月が見守った、事の顛末
蛟の発している光が、徐々に暗くなってきているのだろう。だんだんと、目を閉じていてもわかる明るさではなくなっていく。それを感じてそっと目を開けると、雪ちゃんはまだ目を抑えて蹲っていて。対照的に、私は咄嗟に目をつぶったから、ダメージはない。
(大丈夫、見える……!)
それは、私に訪れたチャンスだった。今ならいけると、朱羅のくれた簪に駆け寄って。無事に取り戻せたそれを見てみると、どこにも壊れた様子はない。
「よかった、壊れてない……!」
そう、ほっと息を吐いたときのことだった。突然手首を、跡が残りそうなくらい強い力で掴まれて。
「雪のだってば!!!」
叫ぶような大きな声が聞こえたと同時に、掴まれた手首を力を入れてグイグイ引っ張られて。その力強さに、思わず顔を顰める。けれど、雪ちゃんは気にした様子もなく、変わらず簪をギラギラした目で見つめていて。簪を離さないように、ぎゅっと力を入れて握ろうと思っても、繊細な作りの簪を壊してしまいそうで、なかなか思い切れない。ただ、雪ちゃんより数センチは私の方が身長が高いので、上に持ち上げることでどうにか届かない場所にまで持って行けそうだと思うのだけれど。
「は、なしなさい、よ!!!」
なかなか、思うようにはいかなくて。いまだにもつれあうような攻防を続けている。それに苛立ちが募ったのか、イライラとした雰囲気を隠しもせずに、いっそ怖いくらいの声で雪ちゃんは私を怒鳴りつける。こんな人に、朱羅の想いが込められている簪を奪われたくない。それに、朱羅は私のために作ってくれたのだ。だから譲れないし、奪わせない。
「ハァ、やめなよ。みっともないな」
緊迫した空気を切り裂くように、涼やかな声がして。声の出所を目線で辿ると、そこには何回りも大きくなった蛟がいた。けれど、この声は私にしか聞こえていないはず。そう思ったのに、雪ちゃんは愕然とした顔で蛟を見ていて。
「う、嘘よ。神様なんていないはずよ!!だって、それなら、どうして?」
混乱しているのか、ぶつぶつと文章にもならない言葉をつぶやく雪ちゃん。簪を掴んでいたはずの手は、冷や水でも浴びせられたかのように震えていて。いっそ心配になるくらいだったのに、蛟はその雪ちゃんの様子を見て、鼻で笑った。
「ハ、なに?今更後悔してるの?ボクはもうこの村を守護する理由がない。封印は解けたからね。ボクを敬ってくれてた先祖の頃ならまだしも、かけらも信仰してない強欲な人間たちに付き合うのも辟易としてたし。ちょうどよかったよ」
嘲るように笑った蛟は、その体躯に見合った尻尾をおちょくるように、ふりふり左右に揺らす。それがどこか挑発しているようにも見えて。性格悪いなあと感じていると、ニヤッと牙を覗かせて、意地悪な笑みを浮かべて雪ちゃんにとどめを刺した。
「そうだ。ちゃんとそこの人間がいうんだよ。私のせいで封印が解けて、もう二度と雨乞いで雨は降りません、てね?」
そのセリフは、明らかに雪ちゃんを見つめて言われたものだった。悪意の見えるその言葉は、どことなく恨めしそうな響きを隠し持っていて。雪ちゃんが神饌を盗み食いしたことを根に持ってるんだなと、わかった。
「もう、いいわ」
突然、色を無くした声が落とされた。目の前にあるすべてが興味の対象から外れてしまったみたいに、凪いだ声。顔に浮かんだ表情も同じように凪いでいて。感情が読み取れない。
「雪が、ぜんぶわるかったってことでしょ?選んだすべてが悪手ってこと?もう、考えるのもいや」
迷子の子どものように、標を見失ったきもちの吐露だった。考えようとして、どうせ失敗するからと匙を投げ出した研究者のように、深い絶望に染まり切った言葉たちが、空中へと投げ出されていく。
「全部なくなればいい。そしたら元通りになるでしょ?」
「……え?」
蛟と会話をしていくうちに、雪ちゃんの力が抜けていたことで油断した。力なく呟かれた、諦めに染まった言葉が聞こえたと同時に、スッと手から簪を盗られてしまって。あっ、と思った時にはもう遅かった。
「あんただけでも死ねばいい」
簪が、月光をきらきらと反射する。その綺麗な光は、放物線を描きながら宙へと舞った。放物線の終わりは、湖。
「嘘でしょ?!」
そのことがわかった瞬間、頭は真っ白になったのに、体が勝手に動いた。蛟の叫び声も、どこか遠く感じる。視線は簪から動かさないし、動かせなかった。スローモーションに見える世界で、伸ばした指先が簪に触れて。それを手繰り寄せる事ができて、ようやく少しの思考能力が戻ってきた。
(湖に、落ちちゃうな)
そう考えて迫り来る湖面を見つめて。その鏡のような湖面に私が映り込んだ瞬間、まるで時が止まったかのようにすべてが止まった。動かせるのは、視線だけで。嫌な予感は遠ざからないけれど、湖面の私を見つめる。そのとき、湖面の私の口が言葉を象った。
「これが、三つ目の選択」
その言葉を理解した瞬間、ハッとした。そう、そうだ。この条件下で、私がこの湖に飛び込んだ場合、おそらく夢の中の元の世界に戻る条件を満たす。私が簪を求めて、湖に飛び込むか否か。それが三つ目の選択だったのだ。そのことに気がついた途端、湖面の私の口元が笑みの形に歪む。
「ばいばい」
その言葉と同時に、バシャンと水飛沫を立てて、私の体は湖へと沈んだ。すぐに浮き上がろうとして異変に気がつく。まったく浮力を感じないのだ。それに冷え切っているはずの水に触れているはずなのに、その水の感覚もない。代わりに、薄い膜を潜り抜けるかのような感覚がして。体は少しずつ、少しずつ、水底へと沈んでいく。苦しくはないのに、意識が少しずつ遠のいていって。
朱羅、怒るかなあ。
それとも、悲しんでくれるかな。
そんなことを考える合間も、朱羅と初めて会った日から、今日までの記憶が泡のように浮き上がっては消えていく。
繋いだ手の感触も、抱き寄せられたときに感じる力強い腕の感覚も、朱羅の蜂蜜みたいに甘く蕩ける瞳も、ドキドキしながらキスした感触も。ぜんぶぜんぶ、思い出せるのに。それらすべてにもう一度が来ないことが、こんなにも悲しくて。ふたりで過ごす明日が来ないことが、胸が苦しくなるほどいたい。
(私、いつのまにかこんなに朱羅のこと好きになってたんだ)
悲しくて涙が出たはずなのに、それすら溶けて消えていく。強くて優しくて、ちょっとだけ寂しがり屋な朱羅を置いていってしまう。
でも朱羅には、蘇芳さんも蛟もいるから。
だから、きっと大丈夫。朱羅なら大丈夫、だよね?
祈るような気持ちにも似たそれに、暗闇の中で微笑って。
だってきっと朱羅は、私がいなくても変わらずに生きていけるから。強くて、優しくて、魅力的な存在だから。私がいなくなったら、もっと素敵な人が朱羅の前に現れるはず。
そこまで考えて、未練たらしく後悔してる自分を嘲笑した。
ねえ、朱羅。初恋は、叶わないって本当なんだね。
――不意に柔らかな桃の香りが鼻腔をくすぐった。不思議に思いながら目を開けたとき、私はまるで転んだところから夢の中にいたかのように、この世界に来る前にいた桃園の近くで立ち竦んでいた。手の中には、あのときと同じようにスマホがあって。どこか冷たくて固い感触が、ここが現実であると知らしめるようだった。




