穏やかなはずの朝
「…?」
不意にジッと注がれる視線を感じて、ふわふわと意識が浮上する。けれどまだ眠たくて、起きたくないな、と思って。もう一度眠ってしまおうとゆっくりと呼吸を繰り返して、睡魔の尻尾を捕まえようとする。そのとき深く吸い込んだ空気に、好きな香りが混じっているのが心地よくて。ますます起きたくないなあと感じたのだけれど。顔にかかっていた髪を払いのけられたのか、さらっというかすかな音がする。そして、その髪を優しく耳にかけたのか、耳が少しだけこそばゆい。その感触にくすくす笑うと、優しい声が耳朶を打った。
「おはよう、華。そろそろ起きてくれ、朝食にしよう」
「ン……」
ぼんやりとはっきりとしない意識のなか、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、少しずつ視界が明瞭になっていって。愛おしそうな表情で私を見つめている朱羅と視線が交差する。
「おはよ、朱羅」
「ああ。おはよう。前のように、二度寝するなよ?」
からかうようにそう言った朱羅は、ゆっくりと私の髪を梳くように頭を撫でると、部屋から出ていった。布団から起き上がると、途端に朝のひんやりとした空気が触れて、ふるりと震える。私も身支度しなきゃ、と立ち上がると、じゃらっという音が耳を突いた。
「え…?」
見ると、手首には昨日と変わらず鎖がついたままで。それがついたまま寝ていたのもびっくりだ。けれど、手枷が着いているのが片手だけだったから、眠るとき邪魔にならなかった。だから忘れていたのかもしれないな、なんて考えて。
(朱羅が戻ってきたら、外してもらおう)
なんて、そのときは単純に考えていた。
*
スッと音もなく襖が開く。座ってぼうっとしていた私は、朱羅が戻ってきたと顔をあげる。朱羅の手にはお盆が乗っていて。
「朝食を持ってきたぞ」
「あ、うん」
朱羅が部屋に入ると、勝手に襖が閉じていく。自動ドアなわけでもないのに、どうしてだろうと疑問に思うと、それが伝わったのか朱羅はなんてことのないように、簡潔に説明してくれた。
「前も伝えたと思うが、式がいるんだ」
「えっと、それじゃあここは」
「お察しの通り、俺の領域だな」
そんなことを軽く言いながら、朱羅が置いたお盆にあるお皿には、おにぎりが何個も乗っていた。白くてつやつやしたお米はすごく美味しそうだ。でも、その前に身支度をしないと。歯磨きをしないと口の中の違和感がすごい。
「ねえ、朱羅。これ取ってくれる?」
「何故?」
「え…朝の身支度できてないから。歯磨きとかしたいし……」
「ああ、そうか。そうだな。気が利かずにすまない」
朱羅はそういえばそうかと言わんばかりの態度で、頷く。だからてっきり取ってくれると思って手首を差し出したのだけれど。
「華、少し動かずにいてくれ」
「うん」
その声に従って大人しくしていると、朱羅は立ち上がって部屋の隅にある、黒く塗られた箱から何かを取り出して私の正面に座った。
「華。まつげが顔についている。取ってやるから、目を閉じていてくれるか?」
「わかった」
穏やかな声でそう言われて、目を閉じる。まつげって目に入ったら痛いもんな。なんて暢気なことを考えて、朱羅からの目を開けていいという合図を待つ。頬をするりするりと撫でる感触が続いて。けれどしばらく待っても声がかからない。そんなに取りにくいのかな、と思ったその予想は簡単に裏切られた。
「……しゅら?」
動揺が声に滲む。がちゃ、という音が首元でしたから。その音に驚いて、反射的に開いた目に映ったのは、朱羅のうっそりとした笑みで。
「ああ、やはりよく似合ってる。手枷は今から外すから、そうしたら洗面所に行こうか」
朱羅は恭しい動作で、手枷を外してくれたけれど。混乱したまま、触れた首には硬質な感触と、鎖のひんやりとした感触があって。その鎖の端は、朱羅のすぐ近くに置いてある。それに手を伸ばす前に、朱羅がその端を握った。
「朱羅。これ、どういうつもり……?」
首から伸びる鎖に触れながら、朱羅の顔を見つめて問いかける。からかっているだけであればいい、そんなきもちで。けれど、朱羅から返ってきた返答は私をさらに混乱させるものだった。




