朱羅の後悔 3
狐里はかなりの聞き上手だった。朱羅が思い出しながら話すせいで、内容がぐちゃぐちゃになってしまったと思ったときも、瞬時にまとめて「こういうことであってる?」と聞き返す。そのせいだろう、するすると色々な話をしてしまって。気がつけば約束していたときに話そうと思っていた話数よりも多く話していて。このままでは、帰る時間が遅くなると気がついた朱羅は、一鱗を交換したときの話をして終わりにしようと、息を吐いた。
「ん〜、話疲れてしもた?」
「いや、そうではないが。狐里が聞き上手だったのもあって話し過ぎた。そろそろ狐里が所望していた一鱗の交換をしたときの話をしようか」
「楽しい時間ってすぐに過ぎてまうんよなぁ」
国を傾けてしまいそうなほどの物憂げな顔をした狐里に笑って、言葉を音にしようと、すうっと息を吸い込んだときのことだった。
「ッ…?!」
朱羅は突然、心の臓をやわく撫でられたような心地がして、その場で立ち上がった。すぐにその感触は消え失せたが、嫌な予感だけが朱羅の心の中を這い回っている。
「朱羅、なんやあったん?」
狐里の問いかけが、どこか遠くに感じる。朱羅は嫌な予感が外れてくれればいいと思いながら、簪に込めた妖力を辿る。先程まで感じていた置かれているという感覚ではない。感覚を研ぎ澄まして見えたのは、びゅんびゅんと過ぎ去る木々の姿で。どうやら簪を持っている人物は、なかなかの速度で森の中を疾走しているらしい。触れている人間は、馴染みのある華の気配ではない。朱羅のつけた妖気が感じられないから。
「狐里、緊急事態のようだ。すまんが、続きはまた今度でもいいか?」
「わっちは約束さえ守ってくれるいうなら、いつでもええよ」
「恩に着る」
言い終えてすぐに駆け出そうとした朱羅に、はんなりとした狐里の声がかかる。
「そや!急いでるんやろ?狐の通り路つこうてって!」
「狐の通り路?」
「普段は狐しか使えんのやけど、今回は特例っちゅうことで。わっちはこれでも上位やからね。だぁれにも文句は言わせん」
狐里の合わせた手から、ぽうっと狐火が出たかと思うと、それはゆらゆらと周囲にも浮かび始めて。蒼い炎が、暗くなった空間を鮮烈に彩る。その炎は、ふわふわと寄り集まって、ひとつの大きな炎になってから、ぐわりと口を開ける。その向こうには、家が見えて。
「神有村に狐が行ったこともあったみたいやねぇ。直通で道が開けられた。商人になって情報を仕入れたりするんも、なかなかええお金になるんよ?」
くすくすと笑った狐里は、そう言いながら朱羅の背中を、炎の中に見える景色へと軽く押す。
「早く行ったりな。お嫁さん関係なんやろ?」
「次に来るときは、とっておきの油揚げを手に入れておこう。……重ね重ね、感謝する」
押されるまま、その景色の向こうに降り立つと、ふっと空気が変わったのを感じた。夜の冷えた空気に、寝静まった静けさ。森のざわめきは感じられず、ひっそりとした村の息遣いだけがそこにはある。振り返ると、ぽっかりと開いた空間が口を閉じていくところだった。その空間では、ひらりひらりと狐里が手を振っていて。そうして間もなく、スッと音もなく空間が閉ざされた。
「華の気配は……蛟のところか!!!」
探った気配は遠過ぎない距離にある蛟のいる湖のところにあった。簪と華の気配は別々にあって、未だ簪は別の人間が持っているとわかる。華は朱羅のあげた簪を取り戻すために、その人物を追いかけたのだろう。
「くそッ」
走りながら悪態を吐く。朱羅はそんなものどうでもよかった。華が自分のそばにいることのほうが、何万倍も重要なことだったから。簪は代が効くが、華の代わりはいないのだ。過去がどうであろうと、種族が違おうとも、朱羅のことを受け入れた存在の代わりなど。今後、もし同じような存在が現れようと、朱羅の心に残ることはない。華が朱羅にしてくれたことの二番煎じなんて、いらない。
——バシャン!
蛟の湖まであと少しのところで、鬼の状態のまま走り続けていた朱羅の耳に、水の音が聞こえた。それは、何かが水の中に飛び込んだような音で。朱羅の背筋が、氷が滑り落ちたかのようにゾワっと粟立ち、その嫌な感覚に虫唾が走る。杞憂であればいいと考えていた朱羅の目に映ったのは、封印が解けたらしい蛟と、一人の女。雪、と呼ばれている女は湖を見て、けらけらと笑っていて。
「何が」
あった?そう蛟に尋ねようとした瞬間、わずかに感じていた簪の気配と華の気配が、前触れもなく消えた。そのことに動揺する朱羅の、問いかけ途中の声が聞こえたのか、蛟がすうっと空間を泳いできて。
「朱羅!!!簪を追いかけた人間ちゃんが湖に…!それで、助けようと思ったのに」
「……」
「いないんだ…、この水の中のどこにも!!確かに飛び込んだんだ、でも、いない。まるで、そう。
——月に呑まれて消えたみたいだった」
朱羅の姿にあたふたとしながら言葉を紡ぐ蛟は、封印が解けたことで不安定だった精神が安定しているように見えた。おそらく封印が神としての側面を強めていたからか、信仰心の薄れが齎した悪影響だったのだろう。
「——いや、いい。わかっている」
「朱羅……?」
「華の気配は遥か遠くにある。星や月に手を伸ばすような、そんな感覚だ」
俯く朱羅の顔に髪がかかって、蛟からはその表情は見えない。けれど、その肩が微かに揺れ始めて。泣いてしまったように感じた蛟は、あたふたとその短い手を動かす。撫でようにも、朱羅は自尊心が高い。そのようなことを、仲が良いとはいえ、妖に許すとは考えにくかった。おとなしくその手を下げて、困り顔で見つめていると吐息のような音が聞こえて。いよいよか、と身構えた蛟が聞き取った音は、予想と違っていて。
「ハハ、ハハハハハ!!!」
狂ったような呵呵大笑。鬼の姿のままのそれは、妙な迫力がある。笑っていたかと思うと、ぴたりとその笑い声を止めて。ギロリとその場に残っていた、人間を睨みつける。
「ヒッ、鬼…!ゆ、雪を、騙そうとしてたのね!許せないわ!あの女も、そんなアンタに嫌気がさして身を投げたのよ!雪のせいじゃない!雪のせいじゃないわ!!」
頭を抱えて、言い訳を並べる女の矮小さに、ため息が出る。ああ、そうか。そうだな。華のために、人間たちに祝福された婚姻を結ぼうとしたのが間違いだった。人間如きの祝福など、妖の前では塵も同じ。祝われようとしたのが間違いだった。忌むべき存在の妖との婚礼なのだ、祝われるはずもない。
「そこの女。雪、と言ったな?」
呼びかけに、ひゅっと息を呑む音がする。それすらも朱羅を愉快な気持ちにさせるものでしかなくて。
「そんなに男に愛されたいのなら、お前は盛夏に行け」
「あ、い、いや、いやよ…」
「聞こえなかったか?雪、盛夏に行け」
女の手足がぎこちなく動き出す。距離はあるが、人間の足で歩けないものでもない。寝ずに丸一日歩けば、着く距離にはあるだろう。盛夏に売る、と聞くと女人は身を震わせる。盛夏は、怒号と酒と女と金とが入り乱れる街だ。まるで、祭りの夜のように。そこに入った女は、死ぬまで出られない。金で売買される商品にしかなれないからだ。成り上がれば客を選び、金を貢がせ、いい暮らしができるという夢を見られる場所だが、大半は使い古された道具のように捨てられていく街。それが盛夏だ。
「せいぜい苦しむといい。俺はお前を赦さない」
後ろ姿に呪詛を吐くと、何故かまた気分が高揚してきた。これはまるで、華から聞いた児戯のようだと思ったから。だから、あの児戯のるーるとやらに従うなら華は。
「あぁ、華、華、華!!逃がさない、逃がさないぜ?この俺から逃げられると思うなよ。お前には俺の妖気がたっぷり染み付いているんだ。何処に居たとしても俺にはわかる。なあ、ほんとの鬼ごっこってやつをしような。捕まったら最期、俺のものだ。ああ、ああ、楽しみだ。楽しみだなぁ、華。お前が嫁になるのが心底楽しみだよ。何処にも行けないように、囲ってやろうなあ」
俺にこんな気持ちを与えておいて、いなくなるなど絶対に赦さない。




