朱羅がいなくても明日は来る
開け放たれた窓から入り込んだ桃の香が、鼻腔をくすぐるのを感じて、私は大きく深呼吸をした。
「行ってくるね、朱羅」
机に飾っている簪に向けて呟くと、大学の教材を詰め込んだリュックを背負い込む。風が優しく頬を撫でたその感触が、朱羅が私の頬を撫でてくれているときの優しい手付きを思い出させる。それが少しだけ切なくて、ぐっと唇を噛み締める。朱羅のことだからすぐに迎えにきてくれると思っていたのに、気がつけばもう2年の月日が過ぎていた。
私がこの世界に戻ってきてしまった日。私が泣きながら呆然と立っているのを、近所の人が見つけて。あわや事件かと、警察を呼ばれかけたことを思い出して、小さく笑う。あの日泣きながら確認したスマホの示す日付は、あの世界に行ってしまった日と同じで。時間は僅かに30分くらいしか進んでいなくて。それでも、手の中にあった簪だけが、あの日々は嘘ではなかったのだと証明してくれていた。
その日は家に戻ってきてからは泣き疲れて眠るまで、ずっと泣き通した。枕に顔を押し付けるようにして、泣き声が外に漏れ出ないようにして。そうして朝起きてからすぐに洗面所に向かうと、誰にも見せられないようなありさまの顔が鏡に映って。歯磨きなどを済ませると、お目当てのものがあるキッチンに向かった。冷凍庫から取り出した保冷剤をタオルに包んで、熱を持ってパンパンに腫れたまぶたにそれを当てて冷やす。電気もつけずに、リビングのソファに座っていると、ガチャリという音と共にお母さんがひょっこりと顔を覗かせて。
「あら、おはよう」
「おはよ、お母さん」
お母さんは私が大泣きしていたことくらいわかっていたのだろう。声を抑えたといっても、きっと聞こえていたのだろうから。
「華、あのね」
どんな言葉が飛んでくるのだろう、と思った。それと根掘り葉掘り聞かれるようなことだったら億劫だな、なんてことも。ぼんやりとお母さんの言葉を待っていると、お母さんは今日の天気のことでも話すかのような、あっけらかんとした声のトーンでぽつりと言った。
「言いたくなったら言ってくれればいいし、言いたくないなら言わなくていいわよ」
「…え?」
それは、私のことを考えてかけてくれた言葉なのだとすぐにわかった。私が話したくなったらというのは、私が話さないという選択を取ろうとも気にしていないということで。驚きからまばたきを繰り返していると、お母さんはそっと私の頭を撫でた。その手付きは小さいころに、頭を撫でてくれたときと変わらず優しくて。
「でも、そうね……ひとつだけ教えて?華が泣いちゃった原因は、親がどうにかしてあげられること?」
その問いかけが脳に染み込んでいくと同時に、ゆるゆると首を横に振った。親でなくても、全世界の誰にも、どうにもできないことだ。それこそ神様でない限りは。
「じゃあ、お母さんは華がその感情をうまく処理できるまで祈ることしかできないわね。華のそのきもちが、いつかの華にとって良いものでありますように、って」
その言葉に、何故だかほろっと涙がこぼれ落ちた。お母さんはそれを見て仕方なさそうに、愛おしそうに私を見つめて微笑む。
いつかの私にとって、この記憶がいいものになるかはわからない。けれど、そうなればいいと、そう思えたから。わたしは、朱羅との記憶を自分の中で整理がつくまで抱え続けようと思ったのだ。それが、いつになるかはわからないけれど。
(結局、まだ消化できないんだもんなあ……)
心の中でぽつりと呟く。大学の講義中、あのときのことを思い出していたせいで、ずっと上の空だった。ノートもまともに取れていなくて、どうしようかな、なんて考えていると、スッと横からノートが生えてきて。
「見せたげるから、なんか飲み物奢って〜!」
「りょーかい。八重、今日は起きてたんだ?」
「まあね。華がぼうっとしてるの、男子の言う通りやっぱ未亡人ぽいな、って思って」
「未婚なんだが???」
「えへへ」
朱羅とのことがあってから、未亡人、なんて言われることが多々あった。大学に入ってからもそれは変わらなくて。隣に座っている八重は、そのことを正面切って聞いてきた唯一の人間だ。それがきっかけで友達になったのだから、つくづく縁って不思議だなと思う。
「そういや聞いた?」
「何を?」
「今日の就職ガイダンスさ〜、ずっと講師は秘密ですとか言って濁されてたじゃん?」
確かに、時間割ごとのお知らせを確認できるポータルサイトでは、外部から特別な講師をお呼びしておりますとだけしか書いてなかったなぁと思い出す。何日かに分けて行われる必修の就職ガイダンスのうち、今日だけがそのシークレットゲストが来る。どうせ元市長やらの偉い人でしょと人気のなかった枠だったから、他の枠よりも簡単に取れたのだけれど。
「それがさ」
ひそっと突然声を潜めた八重の声が聞こえるように、耳を近づける。さわっと呼気が耳元をくすぐるのがこそばゆい。
「来るの、特務外交部4課らしいんだよね」
興奮したような声音が抑えきれておらず、少しだけ大きな声。存外大きな声で話してしまったと、八重は慌てて周囲を見渡して。誰もこっちを見ていなかったことから、授業後の喧騒に紛れて消えたらしいと知って、ホッと息を吐いた。
「ねえ、八重。特務外交部4課って?」
生まれて初めて聞くその単語に、ひそりと声を潜めて問いかける。八重は知ってて当たり前のように話してきていたけれど、私はまったくわからないので。
「ハ!?マジで言ってる!?!?」
驚愕に満ちた声が、喧騒を切り裂いて響き渡る。流石にその声の大きさでは、周囲の視線を集めてしまって。恥ずかしそうにぺこぺこと頭を下げた八重は、私の腕を掴むと逃げるようにずんずんと廊下を早歩きで進んでいく。
(八重があんなに驚くほど、みんなが知っているはずの特務外交部4課。でも、そんなのあったっけ?)
ぼんやりと思い当たる記憶はないかと記憶を反芻していると、八重の目的地らしい場所に着いたのか、掴まれていた手首の力が緩む。八重はどうやら授業の関係で空いている教室へと、私を連れ込んだらしい。
「もう一回聞くけど。華、アンタ、特務外交部4課を知らないの?男女問わず年頃の人間の心を掴んで離さない、カリスマ性もあって美人でイケメンばっかりの!特務外交部4課のあの方たちのことを??」
「うん、知らないよ」
「よぉく、わかったわ…!そこに座りなさい!」
興奮してギラギラとした目をしている八重に、ピッと椅子を指されたので大人しくそこに座る。こうなった八重は熱がおさまるまでは、だいたいこのままだから。大人しく従った方が早いので。
「いーい?私が説明してあげるわよ、特務外交部4課のことを!!!これを知ってるだけで、あのコマの就職ガイダンスに参加する人間がどれだけ幸運かわかるんだから!」
自信満々なその様子に、苦笑いがこぼれた。




