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呪怨 The Grudge

 待ち人は来ない。

 それより先に現れたのは、かつて自分が袖にした形になった婚約者だった。

 駆け落ち先から無理矢理引き戻されたと耳にした婚約者はいきり立って孝子の前に現れ、力任せに彼女を押し倒し、関係を迫った。

 何てことはない。この男は最初から孝子の美貌と肉体にしか興味がなかったのだ。

 孝子は激しく拒絶し、抵抗した。

 しかし大の男――それもかなりの肥満体である――の力に敵う訳もない。

 くみしだかれ、力任せに服を引き千切られる。

 弾けるボタン。

 露わになる下着。

 突き出そうとした右手を押さえられ、続いて左手の手首も乱暴に捕まれ、床に打ち据えられる。

 思わず左手を見る。


 薬指の、指輪が目に入った。


 なんで。

 どうしてこんな。

 なんで私だけが。

 ひどい。

 私が何を。

 虎吉さん。

 私だって。

 虎吉さんは。

 私はただ、幸せになりたいだけなのに。


 虎吉さん。


 瞬間、目の前が真っ赤になり、頭の中がグラグラと沸騰する程に熱くなった。

 目の前の、醜悪な男に視線をやる。

 グググ、と眼底に力が入る。

 視界が歪む。

 世界が赤く染まる。


 揺れる。


 震える。


「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアーーーーーーーッッ」


 知らず、吼えていた。

 

 いつの間にか、自身をくみしだく力はなくなっていた。

 たっぷり一分は放心してだろうか。

 正気に戻った孝子は、ようやく現実を見る。


 婚約者は、首がなくなって倒れていた。


 生首は、すぐ横に転がっている。


 どうやら、強力な力で捩じ切れたらしい。


 他でもない、孝子の力だ。


 今まで自分に悪意を向ける人間に制裁じみたことをしたことはあった。

 だけど、こんなに明確に、一個人に対して強力な力を行使したことはなかった。

 と言うか、こんな恐ろしい真似ができるなんて夢にも思わなかった。


 この惨状はすぐに教団側に知られた。

 孝子は呆然とするだけだったが、教団側は違った。

 全力で隠蔽したのだ。

 婚約者の死体もどこかに遺棄し――それがこの阿波鬼山なのだが――婚約者の両親には娘から強く拒絶されたショックで失踪してしまったらしいと誤魔化した。当然失踪届は出されたが、本格的に捜査されたかどうかは知らない。


 それより、孝子の教団内での扱いだ。


 今までは籠の鳥とは言えあくまで教祖様として崇拝されていたのに、この一件でそれすらなくなってしまった。

 具体的に言えば、教団施設の石造りの塔の屋上の部屋に監禁された。

 鉄格子の扉には堅牢な錠がかけられ、そこを出てもまた施錠した扉があるという徹底ぶりだ。そこまでしなくても逃げやしないのに――とは思うが、前科がある。信用など皆無なのだろう。一応、風呂とトイレはついているが、座敷牢に変わりはない。

 食事は三度運ばれてくるのを口にするだけ。

 時々、信者向けビデオの撮影を行った。

 と言っても、カメラに向かって父が書いた台本の言葉を口にするだけで、それは昔からやっていたことだ。どうやら円の会教祖の『孝子様』は不治の病に侵されていたが奇跡の力で復活し、こうして皆の前に姿を表すことが出来た。こうして私がここにいられるのも、皆の力があってこそ――ということらしい。

 馬鹿馬鹿しくて、笑う気にもならない。

 何が皆の『力』だ。信者が教祖を救済してどうする。普通逆じゃないのか。どうせ、教祖が病に侵されたからとか名目をつけて、金を巻き上げたに違いない。

『孝子様』なんて、ただの飾りだ。客寄せパンダの派手な神輿だ。何の意味もない。伽藍堂だ。ゼロだ。

 それでも、前の自分はそれで満足だった。世界はこういうものだと思っていたから。自分にとっては鳥籠が全てで、外のことなど知らなかった。だから不満も不安もなかった。

 

 だけど、今は――外の世界を知ってしまった。


 愛を、知ってしまった。


 一度知ってしまったものを引き剥がされることほど残酷なことはない。


 愛する人と世界から隔離されて、孤独で、ただ空虚な存在として生きて――


 それは、自分に与えられた罰なんだろうか。

 

 自分は人を殺めてしまった。

 乱暴されたことに対する抵抗とは言え、首を捩じ切ったのはどう考えてもやり過ぎだ。

 超能力を認知している両親も教団の人間達も、まさかここまで危険な存在だとは思わなかっただろう。

 籠の鳥ではなく檻の獣。

 それが自分だ。

 人を殺めた罪人なのだから、本来ならば警察や司法の手に委ねられるのが妥当なのだろうが、自分には裁かれる権利すら与えられない。世間に出してはいけない危険な猛獣として、この檻で飼い殺されるのだ。

 もう、諦めた。

 きっと、虎吉さんももう来ない。


 檻の中で、孝子はそんなことを考えていた。


 孤独な退屈な日々は続く。

 だけど、ある時に変化が訪れた。

 教団の人間が人を連れてきたのだ。

 当然、虎吉ではない。見たこともない中年男だ。恐らく信者の一人なのだろうけど、全員の顔など覚えている訳もない。


 教団幹部は、その男を『ユダ』と呼んだ。


 僅かな謝礼のために教団の情報を新聞社に流したのだと言う。

 心底、どうでもよかった。

 だが幹部達は怒り心頭に達しているようで、この男には裁きが必要なのだと息巻いている。

 裁き――要するに、私刑か。

 決して明言はしないが、彼らは孝子に力を使って、この『ユダ』を処罰してほしいのだと言うことは分かった。

 あの、婚約者のように。

『ユダ』は必死に命乞いをしている。可哀想と思わないでもないが、ここで自分が情けをかけたところで処刑方法が変わるだけだろう。かと言って逃走を手助けする義理もないし、そもそも自分自身が囚われの身なのだ。選択肢は一つしかなかった。


 少し目に力を込めただけで、首は捻じ切れた。


 リミッターが外れたというか、力の使い方が分かってきたと言うか、人を殺めるハードルが下がったと見るべきか。

 自分でも驚くほど、何も感じなかった。

 もう、後戻りの出来ないところまで来てしまったのだろう。

 離れ離れになった頭部と胴体をそれぞれ持って退出しようとする幹部たちに、それはどうするのかと訊ねた。

 秘密裏に処理するのでご心配なく、という答えが返ってきた。

 自分たちで遺棄するのなら処刑もすればいいのにと思ったが、形の上だけでも教祖による制裁、という形を取りたかったのだろうか。

 何一つ救済しないで、制裁するだけの教祖に何の価値があるのか。

 もう、どうでもいい。

 全てが下らなく思えた。

 だけどそれからも幹部達は次々と『ユダ』を連れてきては孝子に厳罰を求めた。そんなにも多くの『ユダ』がいる教団はもう駄目だろうと思ったが、黙って彼らを手にかけた。

 ほんの少し、目に力を込めるだけ。

 ティースプーンを掻き混ぜるより簡単に、数多くの人間を屠った。

 どうでもいいから何も感じない――筈だった。

 しかし自覚がないだけで人を殺めるのは精神的な負担が半端ではなかったようで、孝子はみるみる窶れていった。何を食べても味がしないし、肌は張りをなくし、髪もボロボロになった。数ヶ月の間に二〇歳も老けた気がする。美少女教祖だの美人占い師だのと持て囃されていた川町孝子はもういない。ここにいるのは、生きながら修羅の道へと堕ちた亡霊だ。

 

 そしてその生活も突如として終わりを迎えることになる。

 大規模な信者達のクーデターが起きたからだ。

 今まで散々抑圧して無理強いして搾り取ってきた信者たちがついに爆発したらしい。隠れて結託し武装して、幹部達を襲い出した。両親も最高幹部も袋叩き。そして今、この石造りの塔を取り囲んでいるのだと、額を割られてボロボロの格好になった幹部が息も絶え絶えに教えてくれた。

 すぐに孝子様とお逃げください、と言った瞬間、すぐ後ろまで来ていた暴徒にバットで殴られ、その場に崩れ落ちた。檻の中に押し寄せる暴徒たち。彼らは皆、頭を白い三角帽子ですっぽりと覆っていて、それだけを見ると宗教的だが、手にしている得物は金属バットに鉄パイプと、やたらと俗っぽい。対抗する組にカチコミに来たかのような反逆者達は声高に孝子、孝子と口にする。

 ああ、うるさいうるさいうるさい。

 どうして、そっとしておいてくれないのか。

 

「孝子!」


 暴徒集団から一人が躍り出る。


「うるさい!」


 ざわり、と手入れしていない髪が宙に浮く。


 と同時に、前に出てきた男の首が勢いよく回転し、シャンパンコルクのように弾け飛ぶ。


 カタン。


 ――と、何かが石畳に落ちる。


 それは、紐を通されたシルバーのリングだった。


 たった今、首を捩じ切った男が首から下げていたものだろう。


「え……」


 恐る恐る、端に転がった頭部に目を遣る。


 三角頭巾の下から、苦悶に顔を歪ませた虎吉の顔が見えた。


「アアアアア……」


 実は孝子が黒服の男に連れて行かれて一方的に手切れ金を渡されたその後、虎吉は単身で正体を隠して教団に信者として潜入し、孝子の身柄を奪還する機会を狙っていたのだ。石の塔の最上階にいることまでは突き止めたものの幹部達のガードが固く、近づくことさえ出来なかった。そんな時にクーデターが起きた。虎吉はこの機に乗じて孝子を連れ出そうと、その辺りに落ちていた余った三角帽子を被り暴徒に紛れて塔を登った。この数ヶ月の間、待ち望んだ千載一遇のチャンス。

 虎吉は、孝子と再会することが出来たのだ。


 しかし、孝子がそんな事情を知る由もない。


 ただ、ずっと待ち焦がれていた最愛の人を、他ならぬ自分の手で殺めてしまった事実だけはよく分かった。


 瞬間、孝子は完膚なきまでに、壊れた。


「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」


 かつて人だったモノの発する叫びとも呻き声ともつかぬ響きは塔全体を震わせ、石造りの壁に亀裂を生じさせ、粉砕した。

 と同時に、暴徒達も、半殺しにされた幹部も、親も、他の信者達も、全員同時に首が飛んだ。

 そして、数千もの信者を抱えたカルト教団『円の会』は、たった一日で壊滅した。

 倒壊した塔や教団施設に横たわる無数の死体は全て首が捩じ切れていたが、唯一、首が繋がっていた死体があった。


 教祖の川町孝子だ。


 彼女は自らが殺めた深海虎吉の首を胸に抱いて正座した姿勢で、舌を嚙み切って死んでいた。


 孝子と虎吉の遺骨は深海家のお墓に埋葬された。


 虎吉の私物は遺族が処分し、彼が孝子を描いた『指輪』の絵は工場の同僚に渡った。


 その同僚は、一週間後に首が捩じ切れて発見された。


 絵は次にその同僚の親戚の手に渡った。


 一週間後、同様にその親戚も出張先のホテルで首が捩じ切れた死体として発見された。


 その後も怪死事件は続き、どうやら『指輪』の絵の持ち主に不幸が訪れることが分かった。

 その絵のモデルが、一日で全ての信者を死に追いやった円の会の教祖を描いたものだということも分かった。


 全ては怨霊――おタカさんの仕業だと。


 除霊依頼が名門・寺生家に来るまで、そう時間はかからなかった……。


呪怨(2003) 監督:清水崇 主演:藤貴子

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