無意識の不安
歯磨きも朝食も終えて、ゆったりとした時間が部屋の中で流れている。朱羅が、くわりと大きな口を開けてあくびを溢すので、つられてあくびが出た。そのまま、ぱたりと畳の上に倒れこむとぼうっと天井を見上げる。まだ大したことしてないのに、心が騒がしくするせいで疲れたかも、なんて思いながら、そういえば今何時だろうとポケットに入れたままだったスマホの画面をつける。
「……え?」
そこに表示された時間が信じられなくて、まばたきをする。けれど表示は変わらない。次に軽く目を擦ってみても、やっぱり時刻は変わらなくて。
「ち、遅刻だ……?!」
「ん?」
「大学遅刻しちゃう!というか、朱羅も仕事だよね?!」
きょとんとした顔の朱羅に詰め寄る。確か空間を出るには、朱羅の力が無いと出られなかったはずなので。あわあわと慌てた様子の私を、朱羅はグイッと抱き寄せるとくつくつと喉を震わせて笑って。
「いや?もう仕事はしない。そもそも俺が特務外交部4課に所属していたのは、華を自分の領域に連れ込むことを黙認してもらう代わりに、華を見つけるまではその課の仕事を手伝う、という契約の元で働いていたからだ。それが成された今、働く必要はない」
楽しげな様子で、ツウッと輪郭を辿るように指先が動く。その感覚がくすぐったくて、首を竦めると、朱羅は小さく笑って。ちゅっという軽いリップ音を立てながら、鼻にキスを落とした。
「…えーと、私を朱羅の領域に連れ込むことを黙認してもらうってことは、つまり……どういうこと?」
遅刻する焦りは消えてくれないまま聞いた朱羅の説明で、さらに混乱した頭では、正しい結論が導けるはずもなく。気になった部分を口に出して繰り返しても、理解するまではいかなくて。朱羅に答えを教えてもらおうと、首を傾げる。甘えたように見つめる私の瞳を見つめ返した朱羅は、今度はグッと私の顎を持ち上げて。朱羅の誰もかもを魅了してしまいそうな黄金色の瞳と、視線が交わる。
「簡単に言えば、華をこの領域に連れ込んだことについて、誰からも文句は言われないってことだな。それに、ここから出す出さないは俺の選択次第ってことだ」
「……ちなみに、大学に行きたいんですけど、出してくれたりする?」
別に勉強が好きというわけでもないんだけれど、これは聞いておくべきだと思った。出してくれるかどうか、は今後に大きく関わってくるから。ドキドキしながら、朱羅の返答を待つ。しばらく考え込んだ後、朱羅が仕方なさそうに口を開いた。
「どうしても行きたいなら、考えなくもないが。昨日の様子を見る限り、そこまで大学が好きというわけでもないだろう?どうして、そんなことを言うんだ?」
「失踪した、ってなると後が面倒かなって。今日ちゃんと大学に行ってたらそのあたりは平気かなって思った、んだけど……」
それに、この領域にいるとスマホが圏外になってしまうのだ。実家で暮らしている私の親が心配しているはずだから、メッセージの返信をしておきたい、というのもある。私の煮えきらない返事を聞いた朱羅は、ジッと瞳を覗き込んできて。
「それだけじゃないな。華、正直に言ってくれないか?」
その言葉を聞いた瞬間、するすると考えていたことが口から出ていってしまう。口を抑えようと動かした手は、その動きを察知した朱羅の片手で、両方ともまとめて捕まえられてしまった。
「ほう?なるほどな、両親に心配をかけたくないと。俺が共に行って、結婚の挨拶をしてここに戻ってきても良いんだが……」
洗いざらい吐かされたことを恨みがましく見つめても、朱羅は気にした様子がない。それどころか、宥めるように頭を撫でてくるので、なんだか無性にイラッとした。
「朱羅と結婚するかどうかはわかんないけどね」
なんて、言ったのが良くなかった。突然、朱羅の空気が重々しく、息をするのも難しいほどの威圧感を放ちだす。
「ああ、すまない。うまく聞こえなかった。華、今の言葉、もう一度言ってみてくれないか?」
ゾワゾワと体の中を這い回る寒気と、ガンガンになる警鐘音に、呼吸が浅くなる。頬を撫でる手は慈しむように優しいのに、涙目で見上げた朱羅の瞳の中の瞳孔は開ききっている。
「ごめ、」
震える声の謝罪は、黙殺される。朱羅がこんなことをするのが初めてで、どうしたらいいかわからなくなって、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちていく。朱羅と結婚するかどうかわからない、というのは捻くれた私が口にした言葉で、朱羅と結婚したくないわけじゃなかった。けれど、それすらもうまく言葉にできそうになくて、喉の奥で呼吸がつっかえる。
「なあ、華。先程の言葉は本心か?」
がたがたと震える私に、やけに優しげな朱羅の声がかかる。それに必死に首を振って、本心ではないことをアピールしても、朱羅の威圧感は緩まない。
「朱羅、が」
つっかえつっかえ言葉を口にすると、耳を傾けてくれる気はあるのか、朱羅が言葉を促すように私の喉をくすぐるように撫でる。それすらも、どこか恐ろしくてぎゅっと目を閉じて、言葉を続けた。
「朱羅が、私よりも可愛い子を選ぶ、可能性だって、あるし…、そうしたら、結婚するかどうかわからない、でしょ?」
言っていて気がついた。どこか不安だったのだ。雪ちゃんを手酷く振っていた朱羅が、今も変わらず私を好きでいてくれているかわからなかったから。特務外交部4課に所属している朱羅は、人気があって、色々な人から好意の視線を向けられていると、講義のときに知ってしまったから。




