朱羅との明日のために
私の言葉への返答は、すぐには返ってこなかった。しばらくの間、私たちの間には沈黙が横たわっていて。そういえば、外国ではこういう静かな時間のことを、天使が通るとか言うんだっけ、なんて。気まずさを誤魔化すように思考を飛ばしていると、朱羅の手がもう片方伸びてきて、私の頬を両手で固定して。
「?…〜〜っ?!?」
突然そんなことを無言でされたものだから、意図を尋ねるように、こちらも無言で、こて、と首を傾げる。けれど、朱羅はそれを合図になにかの箍が外れたのか、いきなり深くくちづけてきた。口の中に突然侵入してきた朱羅の舌は、驚いて固まる私の舌を優しく撫でてから、上顎をくすぐったり、歯列をなぞったりと好き勝手に動いて。そうして再び私の舌のところに戻ってくると、器用に絡め取って。私の舌を自身の口の中へと招き入れると、優しく吸い付いてくる。ぞわっと背筋が快感に震えて立てなくなっても、朱羅の手が頬を固定しているせいで逃げられなくて。
「は、かわいい…俺の…」
息継ぎをさせてくれるためにか、一度離れたとき、恍惚とした呟きが聞こえてきて。頭が真っ白になる。このままでは、朱羅の手練手管に流されることになるのでは。それを奇跡的に導き出せたことで、ばちんっと音が鳴るくらいのそこそこの力でもって、手のひらで朱羅の口を封じることができた。
「は、ちょっと、激しく、ないです?」
乱れる呼吸のまま、キッと睨みつけても、朱羅は申し訳なさそうな顔をするどころか、うっとりとした顔を崩さない。どろどろの蜂蜜のような甘い瞳が、朱羅の理性があと一歩のところで踏み外して帰って来れないのだと、雄弁に伝えてくる。咄嗟に突破口を探すために、周囲を見渡すと、一瞬だけ蘇芳さんの特徴的な薄墨色の髪が見えて。
「蘇芳さんヘルプ!じゃなかった、助けてください〜!朱羅が暴走してます!いいんですか!!!」
「吾的には全然おっけー?てやつなんだけど!」
「なんだ、蘇芳がいるのか」
蘇芳さんの返答が聞こえるや否や、切り替えたらしい朱羅の声はいつも通りで。先程の過剰なほどの甘さは残っていない。一方、蘇芳さんは甘い空気が霧散したのを感じ取ったのか、「失敗したな〜」なんて言いながら、こちらに向かって歩いてくる。その様子に肩を撫でおろして、朱羅の口から手を外したんだけれど。
「へ」
ちゅ、と軽いリップ音が鳴り響く。掠めるようにしてキスしてきた朱羅は、平然とした顔で何事もなかったかのように蘇芳に文句を言っていて。
「覗き見とは、随分といい趣味なようだが?」
「だって、今日村に帰ってくる予定だったし!そのわりには遅いなって心配してきたんだよ?!」
「それでいい雰囲気だから覗いて見ていたと?」
「まあね。吾だって空気が読めるんだよ」
「肝心なところで見つかってしまっては、世話ないがな」
驚きに固まっていたなかで聞こえてきた、ポンポンと行き交う言葉の応酬に、小さく笑みが溢れる。朱羅のきもちに答えたのだから、朱羅のことを気にかけている、蘇芳さんとのこういったやりとりも、きっと日常になっていくんだろう。
「その話は置いておいて、まず必要事項を共有するなり、村に戻るなりしませんか?」
2人のヒートアップするやりとりに水を差すようにそういうと、ぴたりと2人は言葉を止めた。
*
蘇芳さんがもたらした追加情報は、衝撃的なものだった。小春さんたちの反論は、村八分を持ち出した村長のせいで口をつぐむしか無くなってしまったこと。そのせいで、実質放蕩息子こと利市に嫁がされそうなこと。けれど、それを拒否したなら生贄にすると確定したこと。どれも私の意志はどこにもなく、利市さんと雪ちゃんの狙ったようにことが運ばれてしまったように思う。
「やっぱり、私が村にいないせいで……?」
「いや、あいつらの事だ。いたらいたで、すぐに強行策に出ていただろう」
「そうそう!むしろ朱羅の領域にいたことで不干渉だったし。その様子だと朱羅のこと受け入れたみたいだからね」
少しだけ暗くなった思考を励ますように、朱羅が否定の言葉を紡ぐ。それを後押しするかのような、蘇芳さんのあっけらかんとした様子も今は心強くて。
「まあ、物があるぶん、こちらの言い分のほうが有利だよ。流石に村の長とは言え、反論材料があってはね」
朱羅から貰った簪に目を向けた蘇芳さんは、そう言って微笑む。村に戻って、私と朱羅の邪魔をさせないように、頑張ろうと思った。
「前にも言ったけれど。私はもう、朱羅とのことは誰からも口を出されたくない。雪ちゃんと利市さんに隙があると思われたくない。だから、闘うよ」
あのときと同じような言葉を口にして、私の闘志を固める。私は、朱羅がいるからこの世界を選んだのだ。その理由を失うわけにはいかない。
「俺は俺で、華とのことを認めてもらうよう立ち回る。最悪、蛟のことを選べ。なんとでもなるから」
「吾が出ちゃうと、流石に人間ちゃんが不利になりそうだから、引っ込んでおくよ。鬼とつるんでる、なんて人間ちゃんを排したい村の人間からしたら絶好の言い訳になる」
「まあ、俺も鬼なんだがな?」
緊迫した場の空気を適度に緩めようと、朱羅が意図的に口にした言葉は、笑いを誘って。くす、と小さく笑うと、愛おしそうな目が私を見つめた。
「心配するな。どうにもならなかったら、そのときは、またここに戻ってこよう。俺は華さえ無事で、共にいてくれれば村のことなんてどうだっていいから」
「うん。何があっても、絶対朱羅のところに戻る。約束する」
「ああ。約束、な」
言葉と共にするりと小指を絡ませる。この世界では、まだ私が伝えた朱羅しか知らない、約束の儀式。でも飲むのは針千本じゃなくて、相手のお願いごとだ。なんでもひとつ、相手の望むように。
「それじゃ、話もまとまったようだし?陰謀渦巻く神有村に行ってらっしゃい!吾はここで、2人の帰還を待たせてもらうから」
「俺の領域に居座ると?まあ、世話は式に頼むだろうからいいが。式を散らかすなよ」
「流石に癇癪起こしたりなんてしないって」
「妖界の旅館に泊まったときに、式を八つ裂きにしたやつがよく言う」
「それはあの式が!」
なんて反論する蘇芳さんの声は、朱羅に包み込むように抱き込まれたことで、すぐに聞こえなくなって。ぽわんと膜を通り抜けたような感覚がした。その後すぐに、鳥のさえずりが聞こえて。ひんやりとした森の空気が肌を撫でた。
「よし、行くか」
そうして、朱羅の腕から降ろされたときお母さんの声がして。
「これが、二つ目の選択」
そう耳元で囁かれたような気がして、バッと振り返る。けれど視界に広がるのは、鬱蒼と茂る木々だけで。
「華?」
少し先で朱羅が足を止めて、不思議そうに私を見つめている。耳に残るようなそのささやきは、否が応でも蘇芳さんの残したアドバイス、三つの選択について思い起こさせる。
「なんでもない!」
けれど今の私には、次に来る三つ目の選択のことはわからない。その声を振り切るように頭を振ると、朱羅の元へと小走りで駆け出す。そうすると、しゃらしゃらと揺れる簪の音が、あの声を上書きするようだった。




