冗談です、おにいさん
朱羅がどこかに向かって迷いなく歩いている最中も、何度かどこに向かうのか聞いたけれど、着いたらわかるとしか返してくれなくて。結局行き先はわからないまま運ばれている。朱羅のことだから、危険がある場所とかではないんだろうけれど。
「あれ……?」
ひく、と鼻がかすかな匂いを拾う。それはツン、としていながら、鼻の奥でわだかまるような匂いで。例えるなら、草津の近くをバスで通ったときのような……。そんな独特な匂いがする。そう考えたとき、突然行き先がポンと頭の中に浮かんできた。
「もしかして、温泉に行こうとしてる?」
「なんだ、もう気がついたのか。行こうとしてるというよりは、家の風呂が温泉の湯なんだ。俺の領域だから、そこのところは融通が利く」
ほら、着いたぞ。その言葉と共に、私を持っていない方の手で朱羅が引き戸を引いた。扉の向こうには、入浴施設にあるような脱衣所が広がっていて。棚に籠まで置いてあるのだから、ますますそれっぽい。
「……ひとりで入れるか?」
きょろきょろと周囲を見回していると、朱羅が躊躇いがちに尋ねてきて。お風呂なんて、元の世界では入浴施設などならいざ知らず、お家で入るときはひとりで入るものなので。問題あるわけがないと自信満々に頷いた。
「それならいいが……転ぶなよ?」
本当に大丈夫か?というきもちが透けて見えるような声音や表情に、そんなに頼りないかなあと思いながら頷く。元の世界と違ってシャンプーとかトリートメントとかはなくても、髪をお湯で洗えるだけでも違うので。自然と心が弾む。その様子を確認した朱羅は、小さく息を吐いて。それから棚からごそごそと何かを取り出して、私に差し出した。
「?」
「妖界にいる毛倡妓が作った洗髪剤だ。日々使うことで、髪の手触りが良くなるんだと。華の髪には必要ないかもしれないが。良ければ使うといい」
朱羅から渡されたのは、陶器でできた手のひらサイズの壺みたいなもので。洗髪剤はその中に入っているらしい。驚きのあまり、視線が朱羅の顔と壺を行ったり来たりして。
「えっ、いいの!!!!?」
「すごい喜びようだな……」
ようやく出た声が大きすぎたのか、若干呆れたような朱羅の言葉すらいまはどうでも良く感じる。この世界ではお目にかかることのないだろうものだと思っていたので、その喜びは言葉にできそうにない。シャンプーもトリートメントもないせいで、だんだんと毛先がパサついてきていたから、すごく嬉しい。
「髪に塗って流す、だったかな。蘇芳が一時期髪の手入れに熱中したときに、山のように貢がれていた残りだ。蘇芳のように髪の長くない俺にも、勿体無いからと押しつけてきたのをそのままにしていたんだ」
「その話も興味あるけど、毛倡妓って?」
「遊郭に出る髪の長い女の妖怪だな。普段は人間を脅かすために、あえてぼさぼさの髪にしているんだが。妖界にいるときはそのときに手入れできなかった分も丹精込めて手入れをしているから、こういうのがある」
へえ、と頷きながらも、毛倡妓について少し疑問に思う。そんなに丁寧にお手入れをするくらいなら、あえてぼさぼさにしなきゃならないのに、人間を脅かす必要ってあるのかなあ、と。
「どうしてそんなに手間をかけてお手入れするのに、ぼさぼさの髪にしてまで人間を脅かすの?」
「毛倡妓は、人間の変な悲鳴を聞くのがおもしろくて脅かしてるんだ。驚きかたは人間の個体によるからな」
「あ〜、なるほど。鳴き声の出るおもちゃ的な?」
「そんな感じだ。ちなみに変な悲鳴だと人気の人間は、何度も脅かされるせいで精神がおかしくなるか、無反応になる」
「そ、そうなんだあ」
朱羅の話のオチなんだろうけれど、なんと言えばいいかわからなくて微妙な相槌を返したところで、カコンッとどこかで鹿おどしが落ちる音がした。
「……ゆっくり浸かって温まってくるといい」
「あ、うん」
「あまりに遅いようなら様子を見に来るからな。のぼせるなよ?」
気まずい空気を感じ取った朱羅はそう言うと、踵を返して、すたすたと脱衣所の出口へと向かう。朱羅が出て行くのを確認してから脱いで入るつもりで、黙ってその背中を見ていたんだけれど。
「……本当に大丈夫か?」
出口付近でくるりと振り返った朱羅が、またもや同じことを重ねて聞いてくるので、だんだんとおもしろくなってきてしまって。
「あはは、大丈夫だよ。元の世界では毎日入ってたんだから!そんなに心配なら一緒に入る?」
ほんの少し朱羅をからかおうと口にした言葉だった。けれどすぐに、あ、失言したかもと思った。なぜなら朱羅は、私のその言葉を聞いた瞬間、ずんずんと距離を詰めてきて。
「言ったな?なら、湯帷子を持ってくるから少し待ってろ」
そう言ってそそくさと戸を閉めて出て行ったので、数分前の私のバカと大声で罵りたくなった。




