、心のどこかが、少しずつ磨耗していく気がしてならなかった。
蕾に触れ、花を咲かせる。
本当に、本当に——リシェルの能力はそれだけだった。どれだけ厳しい訓練を重ねても、それ以上のことはできなかった。
「ええ、そうです。あなたの能力は花を咲かせる程度のことしかできない。今はまだ、ね」
フェルディアの声は穏やかなのに、それはリシェルの胸をざわつかせる。
まるで、特別な何かを見つけた子供がそれを大事に手のひらに包むような、そんな確信に満ちた微笑み。
リシェルは、胸の奥をそっと撫でられたような気がした。痛みが和らぐ代わりに、なぜか少し、怖くもなった。こんなふうに真っ直ぐに見つめられることには慣れていない。
「花を咲かせるだけのように見えて、その実、あなたの魔法はもっと深いところに触れている。誰にも真似できない繊細さで、自然の一部をそっと目を覚まさせるような力です」
詩でも読むような口ぶりだった。意味があるのかないのか、判断がつかなかった。
社交界には、口当たりの良い言葉だけを並べる人間は珍しくない。
だから聞き流すつもりだったのに、彼の言葉はやけにまっすぐで、見たままを語っているだけのように聞こえた。
肯定されたことに戸惑っているのか、それとも、そんな言葉を待っていた自分に気づいてしまったのか。
言葉を返せないリシェルに構わず、フェルディアは続ける。今度は、静かに紡ぐように。
「花を咲かせる魔法だと誤解されているのは、それしか目に見えていないからです。実際は、あなたの魔力は自然と共鳴している。風が揺れ、水が澄み、蕾が息をするように。あなたがただそこに在るだけで、世界がそれに応えてくれる」
リシェルは思わず睫毛を伏せた。その言葉がどこかくすぐったくて、けれど耳の奥に残るほど静かで、優しかったから。
そんな素晴らしい魔法ではないと否定することもできたはずなのに、言葉が喉の奥で溶けてしまった。
フェルディアはひと呼吸置いて、ふわりと微笑んだ。そして、ごく自然な仕草で、右手を差し出した。
「……踊りませんか?」
その声は、特別なことを求めているようには思えなかった。ただ今この瞬間を分かち合いたいという、静かな願いのようで。
リシェルは戸惑いのまま顔を上げる。けれどフェルディアの銀の瞳は夜の湖面のように住んでいて、そこには嘘の影は見えなかった。
「踊りはあまり、得意ではないの」
「私もですよ。ですから、きっとちょうどいい」
肩の力が抜けた。どこかおかしくて、けれどそれすら嬉しいような気がして——リシェルはゆっくりと、その手を取った。
指先が触れた瞬間、わずかに心臓が跳ねる。冷たくも熱くもない、しかし確かに生きた体温がそこにあった。
フェルディアによって広間の中心へ導かれる。
音楽はちょうど曲の中盤。軽やかな旋律に合わせるように、フェルディアの腕が背中に添えられ、もう一方が優しくリシェルの指を取る。
形式に則った距離を保ちながらも、その腕に導かれるたび、世界のざわめきがひとつずつ遠ざかっていくように感じられた。
舞踏会の喧騒も、煌びやかな光も、貴族たちの視線も——何も気にならなかった。リシェルの視界にはただ、美しい銀の光だけがある。
「……お上手なのね」
踊りながら、リシェルはかすかに声を漏らした。
これまで社交界を避けてきたリシェルには誰かと踊ったことなど片手で数えるほどしかないが、それでもフェルディアのリードは完璧で、リシェルはただ身を任せるだけで良かった。
一歩ごとに、ドレスの裾がふわりと揺れる。微かな風が足元をかすめ、裾にまとわりついてはすぐに消える。
風——いや、風のようでいて、違う。空気がわずかに震えていた。リシェルの魔力が、鼓動に合わせて揺れているような、奇妙な感覚があった。
不意に、気配を感じて目をやる。会場の一角、花瓶に生けられた蕾のひとつがそっと、花弁を綻ばせた。
誰にも気づかれないような小さな変化だったが、それは確かに起きたことだった。
リシェルは魔法を使っていない。咲かせようとすら思っていなかった。そもそも蕾に触れてもいない——
「お気付きのようですね」
「……どうして?」
フェルディアが静かにそう言い、リシェルはささやくように問いかけた。
「言ったでしょう。あなたはただ、そこに在るだけでいいのだと」
声は柔らかく、どこまでも静かだった。受け止めきれず、胸の奥がじんと痛む。けれど、どうしてもその続きを知りたかった。
しかし言いかけたそのとき、音楽が静まり、会場に拍手の波が広がった。途端に現実が音を取り戻し、ふたりだけの世界がそっと終わりを告げる。
フェルディアが手を離し、リシェルも軽く頭を下げた。誰もが静かに息を整えている気配のなかで、足音がひとつ、人垣の奥から現れた。
その姿を見た瞬間、リシェルの身体がわずかにこわばった。クロード・ヴァレル——かつて名前だけで繋がれた婚約者。
所作にはどこか軽薄さがあり、整った顔立ちに浮かぶ笑みは、皮肉と退屈が混ざったものだった。
「なるほど。香りだけで男を惹きつけるとは、たいした才だ。……花を咲かせるだけの魔法でも、用途はあるらしい」
ああ、始まった——リシェルは目を伏せた。クロードの口調は丁寧だった。けれど、その響きには馴染みのある嫌味が潜んでいる。
返すべき言葉が、喉の奥に沈む。悔しさと、情けなさと、どうしようもない無力感が、同じ場所に溜まっていく。聞き慣れているはずだったのに、いつまで経っても受け流せるようにはならなかった。
しかし、クロードの視線がリシェルへ向けられたのはほんの一瞬。まるで相手にする価値もないとばかりに、彼はすぐにフェルディアへと顔を向ける。
「貴族としてはともかく、舞踏会の余興としては、彼女は十分に華があるでしょう。火も水も操れず、ただ花を咲かせるだけで目を引くとは。あなたが優しい方で、彼女は幸運でしたね」
丁寧な口ぶりのまま、皮肉と侮蔑を押し込んだ言葉。それはリシェルだけではなく、隣に立つフェルディアにまでも及んでいた。
フェルディアが息を吐く気配に、リシェルは目を向けた。銀の双眸はまっすぐにクロードを見据えている。その瞳は、言葉より先に明確な不快さを告げているように見えた。
「魔法を理解しない者が、目に映ることだけで全てを測る。その傲りは何より恥ずべきことです」
「彼女の魔法は、確かに見た目は美しい。しかし、それだけです。花を咲かせて何になるというのですかな。魔力を持つ意味すらありません」
「なるほど。つまり、あなたは目に見える力しか信じないのですね」
「当然です。それ以外に、何がありますか?」
クロードが指先をひらりと動かした。その瞬間、風が静かに巻き起こる。
会場の装飾の一角、花瓶に生けられた花が揺れた。巻き上げられた花が宙を踊り狂うように舞い、そして、音もなく床に散る。
「いかに美しく咲いていても、こうして風が吹けば終わりでしょう。まったく儚いものですな、飾り物というのは」
あくまで軽い口調だった。だがその眼差しには、見下す色が隠そうともせず滲んでいた。
——彼はいつもそうだ。
クロードとは幼い頃から婚約関係にあった。生まれた日に取り交わされた、政略のための約束。お互いに顔を合わせるたび丁寧な礼儀と建前が交わされたが、それ以上でもそれ以下でもなかった。
けれど、リシェルの魔法がただ花を咲かせるだけのものだと知れ渡ったとき、彼はあっさりとその絆を断ち切った。
『いくら名門の娘とはいえ、無能では困りますので』
そう言って笑った顔を、今も時折夢に見る。
一族の名に恥じぬよう育てられたはずなのに、役目を果たせなかった。与えられた場所に相応しいだけの力がなかった。
彼の顔を見るたび、選ばれなかった無能さを突き付けられるようで、ひどく息苦しい。
だがそのとき、背に温かな気配が触れた。フェルディアの手が、そっと背中に添えられる。
その視線はまっすぐに、クロードへ向けられていた。
「彼女の魔力は、ただ花を咲かせるだけのものではありません。いえ——咲かせることすら、その力のほんの入り口にすぎない」
クロードの眉がわずかに動いた。いつもなら即座に返すはずの皮肉が返ってこない。その言葉の真意を計りかねているかのようだった。
隣に立つフェルディアの声は変わらず静かで、揺らぎを感じさせないまま続いていく。
「共鳴するのです。自然と、命と、そして、この世界の律動と。あなたのように魔法を〝使うもの〟と考える人間には決して触れられない領域。破壊ではなく、再生と調和の力」
リシェルはただ耳を澄ませていた。言葉の意味をすぐに理解したわけではないが、その響きに込められたものは伝わってくる。
説明のように聞こえるのに、ひとつひとつの言葉がまるで主張ではなく確信として置かれていて、どこか祈りのようにも思えた。
リシェルの脳裏に、あのとき感じた微かな揺らぎがよみがえった。足元をかすめた風の感触。触れていないはずの花が咲いた瞬間。あれはきっと、偶然ではなかった。
「それはまた、大きく出ましたね。夢を見すぎると現実を見失うものですよ、魔導士殿」
「派手な現象ばかりを魔法と呼ぶのなら、それこそただの見世物です。その程度の見識で、私の前で魔法を論じるとは……愚かしい」
同じことをリシェルが言えば、気でも触れたのかと思われるだけに違いない。しかしフェルディアの堂々とした声は、相手に疑う余地を抱かせないだけの確信に満ちている。
銀の双眸に見据えられ、クロードは黙った。その顔には強張った笑みだけが残っている。生まれつきすべてを持ち、常に余裕を崩さなかった彼が、こんなふうに戸惑いを隠せなくなる姿を、リシェルは今まで一度も見たことがなかった。
「少し——お見せしましょうか」
フェルディアの声が静かに響く。
背中に触れていた手から、温かな魔力がゆるやかに流れ込む。突然のことにリシェルはわずかに肩を震わせたが、戸惑いも一瞬のこと。
音のないさざ波が胸の奥に触れ、ひとつ、深く息を吸った瞬間、呼吸と脈拍が彼のものと重なったような気がした。
それは支配でも強制でもなく、ただ静かに、優しい光が心の奥を照らしていくような——そんな感覚だった。
「見せるって……どうやって? どうすればいいの?」
「あなたが望むままに」
声は低く穏やかで、心に届くような響きを持っていた。
リシェルは思わずフェルディアの顔を見つめた。美しい銀の双眸が、静かに、けれど力強くこちらを見ている。
その眼差しに、心の奥に沈んでいた何かが、かすかに浮かび上がるような気がした。
リシェルは戸惑いながらも、その気配に身を任せるしかなかった。どうすればいいのかは、身体が知っているようだった。
「大丈夫。落ち着いて。呼吸を整えて——あなたならできます」
その言葉が、胸の奥に深く染み込んでいく。
目を閉じ、ひとつ息を吐いたとき、世界の輪郭が変わったように感じた。
カツンと響く足音がやけに大きく聞こえる。クロードが一歩、こちらへ踏み込もうとしていた。
「——来ないで」
自然と口からこぼれた言葉は、まるで自分のものではないような響きを持っていた。
風もないのに、床に散らばっていた花々がわずかに震え、次の瞬間には、茎が音もなく伸び始めていた。
それは一本だけではない。クロードが撒き散らした花々が、まるで呼び合うように同時に動き出す。
細く頼りなかったはずの茎は、瞬きひとつの間に手首ほどの太さにまで成長し、節を重ねながら木質化していく。
その一本一本が左右にしなやかに伸び、絡み合い、互いを支え合うようにして空間を編み上げていく。
やがてそれらは組み上げられた緑の格子となって、リシェルとクロードの間に立ちはだかった。
誰もがその場で何が起きたのかを理解しきれずにいたかもしれない。だが、リシェルにはわかっていた。——今、確かに何かが自分の中で動いたのだ。
「まさか……これは」
声に出さずにはいられなかったのだろう。クロードの声音に、わずかな戸惑いが滲む。
「今のは、ごくわずか。彼女の力が、ほんの少し顔を出したにすぎません」
その口調は相変わらず静かだったが、不思議な迫力があった。
断定ではなく、ただ事実を語るような声音が、かえって誰の反論も許さないような強さを持っていた。
「花が咲くのは結果であって、本質ではない。それがどれほど稀なことか理解する意志のない者に、この魔法の価値を説明することは難しい」
淡々としたフェルディアの声を聞きながら、リシェルはまだ、自分の起こした現象に戸惑っていた。
彼の魔力が何らかの影響を与えたのは確かだ。今、あの手が離れた状態で、また同じことができるとは思えない。
「リシェル」
名を呼ばれた瞬間、空気の質がわずかに変わった。
誰にも聞こえないような静かな声だったのに、不思議とその響きだけがくっきりと胸に残る。
耳ではなく、まるで意識そのものがそちらへ引き寄せられるように。
「想いを言葉にすることが、魔法のはじまりでした。……あなたが何かを伝えたいなら、今こそ、言うときですよ」
ささやきは微笑のようだった。励ましというより、魔導士としての助言のような、そんな淡い響きを持っていた。
リシェルはそっと視線をあげる。まだ不安はある。足元は少し揺れている。けれど、フェルディアが傍にいる——それだけで、世界は少し穏やかに見えた。
ひとつ息を吸い込み、リシェルはクロードを見た。彼は言葉を失ったように、ただ立ち尽くしている。
ずっと、馬鹿にされるのは当然のことだと思っていた。言い返せるはずがないとも。けれど今は、震えてもいいから伝えたかった。ただ一度、自分の足で踏み出すために。
「……飾りでも、何もできなくても、それでも私は、あなたに踏みつけられるためにここにいるわけじゃない」
少し声が上ずった気がした。けれど、それを言葉にした自分を、心の奥で少しだけ誇らしく思う。
クロードは何も言わず、リシェル自身もそれ以上言葉を重ねなかった。ただ、ほんのわずかな高揚感が胸で揺れていた。
リシェルは深く、ひとつ息を吐いた。胸の内に渦巻いていたものが、ようやく静かに遠ざかっていくのを感じた。今この瞬間だけは、確かに、自分の魔法を肯定してもいい気がしていた。
◇
「——こちらへ」
フェルディアの声が静かに落ちたとき、言葉より先にリシェルの足が自然と動いた。
広間を出て、長い廊下を進む。高い天井に響く二人分の靴音を聞きながら、リシェルは黙ってその背を追う。
廊下の途中、フェルディアが窓辺で足を止める。外を一瞥すると、そのまま何のためらいもなく身を躍らせた。
「えっ——」
反射的に声が漏れ、リシェルは窓辺に駆け寄る。まさかと思い身を乗り出した先、闇の中に立つフェルディアの姿があった。草も木も静まりかえる中、銀の瞳だけが月の光を反射している。
「あなたも、どうぞ。受け止めますから」
その声はいつもと変わらず穏やかで、それだけに、リシェルは理解が追いつかなかった。三階から飛び降りるなんてまともな発想ではない。
庭へ下りるなら、階段を使えばいい。わざわざ飛び降りる意味などあるはずがない。——やっぱり、魔導士は少し変わっている。
そう思った瞬間、背後から近づいてくる足音に気づいた。振り返ると、そこに両親の姿があった。
リシェル、と、母に名前を呼ばれのは、どれほど久しぶりだっただろう。しかし咄嗟に返す言葉も、笑みも浮かばなかった。
娘が花を咲かせることしかできないと知った時、両親はわずかに顔を曇らせた。その反応が落胆だと理解したのは、それからすぐのこと。
婚約が破談になったときも、両親はただ『仕方ない』と静かに受け入れた。表情も言葉も穏やかなまま、向けられる関心が少しずつ遠ざかっていく。
正しくあるよう育てられたことには疑いがない。けれど、正しさの中に居場所を作ってもらえた記憶は、なかった。
本当は、愛されたかった。見てほしかった。何も持たないリシェルでも良いのだと言ってほしかった。
この魔法に本当に意味があるのだとしたら、父と母にも、ようやく認めてもらえるかもしれない。ずっと言葉にできなかった願いが不意に形を持ち、そして、すぐに立ち消える。
いまさら価値を見出されたところで、欲しい言葉をもらえなかったあの時間は戻ってこない。
あの人たちにもう何も求めていない自分に気付いたとき、リシェルは自然と窓の外へ視線を戻していた。
窓枠に手をかけ、片足を外へ移す。足元に広がる石畳の先、闇に浮かぶフェルディアの姿が目に入る。黒髪は風に揺れず、銀の瞳だけがこちらを見上げていた。その静かな光を目印に、そっと重心を前に傾ける。
一瞬、息が詰まった。
しかし地面に向かう勢いはすぐに緩み、目に見えない何かが速度をそっと受け止める。足が地に触れたときに衝撃はなく、一拍遅れて、風をはらんだスカートの裾がふわりと落ちる。
わずかに息を整えながら、リシェルは足元を見た。靴越しに感じる石畳の硬さが現実を思い出させる。
顔を上げると、フェルディアが少し先で待っていた。まるで何も特別なことは起きていないとでも言うように、落ち着いた眼差しでこちらを見ている。
「あなたの魔法について、話があります」
舞踏会の喧騒とは無縁の静けさをまとうフェルディアの声に、リシェルは小さく頷く。
王城の裏庭は、舞踏会の煌びやかな光から遠く離れ、静けさと冷たい空気に満ちている。
大きな噴水を中心に、幾何学的に整えられた花壇と生け垣が並び、月の光だけがその輪郭をかすかに照らしていた。
灯りはほとんどなかった。視界だけを頼りに歩くには心許ないほどの暗がりに、リシェルがほんのわずか歩調を緩めたとき、目の前を歩くフェルディアがそっと指先で宙を撫でる。
その瞬間、小径に沿って淡い光がひとつ、またひとつと浮かび上がっていく。
その幻想的な光景に、リシェルはしばし言葉を忘れていたが、ふと、ひとつの疑問が浮かんだ。
「……さっきは風の魔法を使って、今は光も。あなたは風と光、両方使えるの?」
ほんの小さな問いかけだったが、リシェルの中ではずっと引っかかっていたことだった。
通常、魔法の属性は生まれつきひとつ。本人の才によって二種類の属性魔法を使えると聞いたこともあるが、リシェルの知る限り、この国にそのような者はいなかった。
フェルディアは足を止めることなく、変わらぬ調子で答える。
「ええ。私はすべての属性の魔法を扱えます」
あまりにもあっさりとした物言いに、リシェルは言葉を失った。
「……全部、を?」
「全部です」
断言するその声音に、誇示するような響きはない。
ただの事実を口にしているだけ。だからこそ、その言葉の異質さが際立つ。
「ですが——私が最も得意とするのは、共鳴です」
「共鳴? ……聞いたことがないわ」
魔法についての基本的な知識は叩き込まれているが、共鳴という言葉には耳馴染みがない。
「でしょうね」とフェルディアはこともなげに言った。私が編み出した技法ですから、とも。
共鳴とは、他者の魔力の波長を感じ取り、自分の魔力をそこに重ねることで、魔力を増幅させたり、安定させたり、あるいは変化を促すものだという。
「不思議ね……魔力って、そんなふうに交わるの」
「ええ。うまく重なると、まるで呼吸が合うような感覚です。私の魔力は他者と混ざりやすい性質でして」
フェルディアの話に興味深く耳を傾けるうち、いつのまにか庭園の中心まで来ていた。
リシェルは噴水の縁に腰を下ろし、水面に映る星々を見つめる。沈んだ光が揺れる様子が自分の心の中と重なるような気がした。
「あんなことができるなんて、思わなかった。ずっと、ただ花を咲かせるだけの魔法だって言われてきたから。……自分でも、そう思ってた」
水面に触れた指先に、冷たさが走る。広がる波紋を見ながら、ようやく言葉にできた。
言いながら、いかに他人からの評価でしか自分の魔法を見てこなかったかに気付く。その事実が悔しくて、少しだけ唇を噛んだ。
「……でも、それだけではないのよね」
「はい。命の形や大きさに関係なく、育むことも、その先へ連れていくこともできる魔法です。もちろん、今のあなたにそこまでのことはできません」
リシェルは少しだけ言葉を選ぶようにして、ぽつりと問う。
「それは、……植物だけではなく?」
「はい。生きているものすべてに作用します。それが動物や、人間であっても」
すぐには言葉を返せず、リシェルは目を伏せる。その力が素晴らしいだけのものだとは思えなかった。
咲かせるだけだと思っていた魔法が、形を変えて誰かに届くとき、果たして、そのすべてを受け止められるのだろうか。
「……つまり、危険な魔法だということね」
「そうは言いません。危険という名を与えるのは簡単ですが、魔法は、選ぶ者によって形を変えます。何を願い、どこへ向けるかで、力の流れも意味も変わっていく。それはあなたの魔法も同じです」
フェルディアの髪が揺れる。風にほどける黒髪の向こうで、光の残響のような瞳がこちらを見ていた。
「私のもとに来ませんか?」
その一言に、リシェルの心臓がわずかに跳ねた。誘いにしては唐突で、けれど声音はごく自然で——思わず顔を上げて、彼の表情を確かめる。
けれどフェルディアは相変わらず落ち着いていて、ただ静かに続ける。
「メルヴェリアの魔導院では、希少魔法の使い手を一定の基準で登録し、必要に応じて保護や指導を行っています。私はその任に就いて各地を回っています。今夜も、観察のために組まれた行程の一部でした」
そうよね、と、リシェルは小さく息を吐いた。
当然だ。そういう意味の〝私のところ〟に決まってる。けれど、たった一瞬でも別の意味を浮かべてしまった自分を思うと、なぜか頬に熱が集まる。
その熱に意識を引かれながらも、リシェルはその国へ想いを馳せた。
知っていることはほんのわずかだった。魔法が政の仕組みに深く組み込まれていること、教育や制度もすべて魔法を基準に構えられているということ。
軍事や産業、医療などに使える魔法の使い手が軍や政に関わるのは、この国と大きく変わらない。けれど、役目を持てる魔法の範囲があの国ではもう少し広いらしい——そんな話をどこかで耳にした記憶があった。
「……メルヴェリアって、どんなところ?」
「どんな小さな光も、正しく導けば大きな灯火になる——それがメルヴェリアの信念です。私の国では、魔法が人の価値を狭めることはありません。本質を見極め、その可能性を最大限に育むことを大切にしています。そこでなら、あなたの魔法も正しく扱われるはずです」
そう語るフェルディアの声は淡々としていながらも、確信に満ちている。リシェルはそれが羨ましかった。こんなふうに、誰かに胸を張って誇れるものを、なにひとつ持っていなかったから。
それどころかほんの少し前まで、誰からも必要とされないと思っていた。けれど今、確かにこの手を引いてくれる人がいる——それだけのことが、世界を変えて見せた。
何かに期待するのはもうやめたはずだった。けれど今は、少しだけ信じてみたい。そう思ったときにはもう、言葉がこぼれていた。
「……行きたい」
自然と口が動いていた。
命に触れる力。育むことも、絶やすこともできる魔法。
きっと誰かを救うために使える。けれど、誰かを傷つけることもできてしまう。この力を知らずにいるわけにはいかない。
「この魔法がどこへ向かうのか、自分の目で見てみたいの」
リシェルの言葉に、フェルディアは銀の目を細める。硬質な水晶のように冷たく見えていた瞳に、わずかな温もりが差した。夜風に揺れる漆黒の髪の下で、唇が小さく弧を描く。
「ならば共に、その先を見に行きましょう」
フェルディアが差し出す手に、リシェルはそっと触れた。指先から伝わる体温と共に、静かな魔力が流れ込んでくる。その感覚がどこか心地良く、自然と笑みが浮かんだ。
視界の端で、そばの植え込みでゆっくりと薔薇の蕾が花弁を綻ばせるのが見えた。その隣の一輪、さらにその隣へと、自分の魔力が波及していくのを確かに感じる。
星々が静かに瞬き、夜風が二人の間を優しく通り過ぎる。
花を咲かせるだけではなく、命を育む力。その真実と責任を胸に、リシェルは初めて自分の魔法を、心から愛おしいと思った。
もともと少ない文字数で物語をまとめるのが得意ではなく、現在連載中の作品も、書きたいことを詰め込んでいたら随分と長くなってしまいました。
だから今回は、自分への課題として、あえて短編に挑戦してみました。
ひとつの物語として、少しでも何かを感じていただけていたら嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
もし楽しんでいただけたなら、あるいはリシェルのこれからを応援したいと少しでも思っていただけたなら、下の評価ボタンをぽちっと押していただけると励みになります。
ブクマやリアクション、感想なども、次の創作の力になります!
現在連載中の長編では、この短編とはまた違ったテーマの物語を描いています。
興味を持っていただけた方は、是非ほんの少し、この後書きの下まで覗いてみてください。