リング The Ring
一枚の絵がある。
若い女性を描いたバストアップの肖像画である。
白い服を着た長い黒髪の女性で、身なりは質素だが顔立ちは目を見張るほど美しい。
彼女は自身の胸の前で左手を斜めに掲げていて、その左指には銀色の指輪が確認できる。
宝石も装飾もない、これまた質素なリングだが、彼女はどこか得意げだ。
この絵、『指輪』というタイトルが付けられている。
何の変哲もない絵だが――何と、巷では呪いの絵として知られている。
所持していると、一週間で持ち主は死に至ると言う。
捨てたり破いたり燃やしたりしても無駄で、いつの間にか元に戻ってしまう。
助かるには別の人間に譲渡するしかない。
そうしないと、一週間目に絵のモデルになった女性が持ち主の目の前に現れ、首を捩じ切ってしまうのだと言う。
モデルの名は川町孝子。
戦後の大怨霊と恐れられたおタカさんの、生前の名である。
彼女は遠州の港町にて戦後すぐに誕生した。
決して都会ではないが人が多く、まあまあ活気のある土地であった。
彼女の両親はそこで『円の会』という教団を経営していた。
父親が教祖で、母親が事務長。
戦後のドサクサに紛れて乱立された新興宗教の一つである。
教祖である父親は学こそなかったものの話術と人心掌握に長け、カリスマ性もあって組織はメキメキと力をつけていく。
カルト教団によくある手として教祖は未来予知や物質化、病気治癒、人体浮遊などの『奇跡』をパフォーマンスとして行っていたが、勿論そんなのは全て拙い手品に過ぎない。父親はあくまでただの人であった。
だが、娘の孝子は違った。
幼い頃から彼女の周りでは不思議なことがよく起こった。
近所の人の不幸を前もって言い当てたり、彼女に意地悪をしたいじめっ子が痛い目を見るようなことが度々あった。
噂を聞きつけた両親は当時超能力研究をしていた大学教授を呼び寄せ、信者の前で公開実験を行った。
結果は、成功。
彼女は真正の超能力者であると箔をつけられ、ほどなくして正式な二代目教祖になる。
若干十二歳の時の出来事である。
それ以来、孝子は学校にも行かせてもらえず、教団施設内で信者に囲まれて生活することになる。
孝子の予知は必ず的中したし、手をかざしただけで体の不調はなくなった。
絶世の美少女であった彼女は、そういった面でも人気を確固としたものにした。
教祖が二代目になってから二年で、信者の数は十倍にまで膨れ上がった。
両親は教団のためにますます娘を囲い込み、孝子は信者との接見すら制限されるようになった。
教祖の娘として生まれ、特異な自身の性質から教祖に担ぎ上げられた少女は、外の――普通の生活を知らない。
籠の鳥にとっては籠の目こそが世界の全てだ。
そこに不満も不安もない。
この世はこういうもの――孝子は、そう思っていた。
そこに、外の世界を教える人間が現れる。
貧乏な絵描きだった。
名を深海虎吉と言う――美大を出たものの鳴かず飛ばずで、恩師の紹介で教祖の肖像画を描くためにここにやってきた。
そんな彼の存在が、孝子の人生を変えることになる。
最初はお互いに緊張して必要最低限しか言葉を交わすことはなかった。
孝子にとっては久々に会う外部の人間でどう接したらいいか分からなかったし、虎吉にしても相手は地元で有名な若く美しい教祖様だ。馴れ馴れしく口を利くのも憚られる存在である。
しかし、元来二人とも明るく話好きな性格だ。
会う回数が増えるごとに会話の量も増え、仲良くなっていった。
そして。
若い二人は、恋に落ちた。
外の世界を知らない孝子にとって虎吉の語る話は全てが新鮮で、次第に憧れを抱くようになっていた。
いつかは籠から飛び出して、外の世界を自由に羽ばたきたい。
勿論、それが叶わぬ夢であることは承知していた。
今や円の会は教祖である『孝子様』によって成り立っていると言っても過言ではない。
外になど出られない。
それに、孝子には婚約者がいた。
親が勝手に決めた相手だ。
何でも地元の有力者の息子だとかで、要するに教団の地盤を強くするための政略結婚だ。
何度か会ったが、二重顎で短躯な上に自己愛と我が強いタイプで、とても好きにはなれなかった。
結婚なんてしたくない。
ずっと、虎吉さんといたい。
孝子は救いの手を伸ばし――その手を、虎吉は掴んだ。
そしてある夜、二人は逃避行を決行した。
駆け落ちというやつだ。
夜行列車を使ってその地域で一番栄えている地方都市に流れ付き、どうにかして保証人なしで入居できる格安アパートを見つけた。小さな金属加工工場の仕事にも就くことができた。
絵の道は諦めざるをえなかったが、趣味として続けていくことになった。ただ、画材を買う余裕などないし、そうでなくとも生活はカツカツだった。夜間、居酒屋の皿洗いでもしようかとも考えたが、それは孝子がNOを出した。これ以上、虎吉さんを働かせる訳にはいかない。自分が働く、と。
とは言え、今まで働いたことはおろか、ろくに義務教育も受けていない孝子に出来る仕事など限られている。
事情を知る工場の同僚・上司に相談すると、ならば路上占い師はどうだろうと提案された。
椅子とテーブルさえあれば出来るし、人の顔を見て未来や運勢を言い当てるのなんて、孝子にしてみれば簡単なことだ。何せ、本物なのだから。
幸い工場長の飲み友達に商店街の組合長がいて、その人の口利きでアーケード街の片隅で営業する許可はもらえた。
本物である孝子は厳密に言えば占い師ですらなく、だから占い道具の類も一切必要ないのだけど、それだと見た目が地味すぎるということで、加工不良で廃棄予定の金属の輪っかをそれらしくテーブルに置いておくことにした。霊力の宿った円環から覗くことで人の内面を覗く――という筋書きだ。
孝子も虎吉も最初はこんなの茶番じゃないかと不安になっていたが――これが、ウケた。
孝子の美貌と長年の教祖業で培われた話術とカリスマ性、そして何より言うことは全て的中するのだから、評判にならない方がおかしい。
半年と経たず『リング占い』は行列ができるほど評判になり、予約制になり、一年を過ぎる頃には空き物件を賃貸にして占いの館をオープンさせていた。
虎吉の工場での収入と合わせて、二人の暮らしにもだいぶ余裕が出てきた。
二人の駆け落ち生活が一年少し経った頃――虎吉は、孝子に指輪をプレゼントした。
プロポーズだ。
シルバーで、石も装飾もない質素な指輪だ。
勿論、孝子はそれを受けとった。
婚約兼結婚指輪として、二人はそれを左手薬指に嵌めた。
いや、厳密に言えば、虎吉は指輪は嵌めなかった。
作業の支障になるので指輪の類は禁止されていて、かと言って同僚たちのように頻繁に付け外しすると紛失しそうで怖かったので、紐に通して首から提げるスタイルにした。もちろん、孝子は普通に左手薬指に嵌めた。
そして、指輪を嵌めた妻の姿を、虎吉は描いた。
それが冒頭に出てきた『指輪』の絵だ。
つまり、この絵は孝子の幸せのピークを描いた絵ということになる。
ピーク――そう、幸せは永くは続かない。
二人の仲を裂く連中が現れたのだ。
言うまでもなく、円の会――教団の連中である。
政略結婚を蹴って失踪したカリスマ教祖の娘のことを、両親は諦めてなどいなかった。
むしろ、探偵や興信所を使って、孝子の行方を探し続けていた。
一応、虎吉もそれを警戒してプロポーズはしても籍は入れないでおいたのだが、すでにリング占い師の評判はその近辺では有名になっており、案の定そこから素性がバレてしまっていた。
いつものように占いの館で営業しているところを、突如現れた黒服の男たちに連れ去られる孝子。
激しく抵抗したが、男性複数人相手ではどうしようもない。
かくして、孝子は再び囚われの鳥に戻ってしまった。
孝子は何度も懇願した。
虎吉さんに会わせてください。
せめて会話をさせてください、と。
しかしそれは受け入られなかった。
教団幹部が言うには、深海虎吉には百万円を手切れ金として渡し、以降一切の接触を禁じたのだと言う。
虎吉は、その金を受け取った――らしい。
嘘だ。
そんな訳がない。
虎吉さんは金に目が眩むような人間ではない。
あの人は絶対に自分を迎えに来る。
孝子は確信していた。
だが、数日が過ぎても、虎吉は姿を現さない。
それでも孝子は待ち続けた。
来る。
きっと来る。
きっと来る。
そう、信じていた。
リング(1998) 原作:鈴木光司 監督:中田秀夫 主演:松嶋菜々子




